秘封少女の多次元迷宮:四十二の不条理とホログラムの猫   作:ルルオメ

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第10話 シュバルツシルトのゴミ箱と、捨てられないプライド

 巨大な靴下の山が崩落する音と、案内AIの情けない絶叫を背中の分厚い扉で遮断し、私は大きく息を吐き出した。

 無機質な金属の扉に背中を預け、ずるずると床に座り込む。足元には、先ほどまでの激闘を物語るように、泥と埃、そして得体の知れない綿埃がこびりついている。コートのポケットの上からそっと手を当て、内部に収められた硬いプラスチックケースの感触を確かめた。

 プリニウスの管理者権限のオーバーライド・パスワード。

 この迷宮に放り込まれてからというもの、常に後手へ回り、理不尽な法則に振り回されてきた私たちにとって、これは初めて手にした明確な反撃の糸口だった。

 

「……ふふっ。ざまあみなさい、あのクソ猫」

 

 乾いた唇の端を釣り上げ、私は喉の奥で低く笑った。隣を見れば、メリーもまた、土埃でくすんだスカートを直すことも忘れ、壁に寄りかかって息を整えている。彼女の手はもはや空っぽだが、その瞳には、先ほどまでの絶望感に代わる確かな悪巧みの光が宿っていた。

 

「少しは休みたいところだけど……ケーキの時間はとっくに過ぎてるし、早く次の部屋を片付けて出口を探しましょ」

 

 メリーがよろよろと立ち上がり、乱れた金髪をかき上げた。私も重い腰を上げ、コートの裾を払う。

 私たちが足を踏み入れた第10展示室は、これまでの異常な空間に比べると、拍子抜けするほど殺風景な場所だった。

 打ちっぱなしのコンクリートの壁と床。装飾の一切ない、まるで地下の駐車場の片隅のような寒々しい空間。

 そして、その中央にぽつんと置かれていたのは、銀河の神秘でも超古代文明の遺産でもなく――ホームセンターの園芸コーナーで数百円で売られていそうな、ごくありふれた「黒いポリバケツ」だった。

 

『やあやあ、靴下泥棒の知性体たちよ。よくぞここまで辿り着いた』

 

 コンクリートの壁際で空間が明滅し、忌々しい三毛猫のホログラムが現れた。

 私はコートのポケットから、先ほど手に入れたパスワードの入ったプラスチックケースを半分だけ覗かせ、指先で弄んでみせた。プリニウスの視線がピクリとそちらへ引き寄せられるのを視界の端で捉えながら、私はわざとらしく首をすくめる。

 

「今度はゴミ捨て場? 随分と予算が尽きてきたみたいねこのパスワードでシステムを初期化してあげるから、さっさと道を開けなさいよ」

 

『む……っ。無知なる三次元の眼球には、これがただのプラスチック容器に見えるのだろうな。嘆かわしいことだ。当館の記録によれば、ここは事象の地平面を内包し、いかなる情報も完全に逃がさない極小の特異点……「ブラックホール」である』

 

 パスワードの存在を無視し、プリニウスは空中で強引に宙返りを打った。

 

『この容器の開口部は、すなわちシュバルツシルト半径の境界線。ひとたびこの中に物質を落とせば、光すらも逃れられない絶対的な重力の底へと落ち込み、宇宙の歴史から完全にその存在情報が抹消されるのだ』

 

 言い捨てるなり、ホログラムの猫は天井のシミのように高い位置へと退避し、またしても毛繕いを始めた。

 私は鼻で息を吐き、コンクリートの床を踏み鳴らしてその黒いポリバケツへと歩み寄った。

 

「ブラックホールね。私の計算によれば、もしこの地球上に極小のブラックホールが存在した場合、そのホーキング放射による質量蒸発の過程で莫大なガンマ線が放出され、私たちはとうの昔に消し炭になっているはずよ」

 

 私はバケツの縁に手をかけようとし――直前で動きを止めた。

 バケツの内部は、異様なまでに黒かった。

 ただ暗いのではない。天井の無機質な蛍光灯の光が、バケツの開口部から数センチのところで不自然に途切れ、吸い込まれるように消失しているのだ。覗き込もうとすると、視神経が強烈な目眩を起こし、空間そのものがすり鉢状に歪んでいるような錯覚に陥る。

 

「……冗談でしょ。本当に、事象の地平面が形成されてるっていうの?」

 

 私は息を呑み、思わず一歩後ずさった。

 物理学の極致。アインシュタインの一般相対性理論が予言し、長きにわたって宇宙物理学の最大の謎とされてきた絶対的暗黒。それが今、安っぽいポリプロピレン製のバケツの中に収まっている。

 私の脳内で、強烈な演算回路が火を噴いた。

 もしこれが本物の極小ブラックホールならば、その蒸発時間を計算することで、この空間のエネルギー保存則のバグを証明できるはずだ。

 私は部屋の隅に転がっていた、先客が残したであろうチョークの欠片を拾い上げ、コンクリートの床に直接、ホーキング放射の方程式を書き殴り始めた。

 

「いいこと、メリー! このブラックホールの質量をMと仮定した場合、蒸発にかかる時間はMの3乗に比例するわ! プランク定数と光速度を用いてこのバケツのシュバルツシルト半径から逆算すれば……!」

 

 ガリガリと床を削るチョークの音が響く中、メリーは私の数式には目もくれず、バケツの縁から少し離れた場所で、じっとその暗黒を見つめていた。

 

「……ねえ、蓮子」

 

 不意に、メリーが低く、妙に張り詰めた声を出した。

 

「さっきの猫、言ってたわよね。『いかなる情報も完全に逃がさない』『宇宙の歴史から完全にその存在情報が抹消される』って」

 

「ええ、ブラックホールの情報パラドックスね。事象の地平面を越えた情報は、量子力学的には保存されるべきだけど、ホーキング放射によってブラックホールが蒸発した場合、その情報は完全に失われてしまうのかという、現代物理学の最大の……」

 

「つまり」

 

 メリーは私の解説を遮り、ゆっくりと私の方に顔を向けた。彼女の紫色の瞳孔が、薄暗いコンクリートの部屋の中で異様な光を放っている。

 

「私たちが今すぐこの世から『消し去りたいもの』をここに投げ込めば、誰の記憶からも、宇宙の記録からも、完全に隠滅できるってことよね?」

 

 ――ピタッ。

 私のチョークを動かす手が、凍りついたように止まった。

 消し去りたいもの。

 宇宙の歴史から完全に抹消したい情報。

 その言葉を聞いた瞬間、私の胃から氷水を飲んだような冷たさが這い上がり、心臓が不自然なリズムで早鐘を打ち始めた。

 私のコートの右ポケットには、先ほどの第7展示室で拾い上げた「解釈違いの二次創作原稿」が入っている。私とメリーが愛の重力だの熱い涙だのと言いながら抱き合う、あの身の毛もよだつような駄文。

 そして、左ポケットには――第8展示室の時間を凍りつかせるほどの惨劇を引き起こした、私の直筆による「超統一・物理学ギャグ」の構成メモが、確かな質量を持って鎮座しているのだ。

 もし、あれを誰かに見られたら。

 もし、あのギャグのメモが後世の物理学史に残ってしまったら。

 私の社会的、そして学術的アイデンティティは完全に死滅する。

 私はゆっくりと立ち上がり、コートのポケットを両手で無意識に強く押さえた。掌にじっとりと嫌な汗が滲む。

 

「……そ、そうね。理論上は、情報のエントロピーごと完全に消滅させることが可能よ。でも、そんな危険な特異点に無闇に物を投げ込むのは……」

 

「奇遇ね、蓮子。私も今、どうしてもこの宇宙からデリートしたい物質を一つ、ポケットに忍ばせているの」

 

 メリーが、一歩ずつバケツの方へとにじり寄る。彼女の右手もまた、自身のワンピースのポケットに深く突っ込まれていた。おそらく、私と同じあの原稿の切れ端だろう。いや、あるいはもっと別の、彼女個人の知られたくない過去の失態か。

 

「メリー、待ちなさい。そのブラックホールの質量が臨界点を超えた場合、蒸発時のガンマ線バーストでこの部屋ごと吹き飛ぶ可能性が……」

 

「相対性精神学の観点から言わせてもらえば、自分の黒歴史を他人に握られ続ける精神的苦痛に比べたら、ガンマ線で吹き飛ぶくらい安い代償よ!」

 

 メリーがポケットから何かを取り出そうと腕を動かした瞬間、私の理性が完全にショートした。

 彼女が何を捨てようとしているにせよ、ここで私が躊躇すれば、私の左ポケットにある物理学ギャグのメモを永遠に消し去るチャンスを逃してしまう。

 

「それを捨てるなら、私のゴミも一緒に捨てさせなさいよ!」

 

 私は床を蹴り、メリーの腕を力任せに掴んだ。

 同時に、自分の左ポケットから丸めたメモ用紙を引きずり出し、バケツの暗黒へ向かって腕を突き出す。

 

「ちょっと! 何よそれ、蓮子! まさかあんたが捨てようとしてるのって、あの部屋全体を凍らせた伝説の『スベり散らかした一発ギャグのメモ』じゃないでしょうね!?」

 

 メリーが私の手元を鋭く見咎め、私の手首に爪を立てるようにしてしがみついてきた。

 

「なっ……! 違うわよ! これはただの計算式の失敗作よ! あんたこそ、その手に持ってるのは例の解釈違い原稿でしょ! 抜け駆けして自分だけ精神的平穏を得ようとするなんて許さないわよ!」

 

「冗談じゃないわ! あんたのそのギャグのメモ、私が後でじっくり読んで、相対性精神学の『極限状況における知性の崩壊サンプル』として学会で発表してやるんだから! 絶対に捨てさせないわよ!」

 

「ふざけるなぁっ! 他人の黒歴史を論文のダシにする気!? このゲス女!」

 

「そっちこそ、その手を離しなさいよ! 私はこの原稿を消滅させて、自分のキャラクター性を守る権利があるの!」

 

 コンクリートの殺風景な部屋の中央で、極小ブラックホールという宇宙物理学のロマンを目前にして、私たちは互いの見栄と黒歴史を巡る、この世で最も醜く低俗な取っ組み合いを始めた。

 私がメリーの腕を捻り上げようとすれば、彼女は私のコートの襟首を掴んで引き倒そうとする。

 

「見せなさいよ!」

 

「絶対に見せるもんですか!」

 

 互いの急所である紙切れを握りしめたまま、相手を牽制し、足を引っかけ合い、泥だらけの服をさらに汚しながらの泥仕合。

 事象の地平面のすぐ側で、宇宙の真理など完全に忘れ去り、ただ己のちっぽけなプライドを守るためだけに全力を注ぐ。

 

「ええいっ、離しなさいよこの脳筋物理学者!」

 

「そっちこそ、オカルトかぶれのスピリチュアル女子がぁっ!」

 

 ガンッ!

 もつれ合った私たちの体重が、中央に置かれていた黒いポリバケツの側面にモロに直撃した。

 

「あっ」「あ」

 

 私たちの声が重なる。

 極小ブラックホールを内包しているはずの、超絶的な質量を持っているはずのそのポリバケツは。

 カランコロン、という極めて軽い、安っぽいプラスチックの音を立てて――あっさりと横にひっくり返った。

 静寂。

 重力異常も、ガンマ線バーストも発生しない。

 ただ、横倒しになったバケツの口から、中に入っていたものがドサドサとコンクリートの床にこぼれ落ちた。

 

「……何、これ」

 

 私はメリーの襟首から手を離し、呆然と床を見下ろした。

 光すら逃げ出せないはずの事象の地平面から溢れ出たのは、宇宙の暗黒物質でも、消滅した星の残骸でもなかった。

 それは、無数の「ノート」や「手帳」、「ルーズリーフの束」だった。

 表紙には手書きのイラストが描かれたものや、南京錠が付いた仰々しい日記帳、そして血文字のような赤いインクでびっしりと文字列が書き込まれたレポート用紙など、どれもこれも強烈な自己主張を放っている。

 

『……やれやれ。またしても真理を前にして自滅したか』

 

 天井付近から、プリニウスの呆れたような声が降ってくる。

 

『ここは確かに事象の地平面だ。ただし、物理的な質量ではなく、「過去の来訪者たちが、絶対に他人に見られたくないと願って自ら封印していった、精神的黒歴史の墓場」だがな。君たちがバケツを蹴飛ばしたせいで、過去の愚者たちの恥部が全て三次元にぶちまけられてしまったではないか』

 

 プリニウスの解説を聞き、私とメリーはゆっくりと顔を見合わせた。

 数秒前まで、自分自身の黒歴史を隠滅しようと互いの胸ぐらを掴み合っていた私たちの手は、ピタリと止まった。

 私たちは無言で顔を見合わせる。そして、示し合わせたように相手の襟首から手を離すと、口角を限界まで歪に吊り上げ、床に散らばった他人の手痛い青春の残骸へと貪欲に群がった。

 

「……ねえ、メリー。これ、読んでもいいってことよね?」

 

「ええ、蓮子。相対性精神学の観点から言えば、過去の来訪者たちの心理状態を分析することは、この迷宮を攻略する上で極めて重要なアプローチだわ」

 

 私たちは示し合わせたように口角を邪悪に釣り上げると、床に散らばったノートの山へと貪欲に手を伸ばした。

 

「うわっ、見てこれ蓮子! 『漆黒の堕天使たる俺の右腕が、ついに第三の封印を解き放つ刻が来た』だって! 痛い! 痛すぎるわ!これ書いた男、絶対今頃社会人になって毎晩枕に顔押し付けて叫んでるわよ!」

 

 メリーが分厚い大学ノートを開き、腹を抱えてゲラゲラと笑い転げる。

 私も近くにあったファンシーな日記帳の鍵を力任せに引きちぎり、中身を読み上げた。

 

「こっちも酷いわよ! 『私と大天使サリエルとの秘密の交信記録・第七章』ですって! しかもご丁寧に、サリエルのセリフが全部青色のラメ入りペンで書かれてるわ! 脳内の天使と交換日記してたんじゃないのこれ!」

 

 他人の痛々しい過去を無遠慮に暴き、嘲笑する。

 私たちは先ほどまでの自分たちの見栄など完全に棚に上げ、コンクリートの床に座り込んで、ゲスな悦びに身を浸していた。

 次から次へとノートを開いては、その度を越した痛さに腹筋を痙攣させる。

 

「あー、笑いすぎてお腹痛い。……ん? なにこれ」

 

 ふと、メリーの手が止まった。

 彼女が拾い上げたのは、他の装飾過多なノート群とは異なり、革装丁の古びた、ひどく真面目な手帳だった。

 表紙には何も書かれていない。メリーは無防備にそのページを開き、インクの掠れた文字を目で追った。

 

「……『ついに、この迷宮の真理に辿り着いた』?」

 

 メリーが呟いたその一文に、私はピタリと笑いを止めた。

 ただの厨二病の妄想ノートではない。これは、私たちと同じようにこの迷宮に挑み、そして深層まで辿り着いた先客の、本物の手記だ。

 

「メリー、続きを読むのよ。何て書いてあるの?」

 

 私が身を乗り出すと、メリーは唾を飲み込み、震える声で続きを読み上げた。

 

「『あの三毛猫のホログラムは、単なるインターフェースに過ぎない。この多次元博物館「脅威の部屋(ヴンダーカンマー)」を制御している、本当のコアの正体は――』」

 

 メリーの言葉が途切れる。

 手帳に記された、迷宮の核心に迫る決定的な記述。

 彼女の瞳が、その単語を視覚情報として脳内に取り込み、意味を理解した、まさにそのコンマ数秒後のことだった。

 ――バキィィィンッ!!!

 一切の前兆も、警告もなかった。

 私たちが座り込んでいたコンクリートの床が、凄まじい破壊音とともに、まるで薄いガラス板が割れるように突然すっぽりと抜け落ちたのだ。

 

「えっ」「きゃあああっ!?」

 

 核心に触れた情報に対する、迷宮側の強制的な排除プログラムの発動。

 私たちはノートを握りしめたまま、足場を失い、絶対的な暗闇の底――第11展示室へと向かって、悲鳴を上げながら真っ逆さまに落下していくのだった。

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