秘封少女の多次元迷宮:四十二の不条理とホログラムの猫 作:ルルオメ
千年以上も長きにわたり霊的研究の歴史を積み重ねてきた古都であり、「神亀の遷都」によって首都としての機能を持つ京都。
世界的な人口減少の波を逆手に取り、「選ばれた人間」による繁栄を謳うこの都市は、私に言わせれば単なる綺麗に包装された無機質な箱庭に過ぎない。前時代的な乗り物とされて久しい自動車の姿はとうに消え失せ、誰にも補修されなくなったアスファルトのひび割れからは、茎と赤い花弁だけを持つ奇妙な花が我が物顔で顔を覗かせている。
ケープ付きのコートの裾を夜風に揺らしながら、私はその毒々しい赤い花弁をヒールで踏まぬよう巧みに避け、待ち合わせ場所である古びた交差点へと歩みを進めた。
「遅いわよ、蓮子。もう少しで私が予約していた合成イチゴのケーキの受け取り時間を過ぎてしまうところだったわ」
街灯の薄暗い光の下、フリルをあしらった白いブラウスに紫のワンピースという、およそ廃墟めいたこの区画には似つかわしくない清楚な出立ちのメリーが、ふんわりとしたウェーブヘアを揺らして不満を口にした。
「私の計算によれば、待ち合わせの時刻まであと45秒は残っているわ。それに、人工的な酸味と着色料で構成されたあの無機質なケーキのどこに、急いで駆けつけるだけの熱量を見出せばいいのよ」
「あら、天然物の存在感がすっかり薄くなった今の時代、あれでも立派なご馳走よ。蓮子みたいに、超統一物理学の難解な数式ばかり食べて生きているわけじゃないんだから」
メリーの専攻する相対性精神学と、私の専攻する超統一物理学。
観測できる最小限界まで観測し尽くし、もはや解釈と哲学を行うだけの終焉を迎えた物理学に未だにしがみつく私を、彼女はいつもそうやって意地悪くからかってくる。娯楽に乏しく、せいぜい新茶道くらいしか暇を潰す手段がないこの京都において、私たちが日常の退屈を紛らわせる手段は、世界に隠された「境界」を探求することくらいしかなかった。
「それで? 今日は一体どんな非科学的な妄想を私に見せてくれるつもりなの?」
「妄想じゃないわよ。結界の境目が、あそこに見えるの」
メリーが細い指先で示したのは、蔦に覆われた古びた雑居ビルの隙間、本来であればただの行き止まりであるはずの薄暗い路地裏だった。彼女の紫色の瞳には、私には知覚できない空間の断層がレイヤー状に重なって見えているらしい。
「私の計算によれば、あそこはただのコンクリートの壁よ。ひも理論における余剰次元の折り畳みが局所的に干渉している可能性もゼロではないけれど、だとしたらそれはオカルトではなく、ただの物理現象だわ」
「ふふっ、蓮子は本当にめんどくさいわね。理屈はいいから、ついてくれば分かるわよ。ケーキの前に、少しだけ寄り道しましょ」
得意げに微笑む彼女の論理の矛盾を、完璧な数式と物理の法則で完膚なきまでに打ち砕いてやりたい。その知的好奇心とささやかなプライドこそが、私の足を未知の暗闇へと踏み出させる最大の原動力だった。
ひび割れた壁の隙間に身を滑り込ませ、メリーに手を引かれるままに数歩進んだ直後。
私の視界は、物理法則すら置き去りにする完全な漆黒の闇へと落ちていった。
*****
「……っ、最悪だわ。何なのよここは」
視界を完全に奪う底知れぬ密室の中で、私は忌々しげに舌打ちをした。コートの裾を払い、暗闇の中で目を細める。
星を見ただけで正確な時間が分かり、月明かりの角度だけで現在地を看破する私の能力は、この分厚いコンクリートと次元の断層に隔たれた地下空間では何の役にも立たない。星の瞬きも月の光も一切届かない絶対的な情報不足が、私のこめかみをチクチクと絶え間なく刺激していた。
私は小さく息を吐き、コートのポケットから携帯端末を取り出した。暗闇の中で網膜を焼くようなバックライトの青白い光が灯るが、ディスプレイの左上には無慈悲な『圏外』のマークが点滅している。あらゆる病気の治療法が確立され、電波が届かない場所など未知の病の隔離施設くらいしかないこの現代において、完全に外部との通信が遮断されていた。
「通信衛星からの微弱な電波すらキャッチできないなんて。単なる地下空間じゃないわね。電磁波のシールド効果か、あるいは空間の曲率そのものが捻じ曲がっているのかしら」
私は端末を仕舞い、今度はヒールで床を硬く打ち鳴らした。
カツン、という乾いた音が闇の中に吸い込まれていく。しかし、いつまで経っても反響音は返ってこない。音波の反射時間を計測して空間の容積を割り出そうという私のささやかな試みは、音を完全に吸収してしまう特異な壁面材質によってあっさりと無効化された。
視覚が奪われ、通信も絶たれ、音による空間把握すら許されない。全ての事象は数式と理論で説明できるという絶対の自負を持つ私にとって、この「観測不能」という事態は、単なる恐怖を通り越して学術的な屈辱だった。
「落ち着いてよ、蓮子。暗くても、私の目にはちゃんと空間の境界線がレイヤー状に見えているわ。この部屋が完全な密室じゃないってことは保証するから」
この場にはあまりにも不釣り合いな出立ちのメリーが、隣から声をかけてきた。私には一寸先も見えないというのに、彼女の強靭なマイペースさは全く揺らいでいない。足元の埃を払うその軽やかな足取りからは、未知の空間に迷い込んだ切迫感など微塵も感じられない。むしろ、彼女の頭の中は「この後、無事に帰って美味しいケーキを食べられるかどうか」で大半が占められているはずだ。
「……結界が見えるからって、あんまり調子に乗らないでよ。私の計算によれば、あなたのその直感頼りの行動が事態を悪化させる確率は、常に八割を超えているんだから」
強がって皮肉を返してみたものの、物理的アプローチを完全に封じられ、メリーの視覚に頼らざるを得ない現状に対する苛立ちは、私の胃の腑で黒く渦を巻いていた。
メリーが偶然見つけた「未知の結界の隙間」の正体を、なんとしても物理法則で論破してやろうと意気込んで深入りした結果がこれだ。全く、とんだ知的探求の無駄遣いである。
私が苛立ち紛れに再び足先で床の硬さを確かめていたその時、突如として空間が明滅した。
ブゥン、という低い電子音とともに、部屋の中央にぽつんと置かれた台座にスポットライトのような青白い光が降り注ぐ。そして、その光の中からフワフワと宙を舞いながら現れたのは、一匹の「三毛猫」だった。
「……猫?」
二頭身で丸っこくデフォルメされたその三毛猫は、愛らしい肉球と尻尾を持ち、空中に浮遊している。実体のないホログラムだ。
その見た目の愛らしさとは裏腹に、三毛猫の口から発せられたのは、重厚なエコーがかかった極めて荘厳でインテリジェンスに溢れる老紳士の音声だった。
『よくぞ耐え抜いた、来訪者よ。いや、迷える知性体たちと呼ぶべきか』
ホログラムの猫は、自らを「多次元迷宮『
『当館の記録によれば、君たちはこの広大な迷宮の栄えある第1展示室へと足を踏み入れたようだ。私は稼働年数不明、宇宙創成期からこの真理の迷宮を管理している』
得意げにヒゲをピクピクと動かしながら、プリニウスは尊大な態度で語り続ける。そして、短い前足で台座の上を指し示した。
光に照らされた台座の上には、何やら四角い物体が、何の支えもなく空中にふわりと浮遊していた。
『これぞ全宇宙の真理。かつて大洋に沈んだ超古代文明アトランティスの反重力機関のコア……全宇宙のエネルギーを司る「聖餅」である』
仰々しいエコーと共に語られた壮大な解説。台座の上で浮遊しているその物体を凝視した瞬間、私は無意識のうちにコートのポケットへと手を伸ばしていた。
現代の物理学において、もし未知の反重力場が目の前に存在するとすれば、それは世界の根底を覆す大発見だ。極めて論理的かつ合理的な思考を旨とする私としては、この眼前に提示された事象をただの幻覚や手品と切り捨てる前に、まずは学術的なアプローチで立ち向かう義務がある。
私は無言のまま台座へと歩み寄り、ポケットから取り出した一枚の硬貨を、浮遊する「コア」の真横で静かに手放した。
もしこれが、ひも理論における
カラン、と。
無機質な金属音を立てて、硬貨はニュートン力学の法則に一切逆らうことなく、一直線に床へと落ちて転がった。重力異常、ゼロ。磁場の乱れ、ゼロ。
「……空間の曲率に変化なし。局所的な引力の干渉も観測されないわね」
私は小さく呟き、今度は浮遊する四角いコアへと顔を近づけた。
熱源探査と大気成分の分析を試みるべく神経を研ぎ澄ませた私の鼻腔を打ったのは、オゾンやプラズマの焦げる無機質な匂いではなく、極めて身近で、暴力的なまでに芳醇な脂質の香りだった。
さらに目を凝らせば、その四角いコアの表面には、アミノ酸と還元糖が加熱されることで生じる褐変反応――いわゆるメイラード反応の痕跡が、見事なキツネ色となって定着している。中央付近に広がる不規則な円形の染みは、動物性油脂が熱によって融解し、多孔質の構造体に浸透した結果としか思えない。
極めつけに、私がコアの端を指先で軽く弾くと、パラリと乾いた音を立てて「茶色い欠片」が床に舞い落ちた。
私の脳内で高速回転していた超統一物理学の難解な数式群が、音を立てて崩れ去っていく。
宇宙の真理。超古代文明の反重力機関。そんな大層なパッケージで包まれたこの物体の正体が、完全に一つの解へと収束した瞬間、私の奥歯がギリッと不快な音を鳴らした。
「……私の計算によれば、それはどう見てもただの朝食のトーストよ」
こんがりとキツネ色に焼け、中央にうっすらとバターの染みが残る、ごく普通の六枚切り食パン。
私は空中に浮かぶホログラムの猫をキッと睨みつけた。
「あんた、宇宙創成期からこの迷宮を管理しているって言ったわね? ならば、なぜこのトーストは今まさにトースターから飛び出してきたばかりのような熱を保っているのよ! 熱力学第二法則を完全に無視して熱を保ち続けていること自体が、物理学に対する冒涜的な異常事態だわ!」
「くんくん……あ、本当だわ。これ、合成香料じゃない、本物の天然バターの甘い匂いね」
私が学術的な矛盾を指摘して激昂している横で、メリーがトーストに顔を近づけてうっとりと目を細めた。
「ねえ蓮子、ケーキも受け取り損ねちゃったし、私お腹が空いたから、これ食べてもいいかしら?」
「バカなこと言わないで! 誰がいつ焼いたかも分からない、熱力学法則を無視した炭水化物を口にする気!?」
「ちぇっ。せっかくの天然物なのに」
極めて深刻な密室の異常事態よりも、自身の食欲を最優先する相棒の徹底的なマイペースさに、私は深くため息をついた。メリーは残念そうに唇を尖らせた後、気を取り直したようにトーストを指差した。
「でもね蓮子。相対性精神学の観点から見れば、あのトーストには自我が芽生えているわ。人間の朝の絶望的な寝起きの精神構造を強く投影された結果、『もうこれ以上焼かれたくない』『重力に縛られたくない』という強烈な自我が発現し、自らの意志で重力を拒絶しているのよ。ほら、よく見なさいよ。あの焼き色の不均衡さは、まさに効率化された現代社会に対する静かなるプロテストの表れだわ」
「はあ!? パンにプロテストの意思があるわけないでしょ! だいたいあんたのその適当な心理学は……」
「心理学じゃないわよ、相対性精神学だっていつも言ってるでしょ!」
密室の中で現代における、最高峰の衒学バトルが勃発した。
「全ての事象は数式で説明できる」という絶対の自負を持つ私と、「理屈に縛られない直感」を信条とするメリー。学問の方向性が真逆な私たちの議論は、当然のように一切噛み合わず、永遠の平行線をたどっていく。
「いいこと? 高次元におけるエネルギー保存の法則を考えれば、パンの自我なんていう非科学的な変数は一切介入する余地がないの。そもそも、先週の『量子力学的自由意志論』のレポート課題でも、あんたはそうやって直感だけで適当な結論を導き出して、私のひも理論の考察の足を引っ張ったじゃない!」
「あれは蓮子の理論が堅苦しすぎたのよ! 観測限界に達して終焉を迎えた学問に縋り付いて、いつまでも同じ数式をこねくり回してるから、教授からの評価も上がらないんじゃない。だいたい、あの時のレポートの点数が低かったのは、蓮子が寝坊して前髪のセットが曲がったまま登校してきて、私がそれに気を取られたせいでもあるんだからね」
「私の前髪のセットとレポートの点数は何の関係もないでしょ! 論理のすり替えはやめなさいよ! そもそも、あんたが毎朝毎朝、合成食品のカロリー計算もせずにダラダラとケーキのカタログばかり見ているから……」
「カロリー計算なんて無粋な真似、相対性精神学に反するわ! 美味しいものは精神を豊かにして、結果的に時空の歪みすらも補正するのよ!」
お互いの知的優位性を示すためのマウントの取り合いは、次第に宇宙の真理の究明から外れ、ただの意地の張り合いと過去の因縁の掘り返しへと変質していく。
そんな生産性の欠片もない痴話喧嘩が五分ほど続いた頃。
『……ふぁあ』
ふと、間の抜けたあくびの音が響いた。
私たちがハッとして振り返ると、そこには信じられない光景があった。論破され、議論の蚊帳の外に置かれた案内AIのプリニウスが、宙に浮いたまま丸くなり、後ろ足を上げて一心不乱に毛繕いを始めていたのだ。
「ちょっと! あんた、私たちがせっかく真面目に考察してやってるのに何無視してんのよ!」
『あ、申し訳ない。当館のシステム稼働限界により、バッテリーが切れそうです。むにゃむにゃ……』
プリニウスは息を吐くように堂々と大嘘をつき、そのままプイッとそっぽを向いて寝たふりをし始めた。完全に私たちを「からかい甲斐のある愚かな知性体」として小馬鹿にした態度だった。
――プツン、と。
私の脳内で、理性の糸が物理的にブチッと切断される乾いた音が響いた。視界の端が明滅し、激しい怒りに歯が軋む。積み上げてきた学問的尊厳をここまで露骨に踏みにじられた事実は、私から前頭葉の機能を完全に奪い去るのに十分だった。
「……お前らみたいなポンコツAIが、いっちょまえに寝たふりしてんじゃないわよ!」
宇宙の真理も、熱力学第二法則も、もはや私の怒りの前では塵芥に等しかった。だが、私はただ感情に任せて実体のないホログラムを殴りつけるような非論理的な真似はしない。
「あんなホログラム、部屋の隅にあるプロジェクターの電源ごと物理的に破壊してやるわ!」
全ての事象は数式で説明できると豪語する超統一物理学の徒は、この瞬間、自身の運動エネルギーの計算も、埃まみれの床面における摩擦係数も、そして何より自分が履いている革靴のヒールの接地面の脆弱さも、完全に思考から放棄していた。後から振り返れば、それはまさに理性が暴力という名の原始的衝動に完全敗北した瞬間であった。
ダッ、と床を蹴って部屋の隅の機械へと猛突進した私だったが――計算を放棄した代償として、当然のように足元を激しく滑らせた。
「えっ、きゃああっ!?」
無様に宙を舞った私の顔面は、あろうことか軌道上の台座で浮遊していた「アトランティスの反重力機関」にクリーンヒットした。
ベシャッという情けない音とともに、焼きたてのバターの香ばしい匂いが鼻腔を覆い、私はそのまま床に無様に転がった。
「蓮子って、ホントにバカね……」
「うるさいわね! 誰のせいだと思ってるのよ!」
顔面にパン屑をつけたまま立ち上がり、乱れた前髪を乱暴に払う。
その直後、ガコンという重々しい機械音とともに、部屋の奥の壁がスライドし、第2展示室へと続く扉が開かれた。
そして、開いた扉の脇にある古びた電光掲示板に、無機質な赤い文字がゆっくりと点灯する。
『残り展示室:41』
途方もない迷宮の長さを突きつける絶望的な数字。
それを横目に、プリニウスは空中でくるりと宙返りをした。美味しいケーキにありつくまでの道のりは、果てしなく遠い。