秘封少女の多次元迷宮:四十二の不条理とホログラムの猫 作:ルルオメ
鼓膜を破るような爆発音と凄まじい衝撃波。私たち二人は、バベル・ガジェットの自爆によって吹き飛ばされ、第4展示室の壁にぽっかりと空いた大穴を無様な放物線を描いて通り抜けた。
背中や肩を何度も硬い床に打ち付けながらゴロゴロと転がり、ようやく摩擦によって静止する。
「いっ、たぁ……っ」
全身の骨が軋む痛みに顔を歪めながら、私はよろよろと身を起こした。
薄暗い空間。しかし、これまでのような無機質な石造りや純白の部屋とは明らかに異なっていた。周囲には巨大な木製の樽がいくつも積み上げられ、空間全体が仄暗く、そして何よりも――むせ返るような、甘く芳醇な香りが充満していた。
「な、何よこれ……すごい匂い。頭が、クラクラする……」
隣でうずくまっていたメリーが、ふらつく足取りで立ち上がりながら鼻を抑えた。
極限まで空腹をこじらせ、喉もカラカラに乾いていた私たちは、無防備にその空気を肺の奥深くまで吸い込んでしまっていた。
その瞬間、私の脳細胞の結合が、物理的な異物によって強制的に弛緩していくのを感じた。視界の端がぐにゃりと歪み、思考のピントが甘くなる。
「こ、これは……アルコール蒸気ね。しかも、ただのアルコールじゃないわ」
私は熱を帯び始めた頬に手を当て、呂律が怪しくなり始めた口を動かした。
アルコール分解酵素が親切に添加された新型酒ばかり飲んでいる私の脳髄を、発酵工程を経た本物の旧型酒の暴力的な揮発成分が直接殴りつけてきた。一部の好事家がわざわざ理性を手放すために大金を払うという前時代的な毒牙に、限界まで空きっ腹の状態で噛み付かれたのだ。
換気の悪い密室に大量に貯蔵された旧型酒から揮発したエタノール。それを、極度の疲労と空腹状態で吸い込めばどうなるか。
「あはっ……蓮子、なんか顔が赤いよぉ? 怒りすぎで血圧上がったんじゃないの〜?」
隣から聞こえてきたのは、普段のすましたお嬢様声からは想像もつかない、だらしない笑い声だった。
見れば、メリーがだらんと腕を下げ、瞳をトロンと潤ませながら私に寄りかかってきている。怒りや空腹で理性が飛ぶのとは次元が違う。彼女は積み上げられた巨大な木樽をうっとりとした目で見上げている。
「ねぇ見てよ蓮子ぉ……あのおっきな樽、巨大なバウムクーヘンに見えない? 端っこから齧り付いたら、きっと甘くて美味しいわよぉ……」
「バカなこと言ってないで、しっかり立ちなさいよ……。あんた、目が完全に据わってるわよ……」
木樽と焼き菓子の区別もつかなくなった相棒をたしなめようとしたが、私の舌もひどくもつれていた。論理的で合理的な思考の防壁が、ドロドロに溶け落ちていく。
そんな千鳥足の私たちの前に、空間がノイズとともに瞬き、あの忌々しい三毛猫のホログラムが現れた。
『やあやあ、アルコール度数満点の知性体たちよ。歓迎しよう』
案内AIのプリニウスが、空中でくるりと宙返りをして見せる。その残像が三つくらいにブレて見え、私の胃の不快感をさらに煽った。
「おのれ……クソ猫……今度は、酒蔵の番人でも気取るつもり……?」
私がふらつきながら人差し指を突きつけると、プリニウスは得意げにヒゲを揺らし、部屋の中央を指し示した。
そこには、周囲の木樽とは全く不釣り合いな、やけに重厚で金属的な巨大な冷蔵庫が鎮座していた。
『当館の記録によれば、あれはただの冷蔵庫ではない。庫内にはかの有名な「マクスウェルの悪魔」が幽閉されている』
「……まくすうぇるの、あくま?」
『左様。悪魔は分子の運動を見極め、熱い分子と冷たい分子をより分けることでエントロピーの法則を打ち破っている。そして、その絶対零度の霊薬庫の中には、ひとたび口にすれば不老不死に至るという究極の霊薬が保存されているのだ!』
プリニウスの仰々しいアナウンスを聞いた瞬間、私の乾ききった喉がゴクリと鳴った。
不老不死の霊薬なんて三流オカルトはどうでもいい。今の私にとって重要なのは、冷蔵庫の中に冷たい液体が入っているという事実だけだ。
「へ、へえ……エントロピーを減少させる悪魔ね。上等じゃないの……」
私は千鳥足で巨大な冷蔵庫へと歩み寄った。脳内でシラードのエンジンや情報理論を組み立てようとするが、アルコールに浸かったシナプスは使い物にならない。出てくるのは、学部一年生でも知っているような基礎的な物理法則の羅列だけだった。
「熱力学、だいにほーそくを舐めるな……! 孤立系のエントロピーは常に増大するのよ! 悪魔が分子の選別を行う際の観測行為自体がエネルギーを消費し、結果として系全体のエントロピーは増大する……ランダウアーの原理よ! つまり、無から冷気を作り出す悪魔なんて存在しないのよ!」
私は呂律の回らない口で支離滅裂に叫びながら、冷蔵庫の分厚い扉の取っ手に両手をかけ、力任せに引っ張った。だが、扉はびくともしない。
「開けぇ! 私の、喉の渇きを……物理学の真理で潤しなさいよぉ!」
「ちょっとぉ、蓮子ぉ。そんな力任せじゃ、悪魔さんが可哀想じゃないの〜」
後ろから伸びてきたメリーの手が、私の肩をポンポンと叩いた。彼女の顔は完全に出来上がっており、ブラウスの襟元もだらしなく崩れている。
「相対性精神学の観点から言わせてもらえばねぇ……ヒック。そのマクスウェルだかなんだかの悪魔さん、ものすっごい精神的ストレス抱えてると思うのよぉ」
「はぁ? 悪魔のストレスゥ?」
「そーよ! 考えてもみなさいよぉ。こんな狭くて暗い冷蔵庫の中にずっと閉じ込められて、右から左へ、熱い分子と冷たい分子を延々と選別させられるのよ? 単調作業の極みじゃない! 承認欲求も満たされないし、自己実現もクソもないわ! きっと今頃、情報の過剰処理でバーンアウトを起こしてるに違いないわ!」
メリーは冷蔵庫の扉をさすりながら、見えもしない悪魔に向かって同情の涙を拭うような仕草を見せた。
「ブラック企業並みの労働環境に対する無言のストライキだわ。だからねぇ、悪魔さん。もう無理しなくていいのよぉ。扉を開けて、私たちと一緒にこの旧型酒を飲んでパーッとやりましょ〜? ねぇ〜?」
「バカなこと言ってないで手伝いなさいよ! 情報の消去には必ず熱の放出が伴うの! 悪魔の脳内メモリーはとっくにパンクしてるのよ!」
「蓮子は冷酷ねぇ! 物理学者っていつもそう! 数字ばっかりで血が通ってないのよ!」
「なんだとぉ! あんたのその適当な労働環境分析が役に立った試しが一度でもあるって言うの!?」
酩酊状態の私たちは、冷蔵庫の取っ手を巡って押し合いへし合いの醜い取っ組み合いを始めた。
「ランダウアーの原理が!」「労働環境の改善を!」「エントロピーの増大!」「心理学じゃなくて精神学よぉ!」
意味不明な怒号が、アルコールの充満する酒蔵に響き渡る。
そして、二人が総がかりで取っ手に体重をかけ、思い切り後ろに引っ張ったその瞬間。
――プシューッ。
真空パックが解けるような音とともに、重厚な扉がガコンと開いた。
「「……開いたぁ!」」
私たちは歓声を上げ、中から溢れ出すであろう絶対零度の冷気と、不老不死の霊薬を待ち構えた。
しかし、冷蔵庫の中から漂ってきたのは、冷気ではなく、ただのむわっとした生ぬるい空気だった。
広大な庫内には、霊薬どころか氷の欠片一つなく、ただ中央の棚に、一本のペットボトルがぽつんと置かれているだけだった。
「……なにこれ」
私がふらつきながらそのペットボトルを手に取ると、ラベルには見慣れた赤い背景に白い筆記体で『コーラ』と書かれていた。
しかも、表面には水滴一つ付いていない。それどころか、周囲のアルコール蒸気の熱気をたっぷりと吸い込み、人間の体温に近い不快な生ぬるさを帯びていた。
「私の霊薬は? 冷たい飲み物はどこよ……?」
『おや、これは妙ですね。当館の記録によれば、絶対零度に保たれているはずなのですが』
プリニウスが空中からひらひらと舞い降りてきて、生ぬるいコーラを覗き込んだ。そして、ヒゲをピクピクと動かして、あっけらかんと言い放った。
『ああ、なるほど。理解しました。どうやら悪魔は、外でギャーギャーと騒ぐ君たちの口喧嘩に気を取られ、分子の選別作業を盛大にサボっていたようです。結果として、庫内のエントロピーは完全に増大し、霊薬はただの生ぬるい炭酸飲料に成り下がってしまったと』
「……は?」
『君たちのその低俗な騒音が、宇宙の真理を凡庸な砂糖水へとダウングレードさせたのです。誠に遺憾ですね。……まあ、どうでもいいですが』
ぷいっとそっぽを向くホログラムの猫。
手の中で、ぬるりとした温度を伝えるペットボトル。
そして、カラカラに乾ききった私の喉。
――プツン。
エタノールの麻酔作用すらも貫通して、私の脳内で何かが決定的に断線する音がした。
「……私の計算を邪魔した挙句、喉の渇きすら癒やせないなんて」
手の中の生ぬるいペットボトルが、ミシミシと嫌な音を立てて凹んだ。私の思考の歯車がギリギリと軋み、視界の端でマクスウェルの法則だの熱力学だのといった高尚な文字列が、シュワシュワと泡を立てて溶けていくのが分かった。
「ふざけるなぁぁぁっ!!」
私は千鳥足で二、三歩後ろへ下がり、助走をつけて、大きく開け放たれた巨大冷蔵庫の分厚い扉に向かって、渾身の力でドロップキックを放った。
ヒールが金属の扉に激突し、凄まじい打撃音が響く。
その瞬間だった。
床に転がっていた生ぬるいコーラのペットボトルが、私の蹴りの衝撃波を受けて限界を迎え、蓄積されていた炭酸ガスを一気に解放したのだ。
――ボッッッッカァァァン!!!
ただの炭酸飲料とは思えない規模の大爆発。
密閉されていた生ぬるいガスが、アルコール蒸気と引火したのか、凄まじい爆風となって庫内から噴出した。
その爆風は、私が蹴り飛ばして蝶番から外れかけていた冷蔵庫の分厚い扉を、まるで大砲の弾のように吹き飛ばした。
「えっ……きゃあああっ!?」
蹴りの姿勢のまま空中にいた私は、吹き飛んできた冷蔵庫の扉に下からすくい上げられた。
扉はそのままサーフボードのように私を乗せ、爆風の推進力を得て、酒蔵の床を猛スピードで滑走し始めた。
「ちょっ、蓮子ぉぉぉ!? どこ行くのぉぉぉ!」
背後でメリーの間の抜けた悲鳴が遠ざかっていく。
私は冷蔵庫の扉の上で、まるで荒波に乗るサーファーのように必死にバランスを取りながら、猛烈な勢いで部屋の奥の壁へと突進していった。
「どきなさい! 超統一物理学が通るわよぉぉぉっ!!」
もはや自分が何を叫んでいるのかも分からなかった。
ドゴォォォンッ!!
私は扉に乗ったまま、第5展示室の壁面を豪快にぶち破り、そのままの勢いで第6展示室へと雪崩れ込んでいくのだった。