あと1年で漫画家になる。新人賞30回落選のあたしを、消えかけの稲荷神が鍛える 作:鳳 雛
月狐の結界に作られた神社の床几《しょうぎ》に座り、長鳴実門《ながなきみかど》は缶チューハイを飲みながら、夜の月を眺めていた。一部が雲で隠れて三日月になっている。欠けている部分がある。まるで実門の漫画と同じだと感じた。
満点ではない欠点がある。でもそれが、何かはわからない。
結界の中に上芝結《かみしばゆい》が入ってきた。いつもより少し遅い登場に実門は駆け寄った。
「珍しいわね。個別指導の帰り?」
「そうですね。少しわからないことがあったので時間が掛かりました。それと、これ誕生日おめでとうございます。遅れましたが、間に合ったようで何よりです」
実門の腕を見て、安心したように結は息を吐いた。
「わあっ、これエルメスじゃないの。こんな高級な時計、受け取れないわ」
「気にしないでください。ずっと欲しかったと言っていたじゃないですか」
「でも、それはまだ先の話だと思って。それに結にもらうなんて想像もしていなかったわ」
「箱と証明書はとっておいてください。もし、必要がなくなった時に買い取りの査定に響きます」
「こんな証明書一枚で売値が変わるの」
「えぇ。10万は変わりますよ」
「ひぃ。やっぱり、受け取れないわ」
「そうですね。では1年後に雑誌連載できていなければ返してください」
「……わかったわ! この時計にふさわしい作家になってみせる!」
「素晴らしい心意気です。それにしても月狐《つきこ》先生、いつもより遅いです」
「そうね。もう10分も遅刻しているじゃないの!」
「なんや、面白い話しとるなぁ」
「あっ、お月ちゃん。ごきげんよう」
紫の煙から現れた月狐は、何やらにやにやとしている。一尾の尻尾を左右に振っている。床几に飛び乗ると香箱《こうばこ》座りをした。実門が月狐に訊いた。
「今日は何を教えて欲しいんや? 今の自分の課題は何やと思う?」
「そうね。やっぱり『魔女ソフィーの助手』がプロには通用しないって言われてしまったことかしら。せっかく、お月ちゃんに教えてもらった要素を意識的に取り入れたのに」
「オレも読ませていただきました。ストーリーは良かったと考えます。ただ、キャラが弱かったような気もします」
月狐は空中に『水が入ったコップ』を描いた。中には氷が入っており冷たい水だと実門は思った。
「この水の価値を極限まで高めるにはどうしたらええ?」
「ブランド物にするとかどうかしら? あたしが今身につけている腕時計もブランド物よ」
「早速はめているんですね。お似合いです」
「だって、嬉しいもの」
実門は時計をはめた腕でタットダンスを踊った。
「結はどう考える?」
「そうですね。水が存在しない場所、砂漠や山とか。他には宇宙とかも水の資源が少なそうですね。高く売れそうです」
「考え方としては、結のが正解や。ブランド物の水も価値はあるがお金で買える。本当の価値はお金では買えないものなんや」
「夢とか友情とかかしら?」
「せや。今回教えるのは『価値の最大化』や」
「訊きたい訊きたい!」
「まぁ、慌てずに。時間はまだあるんやから」
「10分も遅刻してきたのですから、早く本題に入るべきでは?」
「そうやね……そろそろ教えたるか。今まさに実践したんやけどわかったか?」
「ん? どういうことかしら?」
「今まさに実践した。水のことですか。価値の最大化。お金では買えない。つまり……」
「あっ、わかったわ。時間じゃない? 時間が価値を最大化するために必須ってことかしら」
実門は腕時計をはめた左手を月狐に見せつけた。間違いないと確信しているドヤ顔だ。
「正解や。価値を最大化するには時間を使うんや」
「なるほど。水は人間が生きていくには不可欠です。そして、時間と共に水が欲しくなる」「要するに渇望感やな。読者の興味を惹きつけておいて、見せるまでの時間を長くする。そうすることで読者は先の展開を読みたくなる」
「うーん、難しいわね」
「空腹は最高の調味料っていう話は聞いたことあるやろ? 物語も同じや。最初に、最後がどうなるか気になるように設定するんや」
「物語の中心になるような問い……そして最後にその問いに答えが出る。――ってことですか?」
「流石は結や。それはハリウッドの脚本術では『セントラル・クエスチョン』って呼ばれているんや。中心となる問いやね」
「頭が混乱してきたわ」
「まとめるよ。主人公の欲しいものは簡単には手に入らない。手に入れられるかどうかを読者に焦らして引っ張る。最後にようやく手に入れる。」
「……三幕構成みたいじゃないかしら?」
「鋭い。その通りや。これも三幕構成に対応してんねん。ただ、今回の話は物語全体じゃなくて、どんなことにでも使える方法ではあるんや。『抑圧と解放』と覚えておけばええ」
「抑圧と解放。まだピンと来ませんね」
「ほんなら、30秒自分の身体を強く抱きしめてみ」
実門と結はそれぞれ自分の身体を強く抱きしめた。普段しない姿勢に実門は誰かに抱かれているような不思議な気持ちになった。
「もうええよ。腕を解放して身体が自由になった時にどう思った?」
「なんか気持ち良かったわ。思わず背筋を伸ばしちゃった」
「オレも窮屈な箱から脱出したような感覚ですね」
「それが抑圧と解放や。抑圧した時間が長いだけ、解放した時の気持ち良さが増すんや」
実門は結にもらった腕時計を見る。
「あたしずっと時計が欲しいと思ってたの。でも貯金もしないといけないし、友人との交際費もあるし、中々自分に投資できなかったわ。ずっと我慢していたの。だから……だから……うぅっ」
実門は顔を真っ赤にして泣き出すと両手で涙を拭いながらしゃがみ込んだ。嗚咽を発しながら泣く。ふと、顔をあげると結は目を閉じてハンカチを差し出してくれた。
「ずっと欲しかった時間が長いからこそ、もらった時に嬉しいんや。これは専門用語で『感情忍耐爆発』って呼ぶんやよ。プロのシナリオアナリストの『沼田やすひろ』先生の著書に載ってたんやけど」
「泣くまで喜んでくれて光栄です。時計は見えない時間という概念を視覚化してくれる特別なものです。オレも父親から譲り受けた懐中時計を持っています。時間を掛けただけ、成功した時に嬉しい気持ちが高まる。抑圧と解放。面白いですね」
月狐は尻尾を振ると空中に『アルプスの少女ハイジ』のクララが椅子から立ち上がる場面を映し出した。
「あっ、有名なシーンだわ。何度観ても感動する名シーンよね」
「そうですか? ただ、少女が車椅子から立っただけですけど」
「そっか。結は積み重なれたクララの気持ちを知らないから感動しないのね?」
「つまり、抑圧がない状態ということになりますね」
月狐は尻尾を振ると映像が消えた。
「野球とかサッカーのスポーツニュースをダイジェストで観るのと、現地で初めから観るのは全然違う。情報としては同じに思えるが体感が違うんや。だから、感動させるには抑圧と焦らしを意識することやな」
「じゃあ、『魔女ソフィーの助手』の問題点は、抑圧と解放が上手くいってなかったってことね」
「それだけやないけど、それも大きい問題やな。ソフィーと助手の関係がすぐに良好になってしまっている。もっと、2人の関係をぶつけ合うことで、最後に協力する方が効果的やったかもしらへんね」
「重要な考え方。とっても役に立ったわ」
「名付けて『クララ理論』とでも呼べそうですね」
「面白いやんけ。ところで、結の小説は順調か?」
「今は世界観を考えていたのですけど、小さな綻《ほころ》びが出て、最初から書き直してます。実質、白紙ですね」
「まぁ、結のペースでやればええわ」
実門は鞄から缶チューハイを取り出して、一口飲んだ。
「抑圧と解放かぁ。クララ理論。やっぱり、勉強の後の一杯は美味しいわ」
空を見上げると満月が、周囲の雲を照らしていた。