秘封少女の多次元迷宮:四十二の不条理とホログラムの猫 作:ルルオメ
顔面に激突した「アトランティスの反重力機関」――もとい、ただの食パンの残骸を乱暴に剥がし取り、私は忌々しげに床へと投げ捨てた。
バターの油分でベタつく前髪を鬱陶しげに払いながら、重々しい機械音とともに開かれた第2展示室への扉を睨みつける。電光掲示板に点灯した『残り展示室:41』という絶望的な数字が、私の学究的プライドと体力をゴリゴリと削り取っていくのを感じていた。
「もう、最悪だわ。私の超統一物理学の知識を、こんなデタラメな空間で浪費させられるなんて」
「ふふっ、蓮子は本当に怒りっぽいわね。でも、文句を言っていてもケーキの時間は戻ってこないわ。さっさと次の部屋に進んで、早く帰りましょ」
顔面にパン屑をつけた私とは対照的に、埃一つついていないワンピース姿のメリーは、私の苛立ちなどどこ吹く風で、軽やかな足取りで開かれた扉の先へと足を踏み入れた。状況の深刻さよりも自身の食欲を優先するその徹底的なマイペースさは、私にとっては最大の短所でもある。
私は小さくため息をつき、コートを翻して彼女の後に続いた。
第2展示室に足を踏み入れた瞬間、私たちの目に飛び込んできたのは、先ほどの漆黒の闇とは打って変わって、目が痛くなるほどの無機質な「白一色」の空間だった。
床も、壁も、天井も、全てが継ぎ目のない純白で構成されており、空間の奥行きや遠近感すら狂わされるような錯覚に陥る。
そして、その真っ白な部屋の中央には、アンティーク調の優雅なティーセットが、ただポツンと一つだけ置かれた丸テーブルがあった。
『やあ、愚かな知性体たちよ。よくぞここまで辿り着いた』
どこからともなく、重厚なエコーのかかった荘厳な老紳士の声が響き渡る。
見上げれば、先ほどまで寝たふりをして私を激怒させた三毛猫のホログラム――案内AI端末のプリニウスが、何食わぬ顔でフワフワと宙を舞いながら現れた。
「お前……さっきはよくも私の顔面にトーストを……!」
『当館の記録によれば、自ら進んでアトランティスの聖餅に顔面から突っ込んでいったのは君の方だが? まあよい』
ヒゲをピクピクと動かしながら息を吐くように嘘をつくホログラム猫の態度に、私は再びこめかみの血管が脈打つのを感じた。だが、今は怒りを堪えるべき時だ。私は極めて高い知的好奇心と論理的な思考力を持つ物理学徒なのだから。
『中央のテーブルを見たまえ。あそこにあるティーセットには、ひとたび飲めば全知全能の境地に至る伝説の霊薬が注がれている』
「全知全能の霊薬ね。はいはい、どうせまた三流のSF小説みたいな設定の押し付けでしょ」
私は鼻で笑いながら、丸テーブルへと歩み寄った。
ティーポットから注がれたばかりのように見えるカップの中身は、澄んだ琥珀色の液体だった。天然物の存在感がすっかり薄くなったこの京都において、それは驚くほど芳醇な本物の茶葉の香りを漂わせていた。
「あら、とってもいい匂いじゃない。歩き疲れて喉も渇いていたし、ちょうどお腹すいたと思っていたところなのよね」
メリーは目を輝かせ、ティーカップをうっとりと見つめた。
「もしかして、最近流行りの『新茶道』のお点前かしら? 京都は娯楽に乏しくて新茶道くらいしか暇つぶしがないから、この迷宮なりの粋なホスピタリティかもしれないわね」
「こんな致死性の量子力学的お点前があるわけないでしょ! 待ちなさい、バカ。よく観察して!」
私はティーカップに手を伸ばそうとするメリーの腕を力強く制止した。
カップの中の液体は、激しく泡を立てて沸騰しているように見えると同時に、表面が白く凍りついているようにも見えた。観測する瞬間ごとに、その状態が不規則に切り替わっているのだ。
「これは……未観測状態における波動関数の重ね合わせね。つまり、このカップの中身は『100度に沸騰した熱湯』と『マイナス273度の絶対零度の液体』が確率的に重なり合っている、極めて不安定な状態にあるわ」
「ふうん。なんだかよく分からないけど、要するに飲むと危ないってこと?」
「危ないなんてもんじゃないわ! 霜の分布がおかしいだけじゃない、よく見なさい! 液面周辺の大気中の酸素や窒素が急激に冷却されて固体化し、雪のようにチラチラと降り注いでいるわ! 巨視的な量子状態の維持なんて熱力学的にあり得ない! 完全に物理法則がバグってるのよ!」
私はパニック気味に叫んだ。シュレディンガーの猫のティーカップ版だ。喉に流し込んで観測を完了させるまで、それが熱湯なのか絶対零度なのかが確定しない。胃袋が消し炭になるか、内臓が瞬間凍結して砕け散るかの二択という、悪魔のようなシロモノだった。
「でも……私の計算によれば、この不確定状態を打破する方法は存在するわ。微弱なコヒーレンス状態を保ったまま、外部からの観測による波動関数の収縮をコントロールすれば、安全な温度域で状態を確定させ、飲用することが可能なはずよ」
私はブツブツと難解な数式を呟きながら、こめかみを押さえて安全策の模索を始めた。環境のデコヒーレンスを防ぐための遮蔽材の計算、あるいはカップの持ち手の角度による観測者効果の偏り。考え得る限りの物理的アプローチを頭の中で高速回転させる。
「ええと、まずはカップの周囲の電磁場を相殺して……いや、待てよ。液面からのフォトン放出を計算に入れると……」
「ねえ、蓮子。そんなまどろっこしいことしなくても、もっと簡単な方法があるじゃない」
私が黒板もなしに脳内で複雑なテンソル計算を組み立てている最中、背後からメリーののんびりとした声が降ってきた。
「簡単な方法? バカ言わないで。量子状態の確定には、厳密な観測プロトコルが……」
「私の目には、ちゃんと結界の境目が見えているわ」
振り返ると、メリーは瞳を輝かせながら、カップに向かって躊躇なく手を伸ばしていた。
「空間の歪みが一番少ない場所からアプローチすれば、精神的な観測のブレも最小限に抑えられるはずよ。私の直感がそう告げているわ」
「ちょっと! 直感で量子力学をねじ伏せようとしないで! 波動関数が暴走するわよ!」
「大丈夫よ、喉乾いてるし、いただきます!」
私の静止する声など完全に無視して、メリーは直感だけで一番安全そうな角度からカップをひょいと掴み、一気に琥珀色の液体を口に含んだ。
理屈に縛られない彼女の直感的な行動力は、時として状況を打破する力を持つ。だが、今回は相手が悪すぎた。
ゴクッ、とメリーの喉が鳴った瞬間。
彼女の表情が、これまでに見たことがないほど奇妙に歪んだ。
「……っ!?」
相対性精神学と結界視の能力による直感がわずかに外れていたのか、あるいは重ね合わせの状態が彼女の精神を凌駕したのか。メリーの喉元を襲ったのは、絶対零度の冷徹さと沸騰する熱エネルギーがグロテスクに入り混じった、「超絶的に熱い何か」だったらしい。
限界まで見開かれた紫色の瞳。プルプルと震える小刻みな唇。
「あ、熱っ……いや冷たっ……!? ぶふっ!!」
耐えきれなくなったメリーは、盛大な破裂音とともに、口に含んだ混沌の紅茶を前方に向かって勢いよく噴き出した。
そして、その直線状にいたのは、カップの横でこめかみを押さえて計算式を組み立てていた、他でもない私だった。
「ひゃうっ!?」
ダイレクトな直撃。
顔面を強打する熱湯とも冷水ともつかない謎の物理的衝撃。
びしょ濡れになった黒髪のショートボブから、真っ赤な――いや、琥珀色の紅茶がポタポタと滴り落ちる。
私の脳内で完璧に組み上がっていた数式が、紅茶の飛沫とともに音を立てて崩れ去った。
「ゴホッ、ああっもう! せっかくの希少な天然物の茶葉なのに、熱湯と絶対零度の重ね合わせのせいで風味がめちゃくちゃよ!」
口元を拭いながら、メリーは自身の命の危機よりも、美味しい紅茶を味わえなかった不満を大声でぶちまけた。
「ちょっと蓮子、早く計算で温度を確定させてちょうだい! じゃないと美味しい紅茶が台無しじゃない!」
私はゆっくりと立ち上がり、前髪から滴る紅茶を手の甲で拭った。
極めて論理的かつ合理的な思考力。困難に対しても学術的なアプローチで立ち向かう不屈の精神。それら全てを支えていた私の理性が、ジュワッという音を立てて完全に蒸発していくのを感じた。
「……私の精密な計算を台無しにした挙句、顔面に熱湯をぶっかけたわね!?」
「熱湯じゃないわよ、熱湯と絶対零度の重ね合わせよ! 蓮子がちんたら計算してるから、私が相対性精神学の実地検証をしてあげたんじゃない!」
「あんな胡散臭いオカルト心理学に頼るから、直感が狂って私に被害が及んだのよ!」
「心理学じゃないわよ、相対性精神学だっていつも言ってるでしょ!」
「心理学だろうが精神学だろうが関係ないわよバカメリー!」
宇宙の真理も、全知全能の霊薬も、もはやどうでもよかった。
視界が真っ赤に明滅した私は、年相応の乱暴な口調とともにメリーのブラウスの胸ぐらを掴みにかかった。メリーも負けじと私のコートを引っ張り返してくる。
真っ白な無機質な空間の中央で、物理学と精神学の最高峰の知性が、床の上で互いの髪を引っ張り合うという最低最悪の泥仕合へと発展した。
「痛い痛い! 離しなさいよこの脳筋物理学者!」
「そっちこそ離しなさいよ! だいたい、あんたのその適当な直感がいつもいつもトラブルを引き起こすんじゃない!」
私は理性を手放し、肩の回転から腰の捻りまで全エネルギーを乗せて右ストレートを放った。
しかし、メリーはふわりと身を沈め、まるで舞うような動きで私の拳を躱した。
「遅いわよ、蓮子。私の目には結界の境目が見えているの。空間の歪みの継ぎ目に沿ってステップを踏めば、あなたの単調な物理攻撃なんて当たらないわ」
「そのチート能力を、私のパンチを無駄にスタイリッシュに躱すためだけに使ってんじゃないわよ!」
結界視能力の完全なる誤作動、あるいは究極の無駄遣いである。
何度殴りかかっても、メリーは蝶のように舞いながら私の攻撃をヒラリヒラリと回避し続ける。その澄ました顔と、能力を喧嘩の回避に悪用している事実が、私の脳内で理性の糸をもう数本まとめて焼き切った。
「ちょこまかと……! いい加減にしなさいよ!」
私は理性のリミッターを完全に解除し、近くのテーブルにあったティーポットを鷲掴みにした。
もはや量子力学的状態など知ったことではない。私はそれを、憎き相棒の頭部めがけて渾身の力で投げつけた。
「危なっ!」
メリーが空間の歪みに沿ってとっさに身を屈めた。
その結果――私が投げたティーポットは、メリーが避けて剥き出しになった『空間の最も脆弱な継ぎ目』へと一直線に吸い込まれ、背後の純白の壁にクリーンヒットした。
ガシャンッ!!
強烈な破壊音とともに、ティーポットが激突。空間のバグを物理的に打ち抜かれた衝撃で、空間を隔てていた白い壁そのものが、まるでガラス細工のように粉々に砕け散った。
「え……?」
メリーの能力の無駄遣いと私の暴力が最悪のシナジーを起こし、室内の物理法則が致命的なエラーを吐き出した。
足元の床が急激に傾き、空間のベクトルがねじ曲がる。ギュルンッ、という奇妙な感覚とともに、部屋の重力が突如として180度反転したのだ。
「きゃあああっ!?」
「ちょっと、嘘でしょ!?」
床が天井になり、天井が床になる。
私たちは悲鳴を上げながら、先ほどまで「天井」だった方向へ向かって、真っ逆さまに落下していった。
落下しながら、上の方(元々の床面)でプカプカと浮遊しているプリニウスが、『おやおや、やはり霊薬の力には耐えられなかったようですね。……嘘ですけど』と、ヒゲをピクつかせて見下ろしているのが見えた。
宇宙の真理を解き明かすはずの旅は、学問の誇りを賭けた痴話喧嘩の末に、物理法則すらも破壊する事態へと転がり落ちていくのだった。