境界の向こうを知っている   作:しょうりん

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首を寝違えたので初投稿です


見ない方がいい

黄昏時の街を1人の男が走っていた。

 

「あんのクソ上司ッッ!!」

 

本当だったらとっくに家に着いている筈の時間だ。

クソ上司に無理やり仕事を押し付けられて気がついたらこんな時間になってしまった。

境界もまだ治ってないってのに!

 

「くそっ……!」

 

男はさらに速度を上げた。

 

いつもの道だ。

駅から家まで、何度も通った道。

 

なのに。

 

走っている。

ずっと走っている。

それなのに、さっきから景色がほとんど変わっていない。

 

「……まさか」

時計を見る。

19時42分。

なのに夕日はまだ沈んでいなかった。

 

「……クソ……」

 

思わず漏れかけた言葉を、慌てて飲み込む。

ふざけるな!

なんで俺がこんな目に!

鼓動がやけにうるさい。

ナニカに聞かれたら、おしまいだ。

 

植え込みの奥から異音がする。

誰も乗っていないブランコが、風もないのにゆっくりと揺れている。

 

よく通る路地。

街灯の陰。

閉店した店の奥。

 

見慣れた暗闇の中にナニカがいる。

 

そのときだった。

 

「――おーい」

 

遠くから、声がした。

人の声だ。

しかも、こちらに向かって呼びかけている。

 

「……!」

 

黒い法衣に袈裟、手には数珠。

間違いない、坊主だ!!

 

「俺!ここに迷い込んじゃったみたいで…!助けに来てくれたんですよね!!?」

 

足音を隠すことも忘れて坊主に駆け寄る。

 

「……?」

 

何かがおかしい。

顔が、遠い。

見上げる。

 

まだ遠い。

 

「……もっと、見なきゃ」

 

なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。

ただ、そうしなければならない気がした。

もう一度、顔を上げる。

坊主の姿が、少しだけ大きくなった。

 

もっと上。

 

顔が見えない。

 

もっと。

 

――コキッ。

 

首から音がした。

 

首がさらに反る。

見なければ。

あの顔を。

ちゃんと見なければ。

 

首が悲鳴を上げる。

 

――ミシッ。

 

「もっと……」

 

空を見上げるように、首が伸びていく。

視界を覆い尽くす様に、異様に長い首が映っている。

それでも、それを異常だと思えなかった。

ただ、

 

 

 

 

 

    も っ と 見 な け れ ば

 

 

 

 

 

首が、反る

体の警告を無視して、曲がってはいけない方向に

だからどうした。

見なければならない。

見なければならない。

見なければならない。

見なければならない。

見なければならない。

見なければならない。

見なけれ――「見越したぞ!」

 

どこからか、鋭い声が響いた。

視界を覆っていた首が、唐突に消えた。

 

「――っ、あ、ああああッ!」

 

途端に、首を貫くような痛みが襲ってくる。

 

声の主は懐から、小さな紙人形を取り出した。

人の形をした、何の変哲もない白い紙。

それを男の首筋にそっと当てる。

 

「痛みよ、痛みよ、飛んでいけ」

 

紙人形の首筋に、細い亀裂が走った。

ぱきり。

紙はひび割れるように崩れ、指の間からさらさらと零れ落ちた。

 

「痛く…ない?治った…?」

 

「いや、治ってはいない、痛みを飛ばしただけだ。ここから脱出したらすぐに病院に行け」

 

「君は……誰だ? 見たところ、学生のようだけど……」

 

「まあ、そんなところだ。それよりも早く帰った方がいい。」

 

言いながら味噌を懐から取り出して、ライターで軽く炙る。

味噌の香ばしい匂いが、薄暗い街に漂った。

 

「……何をしてるんだ?」

 

「静かに」

 

問いを遮り、誰もいない路地の奥へ向き直った。

そして、そこに誰かがいるかのように、そっと味噌を地面に置いた。

 

「お願いします」

 

頭を下げる。

何をしてるんだ。

目の前には、誰もいない。

 

「ここから先、絶対に後ろを振り返るな」

 

「…は?」

 

「走るな。立ち止まるな。誰かに呼ばれても返事をするな」

 

言いながら塩を男に押し付ける。

 

「いや…え?」

 

「家まで真っ直ぐ帰って、玄関にこの塩を撒いて、『ご苦労様でした』と言え。そうすればあとは何も問題ない。」

 

「ま、待ってくれ……! ここからいくら歩いても出られないんだ!」

 

「大丈夫だ」

 

「でも……!」

 

「いつも通り歩けばいい」

 

「『送って』もらえるからな」

 

「…いや…どういう…え?」

 

首筋に、何かが触れた。

ぞっとするほど生温かい息だった。

 

「振り返るなよ、あとは帰るだけでいい」

 

男は言われた通りに歩き始めた。

 

一歩。

 

また一歩。

 

背後から、足音が聞こえる。

 

――ぺた。

 

――ぺた。

 

一定の距離を保ったまま、ついてくる。

 

走りたい。

今すぐにでも、この場から逃げ出したい。

けれど、走るなと言われた。

振り返るなとも。

 

歯を食いしばり、前だけを見て歩き続けた。

 

どれくらい歩いただろうか。

 

ふと、街灯の明かりが目に入った。

いつもの街灯だ。

何度も通った、駅前へ続く道の街灯。

 

その明かりの下に、見慣れた横断歩道があった。

 

「……あ」

 

思わず声が漏れた。

 

知っている場所だ。

 

間違いない。

ここは、いつもの道だ。

 

その瞬間、頭上の空が目に入った。

 

夜だった。

 

見上げた空は、どこまでも暗い。

雲の切れ間に、ぼんやりと月が浮かんでいた。

 

街灯が照らすアスファルト。

遠くを走る車のヘッドライト。

コンビニの窓から漏れる白い光。

 

どれも、見慣れたものだった。

なのに、ひどく懐かしく感じた。

 

「……帰って、これたのか?」

 

呟いた声は、夜の街に吸い込まれていった。

 

背後では、まだ足音が続いている。

 

――ぺた。

 

――ぺた。

 

男は、振り返らなかった。

ただ、前だけを見て歩き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

気がつけば、家の前に立っていた。

 

見慣れた玄関。

いつもと変わらない門扉。

窓から漏れる、暖かな明かり。

 

帰ってきた。

 

ようやく、帰ってこられた。

男は震える手で塩を取り出すと、玄関先に撒いた。

そして、恐る恐る口を開いた。

 

「……ご苦労様でした」

 

 

 

――ぺた。

 

 

 

最後に一度だけ、足音が聞こえた。

 




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