秘封少女の多次元迷宮:四十二の不条理とホログラムの猫 作:ルルオメ
爆風を背に受け、私は冷蔵庫の分厚い扉に乗ったまま、第5展示室の石壁を豪快に粉砕した。
視界を真っ白な粉塵が覆い尽くし、直後にむせ返るような青臭い湿気が肺の奥へと流れ込んでくる。摩擦で火花を散らしていた扉は、柔らかく湿った腐葉土の地面に深く突き刺さり、私を前方の茂みへと容赦なく放り出した。
「げほっ、かはっ……! 泥、最悪……っ」
顔面から突っ込んだ巨大なシダ植物の葉を払いのけ、私は泥まみれになったコートの袖で口元を拭った。遅れて、壁の穴から瓦礫と一緒に転がり込んできたメリーが、「もうやだ、お家に帰るぅ……」と涙目で呻きながらシダの根元にへたり込む。
私は痛む腰を擦りながら立ち上がり、頭上を仰ぎ見た。
そこは、石造りの遺跡や無機質な空間とは全く異なる、狂気的なまでに緑が生い茂る巨大な温室空間だった。ドーム状の天井からは人工的な太陽光が降り注いでいるが、熱帯のシダ植物と寒帯の針葉樹が、本来の生態系を無視して無秩序に絡み合っている。天然物が存在感を失い、ひび割れたアスファルトに奇妙な花しか咲かない現代の京都から見れば、あまりにも暴力的な生命の密林だった。
「……計算外の生態系ね。本来交わるはずのない植物群が、閉鎖空間で強制的にテラフォーミングのシミュレートをさせられた結果、完全に暴走しているわ」
「テラフォーミング……? じゃあここ、鳥船遺跡の真似事なの?」
メリーが泥だらけの金髪を払いながら、周囲をキョロキョロと見回した。
私が周囲の植生からこの展示室のテーマを看破したのと同時に、茂みの奥で青白い光が瞬いた。
『ご名答。やあやあ、泥に塗れた哀れな知性体たちよ。当館の誇る第6展示室へようこそ』
シダの葉の隙間から、憎き三毛猫のプリニウスが、しっぽを悠然と揺らしながら空中を泳いできた。その無傷で愛らしい二頭身の姿を見るだけで、先ほどの旧型酒のアルコールが逆流してきそうになる。
「今度はジャングル探検の真似事? 生憎だけど、私たちは泥遊びを楽しむほど体力に余裕はないわよ」
私が冷たく吐き捨てると、プリニウスは短い前足で、巨大なシダ植物に囲まれた広場の中心を指し示した。
そこにぽつんと置かれていたのは、銀河の神秘にも古代の叡智にも程遠い、キャスターの錆びついたボロボロの「手押し台車」だった。
ホームセンターの資材置き場に転がっているような、ごくありふれた鉄製の台車である。持ち手のパイプはひしゃげ、荷台のゴムマットは剥がれかけ、四つの車輪のうち一つは明後日の方向を向いている。
『よくぞ見つけた。あれこそが、かつて銀河帝国を統べた皇帝の玉座である』
「……は?」
『玉座は数千年の長きにわたり、少しでも傷がつけば新たな部品と交換され、修復され続けてきた。結果として、現在あの台車を構成している部品の中で、初代皇帝が座ったオリジナルのパーツは原子一つとして残っていない。全ての部品が置き換えられた、完全なる「テセウスの船」――否、テセウスの台車である!』
プリニウスは大真面目な声で大仰な解説を響かせると、「では、哲学的な思索に耽るがよい」と言い残し、さっさとシダの葉の裏側へと消えていった。
静まり返った温室に、人工的な羽虫の鳴き声だけが響く。
私は重い息を吐き出し、ぬかるんだ土の上に力なく両膝をついた。隣のメリーも、泥で汚れたワンピースの裾を気にする気力すら失い、うつろな瞳で台車を見つめている。
度重なる理不尽なトラップと、アルコール蒸気による脳へのダメージ、そして何より延々と続く迷宮の歩行。私たちの体力と精神力は、すでに限界の底を割っていた。
「……ねえ、蓮子」
メリーが、ひび割れた唇を動かした。
「あの台車……全ての部品が交換されてるなら、もう元のテセウスの台車とは呼べないわよね」
「……そうね。位相幾何学的に見れば、同じ形を保っていると言えるかもしれないけど、統計力学的な物質の連続性は完全に絶たれているわ。元の台車と同じ形をしているだけの、ただのレプリカよ」
私たちは、疲労困憊の泥だらけの姿で、なぜか「同一性のパラドックス」についての高度な哲学論争を始めた。
だが、私たちの脳内を支配していたのは、学究的な探求心などという高尚なものではない。二人の頭の中は、全く同じ一つの、極めて利己的な欲望で埋め尽くされていた。
――(同一性なんてどうでもいいから、早く私をあの台車に乗せて、相手に押させたい)。
「でもね蓮子、相対性精神学の観点から言えば、物質の入れ替わりなんて些末な問題よ。歴代の銀河皇帝たちが『これは玉座だ』と認識し続けたその精神波長こそが、この台車にアイデンティティを与えているの。だからこれは、紛れもなく本物よ」
メリーはもっともらしい顔でオカルト的な思念の宿りを主張しながら、ふらふらと立ち上がり、台車に向かって歩み寄った。
そして、私が止める間もなく、ちゃっかりと荷台の中央に腰を下ろし、ふぅ、とわざとらしく安堵の息を吐いた。
「ああ……感じるわ。皇帝たちの偉大な精神の系譜を。蓮子、私はここで相対性精神学の深い瞑想に入るから、あなたはこの玉座を次の部屋まで真っ直ぐ押し進めなさい」
「ちょっと待ちなさいよ。観測者の主観だけで同一性が確定するなんて、コペンハーゲン解釈の拡大解釈にも程があるわ! 物質的なオリジナルが失われている以上、これはただの粗大ゴミよ。粗大ゴミに座るなんて、あんたの矜持が許さないんじゃないの?」
「あら、私は精神の宿った本物に敬意を表して座っているだけよ! 蓮子こそ、ただの粗大ゴミだと思ってるなら、触らずに後ろから台座ごと押してちょうだい!」
「どっちにしろ私に押させる気満々じゃない!」
私はメリーの前に回り込み、台車のひしゃげた持ち手をガシッと掴んだ。
私はもう一歩も歩きたくないのだ。この台車の荷台に丸くうずくまって、メリーに延々と運んでもらうことだけが、今の私の生きる希望なのだ。
「そもそも、私の計算によれば、あんたのその適当な体重とこの泥の摩擦係数じゃ、私一人の力で押し切るなんて物理的に不可能よ! 仕事量が私のカロリー摂取量を上回ってるわ!」
「カロリー計算なんて無粋だって言ってるでしょ! 精神力でカバーしなさいよ、この脳筋物理学者!」
メリーが台車の荷台の端を掴み、力任せに引っ張る。
私も持ち手を握ったまま、絶対に譲るまいと体重を後ろにかけた。
ギギギ、と錆びた車輪が悲鳴を上げる。
「そもそも、この持ち手のパイプ! コーティングの摩耗具合から見て、どう考えても後から付け足された安物じゃない! 銀河皇帝の精神波長なんて欠片も宿ってないわ! 不純物よ!」
私は自らの独占欲を正当化するため、強引な理屈をこねながら、ひひしゃげたパイプの持ち手を渾身の力で蹴り飛ばした。
バキッ!という小気味良い音とともに、溶接が劣化していた持ち手のパイプが根元からへし折れ、泥の中に転がる。
「あっ! ちょっと蓮子、何するのよ!」
背もたれを失ったメリーが、あわや泥の中に後頭部から落ちそうになる。
「不純物を取り除いて、よりオリジナルに近づけてあげたのよ! さあ、瞑想に集中できないならさっさと降りなさい!」
「詭弁よ! なら、この荷台のゴムマットだってそうじゃない! 明らかに波長が乱れてるわ! 過去の皇帝の怠惰な思念がこびりついてて、不潔極まりないわ!」
メリーは怒りに任せて、荷台に貼り付いていた黒いゴムマットの端を掴み、ベリベリと力任せに引き剥がした。劣化した接着剤が千切れ、ただの冷たい鉄板が剥き出しになる。
「ちょっと! クッション性がなくなるじゃない! 私が座る時に痛いでしょ!」
「精神の浄化よ! それに、この右前のキャスター! 車輪の回転軸が歪んでて、真っ直ぐ進まないじゃない! これじゃあ私の直感が鈍るわ!」
メリーは近くに落ちていた手頃な石を拾い上げ、右前のキャスターの根元をガンガンと殴りつけ始めた。金属の留め具がひしゃげ、車輪がポロリと外れて転がる。
ガクン、と台車が傾き、もはや車輪のついた乗り物としての機能すら失われた。
「あああっ! 私の足回りが!」
「だったらこのボルトも偽物よ! 超統一物理学的に見て、この規格は明らかに現代のホームセンターのものだわ!」
「その鉄板の錆び方も精神学的に不純よ! 剥がしてやるわ!」
もはや、哲学的なパラドックスも、学術的な同一性の議論も完全に消え失せていた。
互いに「自分が座るため」「相手に座らせないため」という極めて低次元なエゴのぶつけ合いが、相手の主張するパーツを物理的に破壊するという、最悪のチャンバラへと発展したのだ。
泥だらけの温室の中で、卓越した頭脳を持つはずの二人の女が、互いの学説を金切り声で罵り合いながら、一台の可哀想な台車を素手と石とヒールで徹底的に解体していく。
ガンッ!バキィッ!ガシャーン!
原始的な破壊音がジャングルにこだまする。
数分後。
私たちの足元には、ひしゃげた鉄パイプ、引き裂かれたゴムマット、無残に散らばったボルト、そしてひっくり返ったただの鉄板の残骸だけが残されていた。
台車としての機能はおろか、その原形すら完全に喪失した、ただのゴミの山である。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
「……ぜぇ、ぜぇ」
肩で息をしながら、私たちはその鉄屑の山を見下ろした。
どちらも座れない。どちらも乗れない。
同一性のパラドックスは、暴力による完全な物理的破壊という最も野蛮な手法によって、強制的に解決されたのだ。
「……ほら見なさい、蓮子がパイプなんか蹴り折るから、ただの鉄屑になっちゃったじゃない」
「あんたが車輪を石で殴り壊したからでしょ。これじゃ乗れないわ」
私たちは泥だらけの顔を見合わせ、虚脱感とともにその場にへたり込んだ。結局、疲れた足を引きずって歩くしかないという絶望的な現実だけが残された。
その時。
静まり返ったゴミの山の中から、突如として『ピイィィィィン!』という、スーパーのレジのような甲高い電子音が鳴り響いた。
ビクッと肩を揺らして見つめると、ひしゃげた鉄板の裏側にへばりついていた黒い小さなボックスから、ジーーッという音とともに一枚のレシートのような感熱紙が吐き出されてきた。
私は怪訝な顔でその紙切れを拾い上げ、印字された文字を読み上げた。
「……『歴史的遺物損壊罪:罰金2円』」
沈黙が落ちた。
2円。情報の電子化が進みきった現代社会において、存在意義すら疑わしいほどの極小の単位。銀河皇帝の玉座を破壊した代償としては、あまりにも人を小馬鹿にした金額である。
「……は? 誰が払うのよこれ!」
「私じゃないわよ! 蓮子がパイプを壊したのが原因でしょ!」
「あんたが車輪を壊したからよ!」
私は怒りに任せてそのレシートをビリビリに破り捨て、足元に転がっていた台車の車輪を無言で拾い上げた。重みのある鉄のブラケットが、泥だらけの手のひらに妙に馴染む。
哲学も、パラドックスも、もはやどうでもいい。ただ、この重たい鉄の塊が、次の部屋でプリニウスのホログラム発生装置を叩き割るための立派な打撃武器になることだけが、今の私にとっての唯一の真理であった。