秘封少女の多次元迷宮:四十二の不条理とホログラムの猫 作:ルルオメ
背後にそびえる分厚い金属製の扉を、苛立ちに任せて蹴り飛ばすように閉めた。
無限の猿たちが無意味にキーボードを叩き続ける狂気の工房――第7展示室に別れを告げた私は、泥と油で重たくなったコートの襟を正し、薄暗い通路を抜けて次の空間へと足を踏み入れた。
コートのポケットの中で、不快なインクの匂いを放つ解釈違いの原稿用紙がカサリと音を立てる。あの三流メロドラマの如き惨憺たるテキストを思い出すだけで、私の胃は鉛を飲み込んだように重たくなり、こめかみの奥で冷たい火花が弾ける。
隣を歩くメリーもまた、泥だらけになったワンピースの裾を引きずりながら、一切の口を利こうとしない。私たちは互いに、先ほどの部屋で受けたアイデンティティへの深刻なダメージを消化しきれずにいた。
しかし、迷宮は私たちの精神的インターバルなど考慮してはくれない。
第8展示室の扉をくぐり抜けた瞬間、私の視界は完全に裏切られた。
そこには、これまでのような古代遺跡の石壁も、ジャングルの湿気も、無機質なスチールデスクの山も存在しなかった。
一面が白く霞む、極めて抽象的な空間だった。
上下左右の境界が曖昧で、足元には白い霧のようなものがうっすらと滞留している。遠近感が狂い、まるで牛乳のプールの中に沈められたかのような錯覚に陥る。温度も、湿度も、音の反響すらも感じられない、徹底的に虚無的な部屋だった。
『やあやあ、解釈違いに踊らされた哀れな知性体たちよ。歓迎しよう』
白い霞の一部がノイズとともに明滅し、あの忌々しい三毛猫のホログラムが現れた。
プリニウスは、何もない空間をフワフワと泳ぐように近づいてくると、愛らしいヒゲをぴくぴくと揺らして私たちを見下ろした。
「今度は何よ。猿の次は、雲の上のピクニックとでも言うつもり?」
私が冷たい視線を射抜くと、プリニウスは短い前足を器用に交差させ、重厚なエコーのかかった老紳士の声で咳払いを一つした。
『当館の記録によれば、ここは主観的な「退屈さ」によって時間の流れが加速する、極めて特殊な精神的重力場である』
「……精神的、重力場?」
『左様。かのアインシュタインは言った。「熱いストーブの上に一分間手を当てていると、一時間のように感じられる。可愛い女の子と一緒に一時間座っていても、一分間のように感じられる」とな。この部屋は、その主観的な時間感覚の歪みを、物理的な時間軸そのものに直接フィードバックするよう設計されている』
プリニウスは空中でくるりと宙返りをした。
『つまり、君たちがこの空間で「退屈だ」「つまらない」と感じれば感じるほど、周囲の時間の流れは局所的に猛烈な勢いで加速していく。退屈を持て余せば、あっという間に数十年が経過し、君たちのその若く柔らかい肉体は干からびたミイラへと変貌するだろう。せいぜい、互いに極上のエンターテインメントを提供し合うことだな』
言い捨てるなり、ホログラムの猫は霧の奥深くへと姿を消した。
静まり返った白い空間。
私はゆっくりと息を吐き出し、コートのポケットに両手を突っ込んだ。
脳髄の奥で、理系学徒としての極めて冷静な演算回路がカチリと音を立てて起動する。
「……バカバカしい」
私の口から漏れたのは、乾いた嘲笑だった。
「主観的な退屈で時空が歪む? 冗談じゃないわ。一般相対性理論を完全に愚弄しているわね。時間の遅れ、すなわちウラシマ効果が生じる条件は、強大な重力場に囚われるか、光速に近い速度で移動するかの二択よ。人間の脳波や『退屈』という曖昧な心理状態が、アインシュタイン方程式におけるエネルギー・運動量テンソルに干渉して空間の曲率を歪めるなんて、物理法則の根底を覆すようなデタラメだわ」
私は虚空に向かって、論理の刃を容赦なく叩きつけた。
観測の限界に達し、大学の教授たちがもはや解釈と哲学という名の言葉遊びに逃げ込んでいるこの時代においてすら、こんな非科学的なオカルト現象は学会の笑い草にもならない。
「私の計算によれば、こんなものはただのプラシーボ効果を狙った心理的ブラフよ。私たちはただ、このまま歩いて出口を探せばいいだけのこと。何も恐れる必要は……」
「……つまり」
私の理路整然とした反論を遮るように、隣から間延びした声が響いた。
見れば、泥だらけのメリーが、口元に手を当ててニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべている。彼女の瞳には、先ほどの部屋での疲労など微塵も感じられない、極めてタチの悪い光が宿っていた。
「つまり、蓮子の話が長くてつまらないと、周りの時間だけ進んで、私があっという間に老け込んじゃうってことね」
――ピタッ。
私の肺への酸素供給が、物理的に停止した。
「……あなた、今、なんと言ったのかしら」
「だってそうじゃない。さっきからの蓮子の一般相対性理論だの、エネルギー運動量テンソルだのってウンチク、正直に言って京都の新茶道のお点前よりも退屈で眠気を誘うわ。もしこの部屋の法則が本物なら、蓮子が口を開くたびに私の寿命がゴリゴリ削られていくってことよ。ああ、恐ろしい。これぞまさに歩く時間兵器ね」
メリーは大げさに肩をすくめ、やれやれと首を振ってみせた。
無意識に握りしめた私の拳の中で、指の関節が白くきしむ。
「……私の、ひも理論の解説の、どこが退屈だというのよ」
奈落の底から響くような私の声に、メリーはさらに口角を釣り上げた。
「全部よ。数式には血が通ってないもの。相対性精神学のように、人間の深層心理に寄り添うロマンがないわ」
「言ったわね……。いいわ、そこまで言うなら証明してあげる。私の語る超統一物理学がいかにエキサイティングで、知的好奇心を極限まで刺激する至高のエンターテインメントであるかをね!!」
私は無言のままコートを脱ぎ捨て、部屋の隅、白い霧の中にうっすらと見えていた古いホワイトボードとマーカーのセットを力任せに引きずり出すと、メリーの目の前にバンッとセットした。
「今から三時間、ぶっ通しで特別講義を開講するわ! カラビ・ヤウ多様体の六次元構造から、Dブレーンの相転移に至るまで、数式の美しさであなたのそのオカルト脳を物理的に洗浄してあげる! もし私の講義が本当に退屈なら、言われた通り一瞬でミイラにでもなりなさい!」
「ええっ、ちょっと待って! 冗談よ、別に今から講義なんて聞きたく……」
「第一章! 『閉じたひもと開いたひもの境界条件について』!」
メリーの制止など完全に無視し、私はホワイトボードに猛烈な勢いで数式を書き殴り始めた。
キュッ、キュキュッというマーカーの甲高い摩擦音が、白い空間に響き渡る。私は背中越しにメリーの存在を感じながら、これまで大学の退屈な教授陣にすら披露したことのない、私の脳内にある最も美しく、最も洗練された物理学の真理を、一切の妥協なく言語化していった。
「いいこと? 十次元時空における超対称性の破れは、単なる数理的な欠陥ではなく、私たちが今観測しているこの四次元マクロ宇宙を形作るための必然的なプロセスなの。プランクスケールにおける量子の揺らぎが、いかにして重力を生み出すか。そのメカニズムを紐解く鍵は、まさにこのテンソル場の……」
私は喋り続けた。
ホワイトボードはあっという間に真っ黒な数式と幾何学的な図形で埋め尽くされ、私は袖でそれを乱暴に消しては、さらに複雑な方程式を上書きしていく。
知性の奔流。圧倒的な論理の美。これを聞いて退屈する人間など、この宇宙に存在するはずがない。私は自らの解説の完璧さに陶酔すら覚え始めていた。
しかし。
講義開始からおよそ三十分が経過した頃だろうか。
背後から、私が全く予期していなかった「音」が聞こえてきた。
「……ふぁぁぁあ……」
極めて無防備で、緊張感の欠片もない、巨大な欠伸の音だった。
私はマーカーを握る手をピタリと止め、ゆっくりと振り返った。
そこには、ホワイトボードの前の床にペタンと座り込み、膝を抱えながら、うつろな瞳で宙を見つめているメリーの姿があった。
彼女は私の視線に気づくと、もう一度大きく口を開けて欠伸をし、眠そうに目をこすった。
「……ねえ、蓮子。その『Dなんとか』ってやつ、あと何次元分続くの? 私、もう限界なんだけど。ケーキどころか、お布団に入ってぐっすり眠りたい気分だわ……」
「あ、あんたねぇ! 今まさに超弦理論における宇宙の終焉と創生のメカニズムを解き明かす最大のクライマックスだったのよ!? どこをどう聞けば眠くなるのよ!」
私が激昂してホワイトボードを叩いた、まさにその瞬間だった。
空間に立ち込めていた白い霧が、突如として猛烈な速度で渦を巻き始めた。
シューッという奇妙な風切り音が耳を打ち、足元を漂っていた霧の粒子が、まるで早送り再生の映像のように異常なスピードで乱舞し始める。
それだけではない。私がさっき投げ捨てたマーカーのキャップが、床に落ちる前に空中で数回、あり得ないほどの速度でバウンドを繰り返した。
「な、何これ……!?」
空間の物理法則が、明らかに狂い始めている。
私は目を凝らし、メリーの姿を見た。
そして、心臓が凍りつくような戦慄を覚えた。
「蓮子……? どうしたの、そんな怖い顔して。私の顔に、何か泥でもついてる?」
メリーは首を傾げた。
泥などというチャチなものではなかった。
彼女の艶やかな金髪のウェーブ。その生え際から毛先にかけて、ぽつり、ぽつりと、「真っ白な髪」が混じり始めていたのだ。
そればかりではない。彼女の透き通るような白い肌のツヤが目に見えて失われ、目尻にはほんのわずかな、しかし確かなシワが刻まれようとしていた。
「嘘……でしょ……」
私の手からマーカーが滑り落ち、カラカラと乾いた音を立てて転がった。
プリニウスの警告は、ブラフでもオカルトでもなかった。
この部屋は本当に、「退屈さ」をトリガーにして局所的な時間の流れを加速させている。そして今、私の三十分にも及ぶ超特濃の物理学講義が、メリーにとって致死量の退屈をもたらし、彼女の肉体時間を猛烈なスピードで前借りしているのだ。
「ちょっと、どうしたのよ蓮子。急に黙り込んじゃって」
メリーが立ち上がろうとする。しかし、その動作は普段の彼女よりも明らかに重く、わずかに膝が震えているように見えた。老化による筋力の低下が、すでに始まっている。
このまま私が講義を続ければ、あるいはこの退屈な時間を長引かせれば、彼女は本当に数十分後には白髪交じりの老婆となり、やがて干からびて死んでしまう。
「待って、動かないで!」
私は血の気が引くのを感じながら、メリーを制止した。
私のせいだ。私のつまらないプライドと、自己満足の講義のせいで、相棒の命が削られている。
どうすればいい?時間の加速を止めるには、あるいは巻き戻すには、極限まで楽しませるしかない。彼女の脳内にドーパミンを分泌させ、時間が経つのを忘れるほど面白いという主観的状態を作り出さなければならない。
物理学の講義はダメだ。相対性精神学の議論も、今の彼女には重すぎる。
必要なのは、もっとプリミティブで、爆発的で、理屈抜きの「笑い」だ。
「……やるしかない」
私は脱ぎ捨ててあったコートを再び羽織り、そのポケットから手帳の切れ端と短い鉛筆を取り出した。
極めて論理的かつ合理的な思考力。それを今、私は一発ギャグの構築という、私の人生において最も無価値で縁遠い作業にフル稼働させる。
笑いの構造とは何か。それは「緊張の緩和」であり、「予期せぬ裏切り」である。
フリとオチ。認知的不協和の意図的な発生。それを数理モデルに落とし込み、メリーの現在の心理状態における最大のストライクゾーンを逆算する。
「ええと……ここで視線の誘導を行って、物理的な質量ベクトルを反転させつつ、音声のピッチを急激に下げることでギャップを……」
私は手帳の切れ端に、数式ではなく、滑稽なポーズの棒人間と、恥ずかしくて死にたくなるようなセリフの羅列を書き殴っていった。
書いているそばから、顔から火が出るほどの羞恥心が全身を駆け巡る。しかし、目の前でメリーの金髪がまた一本、白く変色していくのを見て、私は全てのプライドを泥の中に投げ捨てる決意を固めた。
「メリー! よく見てなさい!」
私は手帳の切れ端を握りしめ、ホワイトボードの前に大きく足を開いて立った。
「な、何よ急に……」
いぶかしげに私を見るメリー。彼女の目尻のシワが、私の心臓を締め付ける。
私は大きく息を吸い込み、ヒクつく頬の筋肉を無理やり引き上げ、人生で一度も出したことのないような甲高く、そして狂ったようなテンションの声を張り上げた。
「いくわよぉぉぉっ!! 蓮子ちゃんの、超統一・物理学ギャグゥゥゥッ!!」
私は両腕を風車のようにぶんぶんと振り回し、泥だらけのコートの裾をバサバサと羽ばたかせた。
「ひも理論の『ひも』って、縛るためじゃなくてぇ〜!」
私はその場で勢いよくジャンプし、空中で体を捻りながら、極めて不自然で滑稽なポーズをキメた。
「私のスニーカーの靴紐だったのぉぉぉ!! 結び目が、カラビ・ヤウ多様体ぃぃぃ!! どっかーぁぁん!!」
……。
…………。
………………。
白い空間に、私の裏返った絶叫だけが虚しく響き渡り、そして消えた。
沈黙。
圧倒的な、そして絶対的な静寂。
私は空中で捻った変なポーズのまま着地し、片足を上げた状態で固まっていた。
目の前のメリーは、目を丸く見開いたまま、瞬き一つしていない。やがて彼女の唇が微かに引きつり、まるで道端で見知らぬ酔っ払いの奇行を目撃してしまったかのように、さっと静かに視線を逸らした。
「……えっと、蓮子。それ……面白いつもりなの?」
メリーの口から紡がれた、極めて冷静で、温度の一切ない一言。
私の顔面から、一気に血の気が引いていくのが分かった。
スベった。
恐ろしく、致命的に、宇宙開闢以来の最大級の規模で、スベったのだ。
「あ……いや、これはその、緊張と緩和のメカニズムを応用して……」
私が片足を下ろし、引きつった笑いを浮かべて言い訳をしようとした、その瞬間だった。
空間の異変は、時間の加速とは全く別の形で現れた。
ピキッ……。
足元の白い霧が、突如として細かい氷の結晶へと変わったのだ。
「え……?」
空気が、異常な速さで冷え込んでいく。
ただの気温低下ではない。私の全身の毛穴が収縮し、吐き出す息が真っ白な蒸気となって空中に凍りつく。
相対性理論をねじ曲げるほどの「退屈」のエネルギーが、私の極限までスベった一発ギャグによって絶対的な寒気へと物理的に変換されてしまったのだ。
「さ、寒っ……! な、何これ、急に部屋の温度が……っ!」
メリーが身震いし、泥だらけの腕をさすり始めた。彼女の髪の白髪化はストップしていたが、代わりにそのまつ毛に白い霜が降り始めている。
部屋全体の気温が、文字通り絶対零度近くに向かって急降下していく。
『ピピーッ! 警告、警告。局所的な熱力学異常を検知。空間内の分子の熱運動が停止限界へと低下中』
霧の奥から、プリニウスの慌てたような電子音声が響く。
「私の……ギャグが寒すぎて……物理法則が凍りついたっていうの……!?」
私はガタガタと震える顎を押さえながら、己のしでかした事態の深刻さと、それ以上に「一発ギャグで空間を凍らせた」という事実に対する激しい羞恥心に、その場でうずくまって叫び出したくなった。
「れ、蓮子……もういいから、早く次の部屋に行くわよ……! 凍え死んじゃう……っ!」
唇を紫色に染めたメリーが、私の腕を引っ張る。
私は手帳の切れ端――私の羞恥の結晶である『一発ギャグのメモ』をポケットにねじ込むと、凍りつき始めた床を滑るようにして駆け出した。
背後で、ホワイトボードごと白い空間全体がパキパキと音を立てて凍結していく。
私たちは互いの体温を頼りに身を寄せ合い、極寒の猛吹雪と化した第8展示室の出口へ向かって、転がるようにして逃げ込むのだった。