『諦めるのですか、梨花』
その声に、顔をあげる。
そこに、いつものように半透明の姿で、羽入がいるような気がした。
でもわかっている。
これは、本物の羽入ではないのだ。
羽入はみんなと沢で綿を流している頃だろう。
だから目の前のこれは、私の弱い心が見せる幻覚。
羽入がこんなに冷厳な眼差しで私を見下ろしたことなんて、ない。
いつも哀しげに、足掻き続ける私を見つめるだけだったはずだ。
『梨花には、なにもできないのですね』
そうよ、悪い?
羽入の力を持っていても、私には使いこなせない。
こうして手をこまねいているだけで、なにも……、なにも?
待て……。
待て、待て待て待て!
諦めるな、羽入はそう言った。
私にしかできないことがある、羽入はそう言った。
羽入にできなくて、私にしかできないことがあるはずだと言ったのだ。
考えろ、考えるんだ。
クールになれ、古手梨花。
羽入と同じことをやろうとしてもダメなんだ、私は羽入ではない。
ここにいるのはオヤシロ様であっても、古手羽入ではない。
確かに羽入でもこの運命の壁の前にはどうすることもできなかった。
でも、私にしかできないことがあり、それがこの壁を打ち破れる『何か』だというのなら……そう、わかったわ羽入。
大事なのは、決して諦めない心……つまり、不屈の心。
そう、不屈の心は、この胸に!
……オヤシロ魂、セットアップ!
『あぅ!?』
次の瞬間、私のまとう巫女服が分解し、光となって消える。
かわりに私の身体を包むのは、白と青を基調にしたワンピース。
オヤシロ魂もその姿を大鎌に変えた。
そう、これが、私にしかできないこと……!
オヤシロ魂、A.C.S.スタンバイ!
『あぅあぅあぅ、それ違うのです、シリアスなシーンでそんな無茶な方法を使っちゃダメなのです梨花ぁあ!』
なにか幻影の羽入がわめいているけど、そんなことはどうでもいい。
こんな運命、金魚すくいの網よりも容易く打ち破ってやる……ッ!
全力全開!
オヤシロ・バスタァアーッ!!
突きだした鎌の先端が結界の表面で火花を散らし、無理矢理にこじ開けていく。
声が違うから羽入には絶対にできない、この掟破りの力業こそが、私にしかできないこと!
『だから、違うのですぅ~……』
私の弱い心が見せる幻影が消え去ると同時に、結界は音を立てて砕け散り、私を阻む運命が崩れ落ちていくのがわかった。
勝った。
私は、この運命を作り出した何者かの意志に勝ったのだ。
今度こそ、真実を暴いてみせる……絶対に!
神通力を大量に消費したせいで息切れしながら、着ているものを巫女服に戻した私は、急いで入江診療所に向かった。
鷹野と富竹が何者かに襲われ、富竹がL5としか思えない症状で変死するとしたら、その現場は診療所となる可能性が高い。
幽霊っぽいくせに普通に走ることしかできないこの身体が恨めしいが、だいぶ時間を無駄にしてしまった。
とにかく急がなければ……つくづくフライアーフィンが欲しいわ。
完全に息があがる頃、ようやく私は診療所にたどり着く。
同時に、裏の職員用駐車場から車が出ていくのを目にした。
あの後部のぬいぐるみ……鷹野の車だ。
富竹は……!?
咄嗟に見回すが、富竹が雛見沢に来るときに愛用している自転車は見あたらない。
もうどこかで二人は別れたあとだろうか?
……なら、せめて鷹野だけでも!
私は駆け出して外周の植え込みをすり抜け車道に回り込むと、本能的な躊躇いを捨て去り鷹野の車の前に飛び出す。
壁抜けの能力を使って車内に飛び込み、後部座席に着地した。
乗っているのは鷹野一人のようだった。
後部座席には自転車……あれ?
型は同じだけど、この色は富竹のものではなかったか?
お祭りの余韻が残っているのだろうか、やや上機嫌な様子の鷹野は興宮の自分の家へと帰るルートを走っている。
やがて、車は舗装路に出る直前でゆっくりと停止した。
……ここは、確か……、富竹の死体がいつも見つかる場所!?
まさか、と思いながらも、車を降りる鷹野のあとをついて路上に降り立つ。
鷹野は車の後部へ回り、トランクを開いた。
……!!
そこには、意識のない様子の富竹が横たわっていた。
鷹野は低く笑みをこぼすと、苦労しながらも彼の巨体をトランクから引きずり出し、道路の端に横たえた。
富竹の自転車も草の上に投げ出し、軽く手を払う。
「これでお別れね、ジロウさん。五年目の祟りの幕開けになれるなんて、光栄でしょう?」
くすくすと笑いながら運転席へと戻る鷹野。
……ようやく、私にも事態が呑み込めた。
富竹殺しの犯人は、鷹野三四なのだ。
鷹野ならば、彼が雛見沢に入るたびにしている予防薬の注射に細工をすることも、急性発症させることも容易だ。
そして彼女が五年目の祟りの執行者だというなら……、なんてこと。
今まで私が味方だと思っていた山狗は、そっくり敵に回るじゃないか!
隠密行動に長けた山狗ならば、私みたいな小娘ひとりを拉致して殺害するなんてあくびが出るほど簡単なことだ。
ははは、滑稽な話だ。
私が最後の守りと思っていた山狗こそが、この数日後に私を殺していた犯人だったなんて。
私は富竹を見下ろしたが、彼は夢見が悪そうに呻いているだけだった。
疑心暗鬼に満ちた悪夢を見ているのだろう、もはや彼を助けることはかなうまい。
小さく謝罪の言葉を投げると、私は動き出そうとする車に飛び乗り鷹野の追跡を続けることにした。
富竹、あなたの仇、絶対に討ってみせるから!
鷹野は興宮へ降りる道の途中で脇にそれ、しばらく走ったところで路上に停まっていた大型車両に乗り換えた。
中にいたのは明らかに山狗のメンバーで、どうやらここは鷹野や小此木が山狗を指揮するための連絡車らしい。
雛見沢の各地や興宮にいる山狗たち、東京の諜報員などから送られてくる情報が飛び交うこの場所を突き止めたのは大きい。
私は出来る限りの情報とこれから行われるであろう作戦の概要を頭に叩き込むと、夜明け前にはその場をあとにした。
この身体なら眠る必要はない。
一刻も早く山を越えて雛見沢へ向かわなければならない。
伝えるんだ、鷹野の恐ろしい目的を。
女王感染者の殺害、その先にある破滅。
終末作戦……雛見沢の住人全てを虐殺するという、悪夢のような結末を!
幸い、この情報を確かな力に変えることのできる人物に私は心当たりがあった。
彼女さえ信じてくれれば、まだ事態は動かせる。
定められた結末を変えることができる!
「……それで、話ってなに?」
昼休み。
私の話を聞いた羽入は、彼女を校舎裏に呼び出した。
「魅音……富竹のことは、聞いていますか」
そう、園崎魅音。
鍵を握るのは彼女だ。
鷹野が死んでおらず、富竹殺しの実行犯だったということは、園崎家は潔白だということになる。
当然、村の全滅を園崎家が望むはずがない。
だから、彼女は信用できるはずなのだ。
「……うん。驚いたね、羽入がもう知ってるとは思わなかった」
「あぅあぅ……鷹野が、失踪したこともですか?」
「うん。でも、失踪じゃないよ。岐阜の山中で焼かれた死体が見つかったらしい」
それは他の世界で私も耳にしたことのある情報だった。
だが、鷹野が生きていることを私が確認している以上、これが偽装なのは明白だ。
「そ、それは偽情報なのです! 鷹野は生きているのです、魅音。そして、梨花……じゃなかった、僕を殺そうとしているのですよ!」
「へ? 三四さんが羽入を殺して、どんな得があるっていうの?……、誰ッ!?」
釈然としない様子の魅音だったが、羽入が続きを言う前に気配に気づいて振り返った。
「は、羽入が殺されるって……どういうことですの!?」
「穏やかじゃないですね~、お姉だけじゃたよりないんじゃないですか?」
「……二人とも。私たちにも、詳しく聞かせてもらえないかな、かな?」
沙都子に、詩音、レナ。
それに圭一もそこに立っていた。
「あぅあぅ……みんな……」
皆を巻き込むことを躊躇う羽入は圭一にすがるような視線を投げ、圭一が力強く頷く。
どうやら、圭一にはいつの間にか羽入がいくばくかの事情を話しているらしかった。
「……わかりましたのです。すこし長くなるので、放課後にしましょう」
羽入は放課後を待って皆をダム現場に連れだした。
傍目にはいつもの部活の一環に見えるだろうし、この場所ならばレナの庭のようなものだ。
山狗も遠巻きにしか監視できないだろうと私がアドバイスしたのだ。
羽入は東京についての話、雛見沢症候群のこと、鷹野が羽入を殺害し雛見沢の全滅を狙っていることなどを告げる。
特に最後の話は、圭一も初耳だったらしく驚いている。
「このままでは、僕は数日中に殺されて、村もみんなも道連れにされてしまうのです」
突拍子もない話を、どこまで信じてくれるだろうか……と祈るような気持ちで見つめていた私だったが、皆は思ったよりも冷静に羽入の話の疑問点や細かい点を問い詰め、おおかたは辻褄が合うことを確認すると、互いに頷き合った。
皆を代表して、魅音が立ち上がる。
「正直信じられないような話だけどさ……雛見沢全滅なんて聞いちゃ、笑ってすませられないよ。ここはひとつ、本腰を入れてかからないとね!」
「魅音……、あぅあぅあぅ!」
この世界はその瞬間にひとつ、壁を越えた。
私が何度やっても、越えられなかった壁を。
掴めるかもしれない、
……その先の、未来を!