秘封少女の多次元迷宮:四十二の不条理とホログラムの猫 作:ルルオメ
身を寄せ合い、極寒の猛吹雪と化した第8展示室の出口へ転がり込んだ私たちは、背後の分厚い防寒扉が重々しい音を立てて閉ざされるのと同時に、へなへなとその場に崩れ落ちた。
扉の向こう側から聞こえていた吹雪の音は完全に遮断され、私たちの荒い呼吸音だけが新しい空間に響き渡る。
私はガタガタと震える顎を押さえながら、凍りついたケープを払い、泥と霜でぐちゃぐちゃになった前髪をかき上げた。隣ではメリーが、真っ赤になった両手で自分の二の腕を必死にさすりながら、うつろな目で宙を見つめている。
「……死ぬかと思ったわ」
かすれた声で呟くメリー。どんな絶望的な迷宮を歩かされてもケーキを食べる欲求だけは決してブレなかったはずの彼女が、私の『超統一・物理学ギャグ』が引き起こした絶対的な寒気(と共感性羞恥)によって、完全に凍結させられていた。
「……ごめんなさい。私の計算ミスよ。まさか、お笑いにおける『スベる』という現象が、熱エントロピーの低下という物理的な冷却効果に直結するなんて、ひも理論のどの文献にも記述されていなかったわ」
私は深くため息をつき、ポケットの中で丸まっていた一発ギャグのメモをさらに奥へと押し込んだ。この忌まわしい紙切れは、二度とこの世の光を浴びせてはならない。
ようやく呼吸が整ってきたところで、私はゆっくりと立ち上がり、私たちが放り出された第9展示室の全貌を見渡した。
そこは、まるで巨大な体育館のような、天井が高く広大な空間だった。
しかし、その広大さを完全にスポイルするように、部屋の中央には一つの巨大な「山」がそびえ立っていた。
「……何よ、あれ」
メリーが顔をしかめながら立ち上がる。
部屋の中央にうず高く積み上げられていたのは、色も、柄も、素材もバラバラな、無数の「布切れ」の集合体だった。
アーガイルチェック、水玉模様、無地の黒、穴の開いたグレー、キャラクターがプリントされた原色。それら全てが、ただひたすらに、無秩序に積み上げられ、見上げるほどの標高を形成している。
『やあやあ、凍える知性体たちよ。歓迎しよう』
布の山の頂上付近で、青白いノイズが瞬いた。プリニウスが短い前足でその巨大な山を誇らしげに指し示した。
『この壮絶な光景に息を呑んだかな? 当館の記録によれば、これらは宇宙の
「量子もつれ……の残骸?」
私は目を凝らし、その山を構成している無数の布切れの正体を確認した。
深い溜息が肺の底から漏れ出し、私は泥で汚れた指先で眉間を強く揉みほぐした。
「……プリニウス。あんた、いい加減にしなさいよ」
私はコートのポケットに両手を突っ込み、半眼でホログラムの猫を睨みつけた。
「私の計算によれば、それはどう見てもただの『片方だけの靴下』の山よ。しかも、なぜか全てが微妙にヨレていて、生活感が滲み出ているわ」
『ほう、鋭いな。しかし、それは三次元の表面的な知覚に過ぎない』
プリニウスは空中でくるりと宙返りをして見せた。
『二つの量子が、どれほど空間的に離れていても瞬時に情報を伝達し合う量子もつれ。これらの靴下は、かつて対となる相方と完璧な量子状態を共有していた。しかし、宇宙の膨張とともにそのもつれが引き裂かれ、対を失った片割れだけが、この次元の特異点に吸い寄せられて吹き溜まっているのだ。これぞ、宇宙規模の孤独の具現化である』
プリニウスの大真面目な解説を聞き流し、私は靴下の山へと歩み寄った。
靴下?量子もつれ?冗談ではない。だが、これほど大量の物質が、しかも「片方だけの靴下」という極めて限定的な条件を満たした状態で同一空間に偏在している事実の裏には、何らかの法則性が隠されているはずだ。私の脳内の演算回路が、勝手に熱を帯び始める。
「……面白いわね。もしこれらが本当に量子もつれの残骸だとするなら、パウリの排他原理はどう適用されているのかしら」
私は知的好奇心を刺激され、足元に落ちていた無地の黒い左靴下を拾い上げた。
「フェルミ粒子である電子が同一の量子状態をとれないように、これらの靴下も完全に同一の柄、素材、使用感を持つものは、この山の中で決して重なり合わないはずよ。つまり、この山の構造をトポロジーの観点から分類し、さらにテンソル解析を用いて次元の歪みのベクトルを逆算すれば……!」
私は靴下の繊維の編み込みを凝視しながら、ブツブツと複雑なテンソル方程式の構築を口走り始めた。この計算さえ完成すれば、あの小賢しいホログラム猫のドヤ顔を、完璧な数式でへし折ることができる。
「蓮子って、本当にそういう面倒くさい理屈が好きよね」
私が脳内計算に没頭していると、背後からメリーの呆れたような声が聞こえた。
「パウリの排他原理だかなんだか知らないけど、そんな遠回りしなくても、直接見てみればいいじゃない」
メリーは目を閉じ、ふわりと両手を広げた。彼女の紫色の瞳が、空間の境界線を捉えるべく、薄く見開かれる。
「私の目には、ちゃんと結界の境目が見えているわ。この靴下たちがどこから来たのか、そしてもう片方がどこにあるのか……相対性精神学の観点から、この空間の思念の残滓を読み取ってみせるわ」
メリーは靴下の山の表面をそっとなでるように手を這わせ、ブツブツと何事かを呟き始めた。
私は計算の邪魔にならないよう彼女を無視し、靴下の山の地層(アーガイルチェックの層の上に、水玉模様の層が重なっている)の年代測定的な分析を進めた。
数分後。
メリーがふうっと息を吐き出し、目を開けた。
「……分かったわ、蓮子」
「そう。私の計算も、あと少しで特異点の座標を割り出せるところよ。それで、あんたのオカルト学問は何を導き出したの?」
私が振り向くと、メリーはどこか疲れたような、そして非常に呆れたような顔で私を見ていた。
「宇宙の神秘でもなんでもないわ。これ、ただの『洗濯機あるある』よ」
「……は?」
「だからね、全人類が家庭の洗濯機で靴下を洗った時に、なぜか片方だけが忽然と消えてしまう現象あるでしょ? その消えた片方だけが、次元の歪みに吸い込まれて、ここに吹き溜まってるだけなのよ」
メリーは手近にあったボーダー柄の靴下をつまみ上げ、ヒラヒラと揺らして見せた。
「結界の向こう側に見えたのは、暗黒物質でも多次元宇宙でもないわ。合成洗剤の泡と、ぐるぐると回るドラム式洗濯機の内部、それに『あれ? もう片方どこ行ったのよ』ってイライラしながら洗濯カゴをひっくり返してる、名も知らぬお母さんたちの情けない思念の数々よ」
沈黙。
私の脳内で高速回転していた、パウリの排他原理とトポロジーの方程式が、合成洗剤の泡とともに音を立てて弾け飛んだ。
「……洗濯機の、裏側?」
「そうよ。量子もつれでもなんでもない。ただの、だらしない日常の不条理の終着点よ」
私は手に持っていた黒い靴下を、力なく山へとポイと放り投げた。
観測の限界に達した現代物理学の粋を集めて私が解き明かそうとしていたのは、全人類の洗濯機周りにおける、片方だけの靴下紛失現象のゴミ捨て場だったのだ。
『……ふっ。三次元の矮小な日常に落とし込んで理解したつもりになっているようだが、それもまた真理の一側面に過ぎない。事象の解釈は観測者に委ねられているのだよ』
プリニウスが空中からいけしゃあしゃあと負け惜しみのようなことを言っているが、もはや私の耳には入らなかった。
どっと押し寄せた疲労感に耐えかね、私はそのまま靴下の山の麓にドサリと座り込んだ。
「やってらんないわ。私の計算能力を、こんな所帯染みた現象の分析に浪費させられるなんて。さっさと次の部屋への扉を探して……」
私が立ち上がろうと手をついた、その時だった。
山の斜面から崩れ落ちてきた靴下の雪崩の中に、見覚えのある極彩色がチラリと見えた。
私は動きを止め、その布切れを引っ張り出した。
それは、蛍光ピンクのベース生地に、毒々しい緑色でウーパールーパーのイラストがデカデカとプリントされた、およそ正気の沙汰とは思えないデザインの左靴下だった。
「……あれ?」
「どうしたの、蓮子。……うわっ、何その信じられないくらいダサい靴下。視覚の暴力ね」
メリーが顔をしかめて一歩後ずさる。
しかし、私はその靴下を両手で丁寧に広げ、震える声で呟いた。
「これ……私のよ」
「……は?」
「私が大学の入学試験の時に履いていきたかった、お気に入りの勝負靴下よ! ずっと探してたの! なんでこんなところにあるのよ!」
私は歓喜の声を上げ、その毒々しいウーパールーパーの靴下を頬にすり寄せた。
そうだ。あの日の朝、どうしても見つからなくて、泣く泣く無地の黒い靴下で試験に臨んだのだ。私の物理学の歴史の始まりを彩るはずだった重要なピースが、こんな次元のゴミ捨て場で発見されるなんて。
「ちょっと蓮子、正気!? そんなダサい靴下、勝負どころか不戦敗レベルよ! だいたい、なんであんたの私物がこんな次元の吹き溜まりに混ざってるのよ!」
「うるさいわね! 洗濯機の中で消えたんだから、ここにあるのは当然の帰結でしょ! ああ、愛しのウーパールーパーちゃん……」
私は靴下を胸に抱きしめ、完全に物理学徒としての威厳を投げ捨てていた。
すると、隣でドン引きしていたメリーが、ふと何かに気づいたように靴下の山を漁り始めた。
「待って。蓮子の私物があるってことは……もしかして、私のあれも……」
メリーは山をかき分け、数分後に「あったわ!」と歓喜の声を上げた。
彼女が引っ張り出してきたのは、紫色のレースがふんだんにあしらわれた、極めてロリータ趣味全開のフリフリの靴下だった。
「これ、私が中学生の時に愛用してた、幻の限定モデルの左足よ! もう一生見つからないと思ってたのに!」
メリーもまた、瞳をキラキラと輝かせながらそのフリフリの靴下を顔に押し当てている。
「……ちょっと、メリー。あんた、そんな悪趣味なフリフリの靴下履いてたの?」
私はウーパールーパーの靴下からすっと顔を上げ、半眼で彼女の足元を見つめた。
「悪趣味とは何よ! 蓮子のその発狂した両生類みたいな柄に比べたら、一億倍マシでしょ!」
「なんだと! ウーパールーパーの滑らかなフォルムは、流体力学的に極めて美しい造形なのよ! あんたのその無駄なフリルこそ、空気抵抗の塊で非合理の極みじゃない!」
「かわいさに合理性なんて必要ないわよ! だいたい、そんなダサい靴下を勝負靴下にしてるから、蓮子はいつまで経っても教授に評価されないのよ!」
「靴下の柄とひも理論の評価は関係ないでしょ! このバカメリー!」
宇宙の神秘も、パウリの排他原理も、完全にどこかへ吹き飛んでいた。
私たちは、全人類の靴下の吹き溜まりである次元のゴミ捨て場のど真ん中で、「どちらの靴下の柄がよりダサいか」という、この世で最も不毛でレベルの低い泥仕合を始めたのだ。
「その狂ったピンク色、今すぐ私の視界から消しなさいよ!」
「そっちこそ、そのカビの生えたようなフリルをしまいなさい!」
私はウーパールーパーの靴下を握りしめたまま、メリーのフリフリ靴下を奪い取ろうと掴みかかった。メリーも負けじと私の腕を払い、取っ組み合いの喧嘩に発展する。
「痛い! 髪引っ張るな!」
「そっちこそ靴下から手ぇ離しなさいよ!」
私たちは互いの靴下を引っ張り合いながら、巨大な靴下の山を激しく転げ回った。アーガイルも水玉模様も無地の黒も、私たちの見苦しい争いの巻き添えになって宙を舞い、山の斜面が大きく崩れ去っていく。
『やれやれ……。高次元の観測者が不在となれば、知性体などというものはかくも容易く低俗な争いに堕ちるものか』
プリニウスが呆れたような声で呟くが、私たちの耳には届かない。
靴下の山を激しく引っ掻き回し、泥だらけになって揉み合っていた、その時だった。
「あっ……!」
私の手が、布の感触とは違う、何か硬くてツルツルしたものを掴んだ。
揉み合いを一時停止し、私はそれを山の中から引きずり出した。
それは、透明なプラスチックのケースに入った、一枚の薄汚れた「メモ用紙」だった。
表面には、プリニウスのあの愛らしい三毛猫のアイコンがプリントされており、その下には、何やら複雑な英数字の羅列がびっしりと書き込まれている。
「……何よこれ。靴下じゃないわね」
メリーも取っ組み合いをやめ、息を切らしながら私の手元を覗き込んだ。
「『管理者権限・オーバーライド・パスワード』……?」
私はメモの最上部に書かれたタイトルを読み上げた。
『――なっ!?』
その瞬間、空中を浮遊していたプリニウスのホログラムが激しくノイズを走らせ、音声のピッチを不自然に跳ね上げた。
『ち、違う! それは私が、靴下の片方を失くした腹いせにこの部屋に不法投棄した、ただのゴミのメモだ! 決して、この迷宮のシステムに強制介入するためのマスターパスワードなどではない!』
「……あんた、息を吐くように嘘をつくくせに、焦ると途端に説明過多になるのね」
私はニヤリと口角を吊り上げ、そのメモをコートの内ポケットに大切にしまった。ウーパールーパーの靴下は、もうどうでもいい。このふざけたデタラメAIの泣き所を、ついに手に入れたのだ。
「メリー、行くわよ。このパスワードが本物なら、後半戦は少しばかり面白くなりそうよ」
「ええ、そうね。早くこのパスワードを使って、ケーキ屋へのショートカットを開拓しましょ」
私たちは泥だらけの服を払い、互いのダサい靴下を山の麓に放り捨てると、意気揚々と第9展示室の奥の扉へと向かった。
背後で、『ああっ、私のパスワードが! 待って、せめて見なかったことに……!』というプリニウスの情けない叫び声が響いていたが、私たちはそれを心地よいBGMとして聞き流し、重厚な扉を蹴り開けた。