秘封少女の多次元迷宮:四十二の不条理とホログラムの猫   作:ルルオメ

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第3話 四次元の蚊と、力任せのフルスイング

 反転した重力に従い、粉々に砕けた壁の向こう――本来なら天井だったはずの方向へと真っ逆さまに落下した私たちは、全身の骨が砕けるような強烈な衝撃を覚悟して固く目を閉じた。

 しかし、予想された激痛はいつまで経っても訪れなかった。

 落下による強烈な加速が、ある地点を境にフッと消失したのだ。内臓がふわりと浮き上がるような奇妙な浮遊感に包まれ、私は恐る恐るまぶたを開いた。

 

「……なるほど。今度はこう来たわけね」

 

 私は空中でゆっくりと手足を動かしながら、自身の置かれた物理的状況を即座に把握した。

 床がない。天井もない。上下の概念が完全に消失し、私の短い黒髪は水中にいるかのようにフワフワと無軌道に揺らめいている。隣を見れば、埃まみれになったワンピースの裾を押さえながら、メリーが空中でジタバタと不器用にもがいていた。

 

「ちょっと、何よこれ! 足がどこにもつかないじゃない! せっかくのワンピースがめくれ上がって最悪なんだけど!」

 

「落ち着きなさい。無重力空間(マイクログラビティ)よ。空間の曲率を弄ったのか、あるいは部屋全体が自由落下状態にあるのかは分からないけれど、地球の引力が完全に相殺されているわ」

 

 私は宙を漂う自分のケープを手で押さえつけながら、薄暗い空間を見回した。

 私たちが転がり込んだ第3展示室は、じめじめとした湿気を帯びた洞窟のような場所だった。しかし、その何もない空間のあちこちには、ガラクタや古い家具、得体の知れない機械の残骸が無数にぷかぷかと浮遊している。

 

「まるで、一般人の月面旅行客向けに作られた、人工衛星のカフェみたいね。あっちらは無重力用に改良されたサイフォンを使ってサテライトアイスコーヒーを提供しているっていうけど、ここは完全なデブリの掃き溜めだわ」

 

 私のささやかな宇宙開発のウンチクも、パニック状態のメリーの耳には届いていないようだった。彼女は空中でカエルのように手足を掻き回しているが、作用点のない空間では一切の推進力を得られず、その場でくるくると滑稽に回転するだけだ。 

 

「もうっ、早く帰りたいのに一歩も進めないじゃない! ケーキの予約時間はとっくに過ぎてるし、お腹はペコペコだし、こんなところで空き缶みたいに浮いてる場合じゃないのよ!」

 

 状況の深刻さよりも、自身の空腹とケーキへの未練を嘆く相棒のブレなさ加減に、私は思わず深い溜息を吐き出した。

 無重力環境下での姿勢制御についてレクチャーしようと口を開きかけた、まさにその時だった。

 暗闇の奥から、極めて不快で、人間の生理的な嫌悪感を直接撫で回すような羽音が鼓膜を打った。

 

『――プゥーン……』

 

 それは、夏の夜の静寂を切り裂く、あの鬱陶しい羽音だった。

 音源を探そうと目を凝らすが、暗闇の中にその姿は見えない。だが、羽音は右耳のすぐ側で鳴ったかと思えば、次の瞬間には背後から聞こえ、全く物理的な移動の軌跡を伴わずに空間を跳躍しているように感じられた。

 

『やあ、這いつくばる知性体たちよ。無事に次の部屋へ到達できたようだな』

 

 羽音に混じって、あの重々しいエコーのかかった老紳士の声が響く。

 空間の一部が明滅し、青白い光とともに案内AIのプリニウスが現れた。二頭身の三毛猫のシルエットが、私たちの周囲を悠然と飛び回る。やつは元からホログラムとして浮遊しているため、この無重力空間でも全く不自由を感じていないらしい。その得意げな態度に、呼吸を乱し、全身を怒りで震わせた。

 

「今度は何よ。この羽音の主は、どうせまた三流のB級映画みたいな設定の生物なんでしょ」

 

 私が鋭く睨みつけると、プリニウスは得意げにヒゲをピクピクと動かした。

 

『ご名答。ここは、かつて古代エジプト文明を一夜にして滅亡へと追いやった吸血生命体、「四次元の蚊」の生息地である』

 

「……は? 四次元の蚊?」

 

『左様。彼らは三次元空間に縛られず、複数の時間軸と次元をクロスして飛翔する。ゆえに、君たちのようなどんくさい三次元の物理的干渉では決して捕らえることはできない。……ああ、実体のないAIで本当に良かった。君たちのような三次元の柔らかい血肉を持つ劣等生体は、せいぜい彼らの晩餐として血を捧げるがいい』

 

「相変わらず、息を吐くように大嘘をつきながら私たちをコケにしてくれるわね……!」

 

 私は湧き上がる感情を抑え込むべく、こめかみを押さえた。

 あらゆる病気の治療法が確立され、治せない症状は未知の病気として隔離施設に送られるほど医療が進化した現代において、吸血昆虫による感染症のリスクはとうの昔に排除されている。だが、あの羽音と「刺された時の痒み」という不快感だけは、人間のDNAに深く刻み込まれた本能的なトラウマだ。

 

『プゥーン……』

 

「っ、痛っ!?」

 

 メリーが短く悲鳴を上げた。見れば、彼女の無防備に露出した白い首筋に、ぷっくりとした赤い発疹ができている。

 

「ちょっと蓮子、ホントに刺されたわよ! しかもこれ、尋常じゃなく痒いんだけど!」

 

「くっ……四次元の座標移動だなんて、物理学徒を舐めないで! どんな次元の跳躍だろうと、テンソル解析で必ず捕捉してやるわ!」

 

 私は脳細胞をフル回転させ、宙を漂うデブリの中から、古びたキャスター付きの黒板を掴み寄せた。

 しかし、ここは無重力空間である。チョークを盤面に押し付けて数式を書き殴ろうとした瞬間、その押す力に対する反作用が私の体に働き、体が後ろへフワリと押し流されてしまう。

 

「ああっもう、足場がないと計算もろくにできないじゃない!」

 

 私は近くに浮いていたパイプ椅子に両脚を絡ませて無理やり身体を固定し、真っ黒な盤面に方程式を猛スピードで叩きつけ始めた。

 

「いいこと? 蚊が余剰次元を移動していると仮定すれば、その出現座標はカラビ・ヤウ多様体のコンパクト化された次元のほころびに依存するはずよ。羽音のドップラー効果の乱れから時間軸のズレを逆算し、テンソル場における次の出現ポイントを……」

 

「蓮子、そんなことしてる間に、私また足首刺されたわ! もう、こうなったら私の出番ね!」

 

 私が必死に多次元座標の計算を組み立てている横で、メリーは相対性精神学の観点からアプローチを開始した。彼女は目を閉じ、空間に漂う「蚊の精神波長」を読み取ろうと両手を広げる。

 

「感じ取るのよ……。この羽音の不規則なリズムは、ただの飛翔音じゃない。過去の古代エジプトで、ファラオの高貴な血を吸い損ねたことに対する深いトラウマと、承認欲求の欠如が引き起こしている悲鳴よ! つまり、この蚊は血そのものが欲しいのではなく、母性的な精神の癒しを求めているのよ!」

 

「バカなこと言ってないで避けないとまた刺されるわよ! パンの次は蚊の精神分析なんて、あんたのそのオカルト学問は本当に……痛っ!」

 

 私がメリーにツッコミを入れた瞬間、ふくらはぎにチクリとした痛みが走った。

 見下ろすと、そこには見事な赤い膨らみが形成され、強烈な痒みが私の脳神経を直接焼き焦がすように襲いかかってきた。

 

「ああもう、痒いっ! 計算のパラメーターがずれたじゃない!」

 

 足首を掻きむしろうと手を伸ばすが、無重力下での急な動作はバランスを崩す。空中で無様にジタバタと手足を振り回している間に、今度は耳の裏を刺された。

 チョークを持つ手が怒りと痒みで小刻みに震える。数式を書き連ねようとするたびに、全く予測不能なタイミングと角度から、見えない口吻が私たちの皮膚を正確に射抜いていく。

 合成食品で育った現代の私たちの血が、四次元の蚊にとってよほど新鮮な天然の御馳走だったのだろうか。

 

「くそっ、なんで……空間の曲率計算は完璧なはずなのに……!」

 

「ダメよ蓮子、私の母性的なアプローチも完全に無視されてるわ! むしろオーラを出せば出すほど寄ってきてる気がする!」

 

「あんたのその適当な精神波長がビーコン代わりになってるんじゃないの!? お願いだから大人しくしてて!」

 

「何よ、蓮子の数式だって全然役に立ってないじゃない! 踏ん張りが利かないからって、さっきから黒板と一緒にクルクル回ってるだけじゃないの!」

 

 足場がないため、私たちは飛来する四次元の刺客から逃げることも、効果的に身をかわすこともできない。ただ空中で無様に手足をばたつかせ、互いの無力さを罵り合いながら、一方的に血を吸われ続けるという地獄のような時間が過ぎていく。

 ボコボコに刺されていく私たちを、安全圏にいるプリニウスが空中からゲラゲラと笑いながら見下ろしている。

 

『無駄だ無駄だ。高次元の存在に対して、三次元の遅れた物理学やあやふやな精神論が通用するはずもない。大人しく血を吸い尽くされて干からびるがよい』

 

 その嘲笑と、全身を這い回る強烈な痒み。

 そして、「自分の完璧な数式が、ただの羽虫一匹に全く通用しない」という学究的な屈辱。

 ピキッ、と。

 私の手の中で、握りしめていた白墨が粉々に砕け散った。

 

「……あーもう。やってらんないわ」

 

 私は砕けたチョークの粉を空中に撒き散らし、絡ませていたパイプ椅子を力任せに蹴り飛ばした。

 

「れ、蓮子……?」

 

「計算なんてどうでもいい! 精神分析もクソもないわ! 要はあいつの羽音を物理的に黙らせればいいんでしょ!」

 

 痒みと苛立ちで完全に理性のタガが外れた私は、空中に漂うデブリの山に向かって泳ぐように手を伸ばした。

 そして見つけたのは、電子情報が主流となった現代ではすっかり姿を消した、前時代的な紙媒体の遺物――大量の「新聞紙」の束だった。

 私はそれを数枚重ねて力強く丸め、ガチガチに固めた最強の近接武器を作り上げた。

 

「メリー! あんたの能力で、空間の歪みが一番激しいポイントを指し示しなさい!」

 

「えっ? わ、分かったわ。結界の境目が激しく明滅しているのは……蓮子の右斜め上、45度の空間よ!」

 

「そこね!」

 

 私はひも理論も、多次元座標の計算式も、インテリジェンスも全てかなぐり捨て、ただの「原人」と化した。

 丸めた新聞紙をバットのように両手で握り締め、メリーが指し示した何もない空間に向かって、ただひたすらに力任せのフルスイングを放つ。

 

「超統一物理学を――舐めるなぁぁぁっ!!」

 

 ブンッ!! という風切り音とともに、私の野蛮すぎるスイングが空間の歪みを物理的に叩き据えた。

 

『プゥー……ッバチィィン!!』

 

 奇跡的な偶然か、それとも怒りに任せた暴力が次元の壁を穿ったのか。

 私の振り抜いた新聞紙の先端が、四次元から三次元に顔を出した瞬間の蚊にクリティカルヒットした。

 謎の青緑色の体液が空間に飛び散り、鬱陶しい羽音が完全に沈黙する。古代エジプト文明を滅ぼしたという大仰な設定の吸血生命体は、丸めた新聞紙による物理的暴挙の前に、盛大に叩き潰されて消滅した。

 

「……はぁ、はぁ、はぁ。ざまぁみない」

 

 私は丸めた新聞紙を肩に担ぎ、荒い息を吐きながらフンと鼻を鳴らした。

 見事な一撃だった。だが、私は物理学徒として、この閉鎖空間における最も基本的な法則を一つ、怒りのあまり完全に失念していた。

 ――ニュートン力学の第三法則。作用・反作用の法則。

 無重力空間において、足場を持たない物体が、全身のバネを使って全力で質量を振り抜いた場合、どうなるか。

 蚊を叩き潰した「作用」の力が、行き場を失った巨大な回転エネルギーとなって、足場を持たない私自身の肉体へとダイレクトに跳ね返ってきたのだ。

 

「えっ? あ、ちょっと待っ――」

 

 新聞紙を振り抜いた勢いそのままに、私の体は猛烈なスピードで錐揉み回転を始めた。

 制御不能。姿勢回復不可能。私は自らが生み出した膨大な角運動量に振り回され、人間ドリルと化して真っ暗な空間をすっ飛んでいく。

 

「いやあああああっ!!」

 

 ドゴォォォンッ!!

 私の顔面は、部屋の奥に積み上がっていた古い家具の山と、その後ろの壁面に、全く減速することなく猛スピードで突っ込んだ。

 凄まじい衝撃とともに星が飛び散り、私のフルスイングの威力と衝突エネルギーが、部屋を構成していた次元の壁そのものにピキピキと致命的な亀裂を走らせる。

 

「ちょっと蓮子!? 自爆した挙げ句に、空間全体がミシミシ言ってるわよ!?」

 

「うぅ……い、痛い……殴りすぎた……」

 

 瓦礫の山から足をバタバタとさせながら呻く私の頭上で、崩壊していく壁面からパラパラと破片が落ち始める。それまで余裕ぶっていたプリニウスのホログラムが、突如として激しくノイズを走らせた。

 

『ピピーッ! エラー発生。想定外の物理的干渉により、第3展示室の空間構造が崩壊中。これより、来訪者を最終区画である第42室へ強制転送します』

 

「えっ、本当!? これで終わり!?」

 

 痒みも自爆の痛みも忘れ、メリーと顔を見合わせて喜んだ直後。

 

『……嘘です。次は順当に第4室です。健闘を祈ります』

 

「このクソ猫ォォォ!」

 

 プリニウスの軽快な煽りアナウンスを最後に、ひび割れた壁が完全に崩壊した。無重力状態が一瞬にして解除され、私たちは再び重力の底――次の未知なる空間へと、絶叫を上げながら放り出されていくのであった。

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