あと1年で漫画家になる。新人賞30回落選のあたしを、消えかけの稲荷神が鍛える 作:鳳 雛
神社の手水舎《てみずや》で柄杓《ひしゃく》を洗い、元の場所に戻す。手と口を清めた長鳴実門《ながなきみかど》は床几《しょうぎ》に座っている上芝結《かみしばゆい》の隣に座る。缶チューハイを開ける。
「ごきげんよう。結、作品の執筆の調子は?」
「傑作が書ける予感はあるのですが、究極の一行がまだ浮かばないんですよね」
「まだ一行も書けていないの? 構想はあるのかしら?」
「最高傑作になりそうです」
「自信があるのは良いことよね。あたしは今の作品に自信がなくて、ログラインも長くなっちゃった」
「ミカ姉《ねぇ》、まだログラインだけですか?」
「ううん、一応物語の流れは考えているの。ただ、今のままだと抑圧と解放が上手くできていない気がするわ」
「クララ理論ですね」
「物語をどんどん進めたくなっちゃうの。だから、すぐにキャラが仲良くなるのよね」
「読者を我慢させる時間が必要ということですか」
空に紫色の狐火が一つずつ浮かび、1箇所に集まると消えた。そこには月狐《つきこ》がいた。実門と結の元へ歩み寄ると床几の上に昇った。
「最近はどや?」
「今作っている作品のログラインが長くなっちゃったの」
「ふーん、で結は?」
「オレはまだ胸を張って出せる成果物はないですね」
「何が成果物やねん。どうせ、まだ一行も書けてへんねやろ?」
「一行じゃありません。一文字も書けていないのです」
「威張るなや」
「――で、今日はあたしの新作のログラインを聞いて欲しいのだけれど」
「あー、まぁそれは置いといて、最近あった驚いたことについて話さへん?」
「え、いや別にそんな話はしたくないわ」
実門は酒を呷った。酔った様子もなく、顔色は白い。鼻だけが赤くなっていた。
「いや、作家には純粋な感覚が必要や。鋭いアンテナを張って、この情報社会の中から作品の栄養になる要素を拾うんや」
「オレは新学年が始まって、新たなクラスが発表されたんですけど、自分より成績が劣っていた友人が、再び同じクラスになったことに驚きました」
「ほぉ、隠れて勉強して必死に結に追いついたんやな。ええ友人やんか、大切にしぃや」
「あたしは最近、ずっと病気で亡くなったと思っていた父親が、小説家だったっていう話を初めて母から聞いたの。過労で死んじゃったみたい。驚いたわ」
「実門の暴走して作品に打ち込む姿勢は父親譲りって訳やな。反面教師にすればええな」
「ええ、最近は睡眠時間を延ばしてるの。同居人の絵馬がちゃんと寝てるか確認しにくるのよね。おかしいでしょ?」
実門は嬉しそうに目を細めると、目尻で滴《しずく》が光る。
「ほんなら次はウチやね。
最近参拝客が増えてん」
「凄いじゃない! ずっと、あたしたち二人だけだったのに」
「どんな方ですか?」
「お婆さんや。車椅子に乗った夫の健康を祈っていた。ただ、見る分にはそんな長生きはせんやろうな。残念やけど」
「大切なパートナーを失うのね。哀しいわ」
「驚いたんは、お婆さん自身がもう長くなさそうやのに、他人の健康を祈ったことや。自分よりも大事な人のために」
「優しいお婆さんですね」
「ちゃんと賽銭も入れてくれたんやよ。百円もくれたんや。いつも十円の実門と大違いやな」
「悪かったわね。あたしは、貧乏なんだから仕方ないじゃない」
「オレは毎回一枚は入れていますね」
「結は多すぎるねん。ハードル高なるわ」
「さて、本題に入ろか。今回のテーマは『期待値』や」
「期待値? 聞いたことないわね」
「どれだけ期待するか? ということですか?」
月狐は実門の方により、顔を近づけた。実門は少しドキドキした。
「実門。今回の講義はどうやった?」
「そうね。驚いたことを記憶することの大事さ? みたいなことはわかったわ。でも、正直な話がっかりしたわ。新作のログラインを見てもらいたかったの」
「がっかりした。なんでや?」
「だから、見てもらえなかったから!」
「つまり、どういうことや?」
「……」
結が何かを言おうとしたのを、月狐は尻尾で止めた。
「あ、あたしお月ちゃんに『期待』していたのよ!」
「なるほど。それで期待値ですか」
「せや、期待があるから満足があるんや」
「前に月狐先生に教えてもらった『焦らし』とか、『抑圧』に近い考え方ですね」
「その通りや。あえていうなら『誘い』やな」
「誘い? 読者の気持ちをこっちにおいでって招くみたいなことかしら?」
「せや。例えば、学校で何かをする時にお調子者が一人くらいいたやろ? みんなの前で何かする際に、何をしてくれるのか想像して期待するやん? それが誘いや」
「それ、あたしじゃない! いつも文化祭で踊らされたわ」
実門は立ち上がるとカクカクとロボットダンスを踊り出した。結は一瞥すると呆れた表情でメモを取っている。月狐は実門の周りをぴょんぴょん跳んで嬉しそうだ。
「本題に入りましょう。その期待値について」
「せやな。期待値はあらゆるものに存在する。キャラクターに対する期待値。ストーリーに対する期待値。そして、作者に対する期待値」
「確かにあたしたちはあらゆるものに期待しながら生きているのね」
「そして、その期待が叶わなかった時にはガッカリする」
「読者がガッカリする物語は駄目ってことですか?」
「そうやない。ガッカリする展開はあってもええねん。問題は読後感や。ちゃんと期待に応えて満足させられれば問題ない」
「なんでもかんでも上手くいくのは予定調和って学校の先生に言われたわ」
「そうや、予定調和になると、物語の世界に作者の存在を感じさせるからアカンな。そういう時は『予想を裏切り、期待を裏切らない』表現をすればいい。これは漫画家の『板垣恵介』先生の言葉やな」
「『予想を裏切り、期待を裏切らない』、期待値にどう応えるのか。難しいわ」
「名言ですね。それと期待値……とても、大事な用語です。キャラに期待を誘う要素を設定する」
「ほな、実門の新作訊こか」
腕時計に目をやった。実門が結にもらったものだ。
「え、良いの? 時間は?」
「ちょっとくらい延長したるわ」
実門は張り切って鞄からクロッキー帳を出すと、ログラインが書かれているページを開いた。
「読むわね。――コホン。
『ルームシェア×勝負フェア』
犬猿の仲の猫系女子高生と犬系男子高生は両親が出張したためルームシェアすることになる。
『何かを決める時は勝負する』ルールを考案し、徐々に距離が縮まる。
男子が『自分が負けたら付き合おう』と勝負を挑む。女子は一生懸命勝とうとするが、負けてしまう。しかし、その必死な姿を見た男子から告白する」
言い終わると、実門はクロッキー帳を勢いよく閉じた。耳が赤くなっている。結は顎に手をやると、目を閉じる。月狐は今の内容を狐火で空中に描き出した。
物語の流れが動画のように移ろいでいく。
実門はチューハイを一気飲みする。空になった缶を踏み潰す。
「どうだったかしら?」
「いや、普通にええと思うよ。ルームシェアしている二人が喧嘩しながら仲良くなっていって、最後は勝負関係なしに恋愛関係になる。面白いやんけ!」
「ホント? やったぁ!」
実門は鞄から温くなったチューハイを取り出すと、飲み始めた。結はメモ帳に何やら書いている。書き終わると口を開いた。
「中々の出来ですね。猫系女子と犬系男子の性格の違いをどうやって表現するか。あとは、肝心の勝負の内容が決め手ですね。あと、幼馴染みなのだから、実は男子は小さい頃から女子が好きだったとか、将来結婚しようという約束をしていたとか、そういった要素があった方が説得力が出てくるかもしれないですね」
「結、凄い! それ採用よ。男子は小さい頃から主人公の女子が好きだった。でも、女子はひねくれ者で、人気のある男子を冷めた目で見ていた。でも男子は女子がずっと好きな気持ちを抱いていた。うん、そっちの方が少女視点でドキドキするかも」
「長くなるからログラインには入れなくてもええけど、物語に入れるのは賛成や! 結は自分の作品全然書かへん癖に、アドバイスの視点は鋭いやっちゃな」
「褒められているのか貶《けな》されているのか」
「でも、ログラインを聞いてもらえて嬉しいわ。これが期待値に応えられたことで生まれた満足感ってやつね!」
「読者の期待に応える。これはストーリーだけやなくてジャンルにも深く関係していることや。怖い気分になりたい時はなんや?」
「ホラーですね」
「笑いたい時は?」
「コメディ!」
「泣きたい時は?」
「ドラマでしょうか」
「そうや、それぞれに期待値があるやろ? あらゆる要素に関わる重要な問題やから、忘れんようにせなアカンよ」
「ありがとう存じます」
「勉強になりました」
月狐はちらちらと、こちらと賽銭箱に目をやっている。
「ほな、ウチが二人に抱いている期待値にも応えなアカンな」
実門は百円を賽銭箱に入れた。