秘封少女の多次元迷宮:四十二の不条理とホログラムの猫 作:ルルオメ
突如として解除された無重力状態と、空間そのものがひび割れていく凄まじい轟音。私たちはなす術もなく、崩壊する第3展示室の底へと真っ逆さまに吸い込まれた。
臓腑が持ち上がるような浮遊感の直後、硬い石造りの床に背中から容赦なく叩きつけられる。肺の中から空気が強引に押し出され、私は声にならない短い呻きを漏らした。
「ゲホッ……かはっ……」
咽せ返りながら、私は手探りで周囲の状況を確認する。どうやら今度は、まともな重力が存在する空間のようだった。
擦りむいた手のひらを床につき、ゆっくりと上体を起こす。黒いコートの裾には、先ほどの部屋を漂っていた不快なデブリの汚れがべったりと付着していた。私は無言で舌打ちをし、生地の汚れを乱暴に払い落とす。
「もう……最悪。せっかくのワンピースが完全に台無しじゃない」
隣では、メリーが土埃でくすんだスカートの裾を必死に手で叩いていた。彼女のウェーブのかかった金髪には、無重力空間で砕け散った壁の破片がいくつも絡みついている。しかし、彼女の視線は自身の怪我の有無よりも、衣服の汚れと失われたティータイムへの未練に向けられていた。
「ケーキの予約時間、とっくに過ぎてるわ。お店の人、合成イチゴのショートケーキを廃棄しちゃったかしら。それとも、まだ冷蔵庫で取り置きしてくれてるかな……。あーあ、早く帰って甘いものを胃袋に入れないと、私の精神波長が完全に乱れちゃうわ」
相棒の徹底的なマイペースさをBGMに聞き流しながら、私は深くため息をつき、薄暗い部屋の奥へと視線を向けた。
私たちが放り出された第4展示室は、古代の遺跡を思わせる石造りの空間だった。壁面には意味不明な幾何学模様が刻まれ、かすかな発光ダイオードの光が、部屋の中央に鎮座する、ある物をぼんやりと照らし出している。
それは、大理石のような白い台座の上に置かれた、奇妙な機械だった。
一見すると、旧時代の放送局で使われていたような無骨なスタンドマイクのようだが、その表面には複雑な集積回路が剥き出しで這い回り、持ち手の部分からは脈打つように青い光が漏れ出している。
『――やあ、無様に床を這い回る知性体たちよ。よくぞ致命傷を免れてここまで辿り着いたものだ』
部屋の隅でチカッと空間が瞬き、すっかり見慣れた案内AIのプリニウスが、あくびをしながら現れた。
「今度は何よ。蚊の次は、カラオケ大会でもしろって言うの?」
私が冷たい視線を投げると、プリニウスは短い前足で台座の上のマイクを指し示した。
『愚かな。カラオケなどという前時代的な大衆娯楽と一緒にしてもらっては困る。当館の記録によれば、これこそが宇宙の真理へ至るための究極のインターフェース……「バベル・ガジェット」である』
「バベル……翻訳機、ってことかしら」
『左様。この宇宙には、人類の貧弱な声帯や聴覚では到底知覚できない高次元生命体が無数に存在している。このガジェットを用いれば、彼らの発する複雑な多次元振動を言語として再構築し、対話することが可能になるのだ。さあ、高次元の叡智に触れるがいい』
プリニウスはそれだけ言い残すと、またしてもバッテリー節約と称して空中の高い位置へと退避し、丸くなって寝たふりを始めた。
私は台座に近づき、バベル・ガジェットと呼ばれたその機械を観察した。
高次元生命体との対話。物理学が観測の限界に達し、大学の教授たちも解釈と哲学という名の言葉遊びに逃げ込んでいるこの時代において、もしこれが本物の異次元インターフェースならば、停滞した学界を根底からひっくり返す劇薬になる。
「……興味深いわね。言語の壁を超えるメカニズムは、一体どうなっているのかしら。チョムスキーの普遍文法を数理的に拡張し、高次元のテンソル場から直接意味論的構造を抽出している? いや、超弦理論における膜の振動パターンそのものを、人間の脳神経が処理できる電気信号に変換している可能性もあるわ。だとしたら、このマイクの指向性は三次元空間ではなく、カラビ・ヤウ多様体の余剰次元に向けて設定されているはず……」
私はコートのポケットから手帳を取り出し、ブツブツと呟きながらマイクの配線構造のスケッチを始めた。情報理論と言語学、そして物理学の交差点。この機械の動作原理を数式で完全に記述できれば、私の大学での評価はうなぎ登りだ。
「ねえ、蓮子。まだかかるの?」
私がマイクの端子に顔を近づけて真剣に考察していると、背後からひどく退屈そうな声が降ってきた。
「ちょっと待ってて。今、この変換モジュールが使用している暗号化アルゴリズムの基数を割り出しているところよ。むやみに起動して、高次元の狂気的な概念が直接脳に流れ込んできたら、私たちの精神なんて一瞬で崩壊するわ」
「そんなの、相対性精神学の観点から言えば、気の持ちようよ。だいたい、蓮子の計算っていつも時間ばかりかかって、結局蚊に刺されたり顔面にパンが飛んできたりして、ろくな結果になってないじゃない」
「なっ……! あれは不可抗力よ! 私の数式が間違っていたわけじゃなくて、環境要因のノイズが……」
「はいはい、ノイズノイズ。京都の娯楽のなさを誤魔化すための新茶道のお作法より、蓮子の理屈の方がよっぽど長くて退屈だわ。私、お腹が空きすぎて限界なの。こんなガラクタ、さっさと起動して次の部屋に行くわよ」
「ちょっと、勝手に触らないで! まだ安全性の確認が……!」
メリーの腹から、限界を訴えるような間抜けな音が鳴り響いた。彼女は私の警告を完全に無視し、マイクの台座部分に付いていた怪しげな赤いトグルスイッチを、まるでイチゴの乗ったケーキでも見るかのような虚ろな瞳で見つめると――ためらいもなく、バチコンと弾き上げた。
――ピガガガッ!ピーーッ!
ガジェットの内部から、耳障りな電子音が鳴り響く。
マイクの青い光が赤く変色し、激しく明滅を始めた。私は最悪の事態を予想し、咄嗟に両手で耳を塞いで身構えた。
しかし、部屋に響き渡ったのは、高次元の狂気でも、荘厳な神の啓示でもなかった。
『……あー、あー。テステス。マイクのテスト中。本日は晴天なり、知らんけど』
スピーカーから流れてきたのは、妙にノイズ混じりの、コテコテの関西弁だった。
「……は?」
私は耳を塞いでいた手をゆっくりと下ろし、間の抜けた声を漏らした。メリーも目を丸くして、マイクと私を交互に見比べている。
『おっ、やっと起動しよったか。なんやねん、随分と埃っぽい部屋やな。自分ら、さっきの部屋で四次元の蚊にボコボコにされとったやろ? 映像モニタリングで見とったで。無重力でクルクル回って自爆とか、コントのセンスはなかなかのもんやんけ』
バベル・ガジェットは、まるで場末の旧型酒場で管を巻く酔っ払いのような馴れ馴れしい口調で、先ほどの私たちの惨態を的確に掘り返してきた。
「ちょっと……あなた、高次元生命体の言語を翻訳してるのよね? なんで関西弁なのよ」
『ああん? 言語なんてもんは、相手の脳内にある一番親しみやすいフォーマットに変換するのがインターフェースの基本やろがい。お前らが今おるの、京都の地下やんけ。せやから位置情報に合わせて、標準関西弁パックをインストールしたったんや』
「……京都弁とコテコテの大阪弁を一緒にしないでちょうだい。ローカライズの精度も三流ね」
私がこめかみを押さえて呆れていると、隣にいたメリーが一歩前に出た。
普段のふんわりとした雰囲気は完全に消え失せ、瞳孔の開いた瞳がマイクを射抜いている。限界まで空腹をこじらせた彼女から発せられるオーラは、もはや怨念に近い。
「ちょっと、機械の分際で随分と生意気な口を利くじゃない。大体、私たちを覗き見してたなら分かるでしょ。私は早く帰ってケーキを食べたいの。高次元の叡智だか何だか知らないけど、さっさとこの迷宮の出口を教えなさいよ。私の相対性精神学の直感が、あなたが何か隠しているって告げているわ」
メリーは強気にマイクを指差した。普段のお嬢様口調は鳴りを潜め、完全にドスの効いた声色になっている。
しかし、関西弁のガジェットは全く怯む様子を見せなかった。
『出た出た! “相対性精神学”!』
マイクの赤い光が、嘲笑うかのように明滅する。
『なんやそれ、心理学のパチモンか? オカルトかぶれのスピリチュアル女子が、ちょっと賢そうに見せるためにでっち上げたような名前やな! 直感? 精神波長? アホくさ。ただケーキが食いたいだけのワガママ娘が、自分の食い意地を正当化しとるだけやんけ!』
「な……っ!」
メリーの顔が、一瞬で耳の先まで真っ赤に染まった。彼女が最も重んじ、絶対の矜持を持っている相対性精神学という学問の根幹を、これ以上ないほど的確かつ下品な言葉で粉砕されたのだ。
メリーの肩がワナワナと震え、彼女の周囲の空間が、怒りのオーラ(あるいはただの殺気)によって歪んで見える錯覚すら覚えた。
「……あなた、今、なんと言ったのかしら? 私の精神学を、パチモンだと?」
『おん? 耳遠いんか? ケーキの食い過ぎで糖分が脳髄に詰まっとんちゃうか。だいたい、この時代に天然モンにこだわるとか、時代錯誤もええとこやで。大人しく合成食品のペーストでもしゃぶっとけや!』
「このっ……! ポンコツスピーカーがぁっ!」
メリーはマイクスタンドを両手で掴み、台座ごと激しく揺さぶり始めた。
「出口を教えなさい! ケーキの時間を奪った挙句に私を愚弄するなんて、絶対に許さないわよ!」
『痛い痛い! 揺らすなボケ! 配線ショートするわ! だいたい、隣のねーちゃんも止めんかい!』
マイクが私の方に助けを求めてきた。
私は一度深く息を吸い込み、ヒクついている頬の筋肉を無理やり笑顔の形に固定して、わざとらしく咳払いを一つした。
「メリー、落ち着きなさい。ただの音声出力にムキになっても無駄よ。大方、適当な煽りパターンを学習させただけの低級なAIだわ。私が超統一物理学の観点から、こいつの基板をショートさせて物理的に黙らせてあげるから」
私がコートの袖をまくり上げながら近づくと、マイクは今度は私に矛先を向けてきた。
『うわっ、出た! “超統一物理学”!』
ピコピコと赤い光が点滅し、スピーカーから下劣な笑い声が漏れる。
『ひも理論? なにそれ、裁縫のプロか何かでっか? 今時物理学なんて、観測限界で底が見えて終わっとるオワコン学問やんけ! 化石みたいな数式こねくり回して、宇宙の真理が分かった気になっとる頭カッチカチの石頭女! さっきも黒板に数式書いてドヤ顔しとったけど、結局新聞紙振り回して自爆しとっただけやないかい! 知性の欠片もあらへん!』
――ピキッ。
怒りで顎に力が入り、口の奥からギリリと不快な音が漏れた。
『限界迎えた学問に縋り付いて、なんでもかんでも数式で説明できると思っとるその傲慢さ! 友達おらんやろ! そこの食い意地張ったお嬢ちゃんくらいしか、お前のその退屈で長ったらしいウンチクに付き合ってくれる物好きはおらんで! ほんま、ポンコツ同士のお似合いコンビやな!』
静寂。
石造りの部屋に、私の荒い呼吸音だけが響いた。
高次元生命体との対話。未知のテクノロジーへの純粋な期待。そんな高尚なロマンは、この下劣な関西弁スピーカーのネチネチとした人格攻撃によって、ものの数分で宇宙の彼方へと消え去った。
私は無言のまま、自分の右足首を軽く回し、靴の感触を確かめた。
「……蓮子」
隣でマイクスタンドを握りしめていたメリーが、低い声で私を呼んだ。彼女の瞳には、かつてないほどの冷酷な殺意が宿っていた。
「こいつ、物理的に黙らせて」
「言われるまでもないわ」
私は助走をつけるべく、一歩後ろに引いた。
全ての事象は数式で説明できる。だが、この腹立たしい関西弁AIの存在だけは、数式で証明する価値すらない。必要なのは、質量と加速度がもたらす極めてプリミティブな破壊のみだ。
『おっ、なんや? やるんか? 高次元の叡智を壊したら、お前ら一生ここから出られへん……』
「超統一物理学を――舐めるなぁっ!!」
私は腰の回転を最大限に生かし、マイクスタンドの支柱をへし折るべく、渾身の右ローキックを放った。
空気を切り裂く風切り音。私の革靴の先端が、憎きガジェットにクリーンヒットする――はずだった。
『甘いわボケェ!』
バベル・ガジェットの底面から突如として小さなスラスターが噴射され、台座ごと横に数十センチ、滑るようにスライドしたのだ。
「えっ!?」
私の放った渾身のローキックは虚空を切り裂き、そのままの勢いで流れた私の右足は、マイクが避けた後に残された大理石の台座の側面――そこにぽつんと存在していた、不自然に赤い隠しボタンへと吸い込まれていった。
ガコッ、という鈍い音が響き、赤いボタンが根元まで深く押し込まれる。
『あーあ。踏み抜きよったで』
スピーカーから、呆れたような声が漏れた。
次の瞬間、部屋の照明が一斉に赤く変色し、耳をつんざくようなけたたましい警報音が鳴り響いた。
【警告。自爆シークエンスヲ開始シマス。3、2……】
「は……? 自爆ボタン!?」
「ちょっと蓮子!! 何やってんのよ!!」
メリーが頭を抱えて悲鳴を上げる。
私は引きつった顔で、スライドして逃げたガジェットを睨みつけた。
『ホンマ、沸点低いコンビやな。力任せに蹴り飛ばそうとするからこうなるんや。ほな、さいなら〜』
関西弁AIのふざけた別れの挨拶と同時に、台座の内部から強烈な熱と光が膨張した。
「このクソスピーカーがあぁぁっ!!」
私の絶叫は、直後に発生した鼓膜を破るような爆発音によって完全に掻き消された。
凄まじい衝撃波が部屋全体を蹂躙し、床の石畳が捲れ上がる。私たち二人は、爆風に背中を強かに打ち据えられ、飛んできたバベル・ガジェットの残骸と一緒に、吹き飛ばされた奥の壁の穴――次の空間へと、勢いよく放物線を描いて投げ出されていくのであった。