秘封少女の多次元迷宮:四十二の不条理とホログラムの猫 作:ルルオメ
剥き出しの鉄板から引き千切った錆びたキャスターを右手に提げ、私は第6展示室の温室を後にした。
重厚な隔壁を押し開けた途端、鼓膜を暴力的に打ち据える凄まじい騒音が私たちを包み込んだ。
ガチャン、ターン。ガガガガガガガ、チーン。
それは、現代社会ではもはや博物館のオーディオ資料でしか聞くことのできない、物理的なキーを叩きつける打鍵音と、改行ベルの不協和音だった。
無意識に顔をしかめ、私は重たいコートの襟を立てて視界を開く。
第7展示室は、見渡す限りの広大な空間すべてが、無機質なデスクと山積みの紙の束で埋め尽くされていた。そして、そのデスクの一つ一つに向かい、真鍮製のアンティークなタイプライターを狂ったような速度で叩き続けているのは、毛皮を持たない無機質な金属骨格の猿型ロボットの群れだった。
情報の電子化が完了し、紙媒体そのものが絶大な価値を持つ骨董品として取引されるこの時代において、これほど大量の真新しい紙がインクの染みに変えられ、無造作に床へ撒き散らされている光景は、もはや狂気を通り越して一種の冒涜的な芸術にすら見えた。
『やあやあ、紙の匂いにむせ返る哀れな知性体たちよ。歓迎しよう』
空中に青白いノイズが走り、プリニウスが宙返りをしながら姿を現した。私は右手に握った鉄のキャスターを無言で振り上げたが、三毛猫のホログラムは私から絶妙な距離を取り、大量の猿たちを見下ろしてヒゲを揺らした。
『この壮観な景色に圧倒されたかな? 当館の記録によれば、ここは宇宙のすべての事象、過去から未来に至るまでの「アカシックレコード」を記述し続ける神聖なる工房である』
「アカシックレコードね。どう見ても、粗大ゴミの猿がデタラメにキーボードを叩いているようにしか見えないけれど」
『無知とは恐ろしいものだ。これは「無限の猿定理」の完全なる具現化である。無限の猿が無限の時間をかけてタイプライターを叩き続ければ、いつかは必ずシェイクスピアの全集すらも一言一句違わずに打ち出される。彼らは今、ランダムな打鍵によって、この多次元宇宙の真理そのものを確率論的に紡ぎ出している最中なのだ!』
プリニウスはドヤ顔で言い放ち、再び虚空へと姿を消した。
私は右手のキャスターをゆっくりと下ろし、周囲で休むことなく響き続ける打鍵音に耳を傾けた。
「……無限の猿定理、ね」
私は泥まみれのコートのポケットを探る手を止め、深い溜息と共に脳内の演算領域を強制起動させた。
「いいこと、メリー。猿がランダムにタイプライターを叩いて、意味のある文章が完成する確率なんて、事実上ゼロに等しいわ。例えば、アルファベットと記号を含めた50個のキーから、たった10文字の特定の単語を打ち出すだけでも、その確率は50の10乗分の1。ボレル・カンテリの補題を持ち出すまでもなく、シェイクスピアの『ハムレット』を完成させるには、観測可能な宇宙の寿命を何百兆回繰り返しても足りないのよ」
「あら、蓮子は相変わらず数字遊びがお好きなのね。でも、ここにあるのはただのランダムじゃないかもしれないわよ?」
泥と埃で汚れきったワンピースの裾を引きずりながら、メリーが一匹の猿型ロボットの背後に立った。彼女は瞳を細め、空間の歪みを見つめるように両手を広げる。
「相対性精神学の観点から見れば、この猿たちは単なる物理的な乱数発生器じゃない。彼らの無機質な電子頭脳の奥底には、この迷宮を構築した何者かの『集合的無意識』がリンクしている形跡があるわ。結界の境目が、キーボードの配列とシンクロして明滅しているもの。つまり、彼らは深層心理の海から、直接『意味』をすくい上げているのよ」
「バカなこと言わないで。情報のシャノン・エントロピーを無視して無から有が生み出されるわけがないでしょ。彼らが打ち出しているのは、ただのインクの染みよ」
「なら、確かめてみればいいじゃない。ユングのシンクロニシティが勝つか、蓮子のつまらない確率論が勝つか」
私たちが互いの学説を不毛にぶつけ合っている最中、すぐ横のタイプライターが小気味良いベルの音を鳴らした。
チーン、という音と共に、猿型ロボットが印字を終えた一枚の紙を無造作に放り投げる。
ひらひらと宙を舞ったその紙切れを、私は反射的に空中で掴み取った。紙の手触りは本物だ。天然のパルプ繊維の感触。これだけの分量があれば、神田の古書店街で相当な額になる。
だが、問題はそこに印字された文字列だった。
私は瞳を細め、メリーも私の肩越しにその紙面を覗き込んだ。
もしそこに、観測限界を迎えて哲学と化した現代物理学がどうしても到達できなかった、余剰次元の完全な数理的証明が記されていたら。あるいは、メリーの言う通り、相対性精神学を裏付ける深層心理のアーキテクチャが記述されていたら。
私たちはこの無数の猿たちを、宇宙の真理を紡ぐ神の使いとして敬意を払っただろう。
だが、そこにタイプされていた文章は、私たちの期待を、ある意味で根底から、そして最悪の形で裏切るものだった。
『――「メリー、君の境界を視る瞳だけが、私のひも理論を完成させる最後のピースだったんだ」
蓮子はそう言うと、普段の理屈っぽい仮面を脱ぎ捨て、黒曜石のような瞳をかつてないほどの熱い涙で潤ませた。彼女の白く細い指先が、メリーのウェーブのかかった金髪を優しく撫でる。
「蓮子……私の方こそ、あなたのその不器用で冷たい数式に、ずっと守られていたのね」
メリーは感極まり、蓮子の胸元に顔を埋めた。二人は宇宙の真理などどうでもよくなるほど、強く、激しく、互いの体温を確かめ合うように熱い抱擁を交わした。もはや次元の壁すらも、二人の愛の重力の前に崩れ去っていく――』
沈黙。
打鍵音の喧騒の中、私とメリーの周辺だけが、絶対零度の真空に放り込まれたかのように静まり返った。
私の右手の指先が、プルプルと小刻みに震え始める。インクの匂いが、突如として酷い悪臭に感じられた。
隣のメリーを見れば、彼女は瞬きすら忘れ、口を半開きにしたまま紙面を凝視している。その紫色の瞳の奥から、急速に光が失われていくのが分かった。
「……なぁに、これ」
私の口から、地を這うような低い声が漏れた。
「……私のキャラ解釈が、根本から間違っている」
メリーが、拳を固く握りしめた。
「は……? 愛の重力? 熱い涙で潤ませる? 私が、あんたなんかの前で泣きながら髪を撫でる!? 超統一物理学を、こんな三流のメロドラマの小道具に使うんじゃないわよ!!」
私の前頭葉で、何かが致命的な音を立てて弾け飛んだ。
確率論の証明も、集合的無意識の探求も、この瞬間に完全に宇宙の彼方へと消し飛んだ。高尚な学術的議論をしていたはずの私たちは、己のアイデンティティを著しく歪曲された解釈違いに対する、極めて俗物的な怒りの業火に包まれた。
「だいたい、なんで私がこんなにベタベタして、蓮子の胸で泣き崩れるようなか弱くて従順な役回りなのよ! 泣き言を言う暇があったら、結界の境目を蹴り破ってさっさとケーキ屋に向かうわ! 私の徹底したマイペースさを完全にガン無視してるじゃない! 解釈が浅すぎるわ!」
「あんただって、私の冷たい数式に守られていたとか抜かしてるじゃない! 私の数式は宇宙の真理を解き明かすためのものよ! あんたを甘やかすための防壁じゃないわ! だいたい、私がこんな臭いセリフを吐く人間だと思われてることが屈辱よ!」
私たちは紙切れを挟んで、互いの解釈違いポイントを絶叫しながら罵り合った。
無限の猿が偶然紡ぎ出した文字列は、私たちを神の真理へ導くどころか、極めて俗物的な怒りの導火線に火を点けたのだ。
「もう許さない……! 確率論の奇跡だか何だか知らないけど、こんなクソみたいな二次創作を垂れ流す機械なんて、一台残らずスクラップにしてやるわ!」
私は激怒で前髪を振り乱し、右手に握りしめていた第6展示室の遺物――重さ数キロはあろうかという鉄のキャスターを、頭上高く振りかぶった。
「解釈違い、お断りよぉぉぉっ!!」
ガァァンッ!! 私が全力で振り下ろした鉄の車輪が、最も近くにいた猿型ロボットの頭部を完璧に粉砕した。
火花が散り、電子部品が宙を舞う。それと同時に、タイプライターの給紙トレイにセットされていた真新しい原稿用紙の束が衝撃で弾け飛んだ。
科学世紀において、値千金の価値を持つ無地の原稿用紙の山。それが、ただの「解釈違いの駄文を印刷するインフラ」として私の逆鱗に触れた結果、まるでスプラッター映画の血飛沫のように空を舞い、無惨に引き裂かれて床へと散らばっていく。
「その通りよ! こんな低俗な妄想を垂れ流す深層心理なんて、相対性精神学への冒涜だわ!」
メリーの瞳からも、知性の光は完全に消え失せていた。
彼女は泥だらけの靴で、隣のデスクに鎮座していたタイプライターを容赦なく蹴り飛ばした。重厚な真鍮製の機械が宙を舞い、別の猿型ロボットの胴体に激突して見事なストライクを決める。
その衝撃で、再び大量の高価な紙の束が空中にブチ撒けられる。
「ほら、次! そっちの猿が今『二人の唇が重なり』って打ち込もうとしたわよ!」
「させないわよ! そのキーストローク、物理的にキャンセルしてあげる!!」
私は手元のキャスターをメイスのように振り回し、デスクからデスクへと飛び移りながら、猿型ロボットの群れに襲い掛かった。
ガシャァァン!メリメリッ!バキィィッ!
キーボードが砕け、歯車が飛び散る。私は次々とロボットの頭部を吹き飛ばし、メリーは重たいタイプライターを次々と床に叩き落としていく。
そのたびに、世界中の好事家たちが血眼になって探し求めるであろう貴重な紙媒体の束が、宙を舞っては私たちの泥に塗れた靴底で無惨に踏み躙られていく。だが、私たちの脳裏にはもったいないという感情など微塵も存在しなかった。あるのはただ、自分たちの解釈を守るためという極めて利己的なプライドだけだ。
知的な研究成果を生み出すはずだった第7展示室は、己のアイデンティティを汚された二人の女による、無慈悲な蹂躙の舞台へと変貌した。紙の束が吹雪のように舞い散る中、私たちは互いの背中を預け合い、無限の猿たちを徹底的に駆逐していった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
十数分後。
部屋を埋め尽くしていた打鍵音は完全に沈黙した。
床には無数の猿型ロボットの残骸と、ひしゃげたタイプライターの部品、そして私たちの怒りを買った不快な原稿用紙が、雪のように降り積もっていた。
「……ふん。ざっとこんなもんね」
私は肩で息をしながら、曲がってしまったキャスターの車輪を床に投げ捨て、手に残っていたあの忌まわしい解釈違いの原稿を四つ折りにし、コートのポケットにねじ込んだ。後で火を起こす必要が生じた際の着火剤として、せいぜい有効活用してやる。
「全く、とんだ時間の無駄だったわ。ケーキの予約枠、完全に絶望的じゃない」
メリーが乱れた金髪をかき上げながら、つま先で転がっていた猿の頭部を小突いた。
私たちは無言で顔を見合わせ、大きく息を吐き出した。
その時だった。
静まり返った部屋の最奥。破壊を免れていたただ一台のタイプライターが、突如として勝手に動き始めたのだ。
――ガチャン、ターン。
――カカカカカ、ターン。
誰もいないキーボードのキーが、見えない指に叩かれるように正確なストロークで沈み込んでいく。
私とメリーは顔を見合わせ、警戒しながらその最後の機械へと近づいた。
タイプライターのローラーに巻き込まれた一枚の真新しい紙に、インクのリボンが叩きつけられ、黒々とした文字が印字されていく。
私たちは、その短い一文を同時に黙読した。
『次回、二人は密室で息絶える』
カチッ、という金属音と共に、タイプライターは完全に機能を停止した。
背筋を冷たいものが撫で上げるような、不吉すぎる宣告。
しかし、私のこめかみに浮かんだ青筋は、恐怖よりも苛立ちによるものだった。
「……息絶える、ですって?」
私は鼻で笑い、印字された紙を乱暴に引き抜いた。
「私の計算によれば、こんな三流のホラー映画みたいな安い予言が的中する確率は、猿がハムレットを打ち出す確率よりも低次元だわ」
「そうね。だいたい、私たちを密室で殺そうだなんて、相対性精神学的に見て解釈が浅すぎるのよ。私たちはもっと、劇的で知的なピンチを求めてるんだから」
不吉な予言すらも自分たちへの解釈違いとして片付けた私たちは、次なる密室の扉を、苛立ち紛れに思い切り蹴り飛ばした。