スプリンターズお姉さんに任せなさい 作:Lagavulin
目が覚めると、床がずいぶん遠かった。
「起きました」
「見れば分かります。降ろして差し上げてください」
「あと3歩です」
朝倉律は、自分の膝と、膝の下を通っている腕を見た。それから、すぐそばにあるカルストンライトオの顔を見た。
抱き上げられていた。
「……何かあった?」
「椅子でお眠りでしたので、寝心地を改善しています」
「どうぞ、そのまま。もう着きますから」
背後からデュランダルの声がした。視界の端で、ビリーヴがソファの上のクッションを動かしている。
律は中央トレセン学園のトレーナーで、26歳の成人男性である。身長は153センチ。つい先日も、職員用の食券を持っている理由を食堂の新人に尋ねられた。今、律を囲んでいる3人は、独立して初めて受け持った担当ウマ娘だ。
だからといって、眠っている間に運ばれることまで承知した覚えはなかった。
「起こしてくれたら、歩いたよ」
「起こす、説明する、立っていただく。工程が3つ増えます」
「説明は今してるね」
「運びながら済みました」
ソファへ下ろされた。
背中にクッションが当たり、デュランダルが膝へ薄い毛布を掛けてくれた。彼女がカーテンを半分閉め、ビリーヴが冷房の風向きを変える。3人とも手際がよく、律が毛布を持ち上げている間に、昼寝の場所が出来上がっていた。
「ありがとう。ごめんね、重かったでしょう」
「軽量です」
「荷物みたいに言わないで」
律は笑い、まだ自分の腕を見ているライトオへ顔を上げた。
「でも、全然揺れなかった。運ばれたのに気づかなかったくらい」
「はい」
ライトオの耳が、すっと立った。
「次は、どちらへお運びしますか」
「着いたばかりだよ」
彼女は部屋を見渡した。運ぶ先がないか探しているようだったので、律は毛布を腰まで引き上げた。
「今日はここが終点です」
「承知しました」
ライトオが引き下がると、デュランダルが入れ替わりに進み出た。ソファの脇へ立ち、片手を胸に添える。
「ご安心ください、我が君。お休みの間は、私がこちらを守ります」
「ありがとう。誰か来る予定、あったっけ」
「予定のない来訪者からも、お守りします」
ビリーヴは小さく息をつき、律の机へ行った。伏せてあった予定表を確かめてから、壁の時計を見る。
「次の打ち合わせまで、まだ40分あります。もう少し眠られても大丈夫ですよ」
午後の合同練習を終え、3人が着替えてくるまでの間に、少し目を閉じた。それが思ったより長くなったらしい。
机には、今日の走りを記録したノートが開いたままだった。
「そのノート、取ってもらえる?」
律が頼むと、3人が一斉にそちらを見た。いちばん近いビリーヴが取ったのに、ライトオも机へ到着していた。
「受け渡しを短縮します」
「僕が持っていった方が早いです」
ノートはビリーヴの手で届いた。ライトオは空振りした手を引っ込めず、そのまま律の脇のクッションを直した。
デュランダルが身を屈める。
「我が君。お休みになるのでは?」
「うん。その前に、今日のことを少しだけ。3人が戻ったら話そうと思ってたんだ」
ノートを開くと、ソファの周りが静かになった。
律は最初にデュランダルを見た。
「最後の併走、よく外へ切り替えたね」
彼女の目が、ノートから律へ移った。
「内側が開くのを待つより、あちらへ出た方がよいと判断しました」
「うん。出るまでは少し遠回りになる。でも、その先で自分の脚を使える。あれを走りながら選べたのがよかった」
「はい」
「抜けてからは、見惚れたよ。あの伸びはデュランダルの強さだね」
デュランダルは胸に当てていた手を下ろし、また胸へ戻した。
「き、騎士として、当然の務めを果たしたまでです」
「当然にできたら、すごいことだよ」
「……はい」
返事がずいぶん小さくなった。
律が次のページを開く間に、彼女は一度窓の方を向いた。ガラスに映る自分の顔を見たのか、両手で頬を挟んでから戻ってきた。
「我が君。外へ出る、その前の判断についても、何か」
「デュランダルさん」
ビリーヴが呼んだ。
「お休みを守るのではなかったんですか」
「大切な振り返りですので」
その声はもう、いつもの澄ました声だった。律は笑いながら、ノートの端へ印を付けた。
「じゃあ、詳しくは明日。一緒に映像を見よう」
「ぜひ」
今度の返事は早かった。
ライトオが半歩前へ出た。何も言わないが、ノートの次のページが自分の記録であることは知っている。
「ライトオも、出だしがよかった。2歩目から、ぐっと前へ出たでしょう」
「はい」
「ただ、そのあと肩に力が入った。最初に作った速さを、最後まで持っていく練習をしよう」
「今からできます」
「今日は終わり」
「短く1本だけでも」
律は顔を上げた。
「今日は終わり。最後の走りで、脚の運びが小さくなってた。そこから本数を増やすより、休んで、次にいい動きで走ろう」
ライトオは律を見て、それから自分の脚を見た。
「……分かりました。次の練習で」
「うん。あの加速は、もっと伸ばしたい。僕も次が楽しみなんだ」
彼女は頷いた。今度は何も持ち上げず、ソファの肘掛けのところへ腰を屈めた。
「では、よくお休みください。次の練習には、万全で来ていただきます」
「それはお互いにね」
ノートを閉じようとすると、ビリーヴが先に手を差し出した。
「僕の分は、明日で構いません。今日はもう休んでください」
「でも、言っておきたいことが」
「明日、伺います」
ノートは机へ戻された。
ビリーヴは毛布の端を整え、律の足まで覆った。顔を覗き込んで、これでよし、と小さく頷く。
「お茶を淹れますね。起きたばかりですし、少し飲んでから休まれては」
「ありがとう。お願いしようかな」
給湯スペースへ向かった彼女を見送り、律はソファへ深く座り直した。正面にライトオ、右側にデュランダル。2人ともこちらを見ていた。
「……眠っているところ、そんなに見たい?」
「警護中です」
「何か必要になったら、すぐに対応できます」
律は毛布を鼻の下まで引き上げた。
朝は、この2人が競り合って走るところを間近で見ていた。自分が同じ速さで走れば、数歩で置いていかれる。そんな2人に、風邪を引かないよう気を配られている。
デュランダルが屈み、彼の額に掛かった髪を脇へ払った。
「我が君、遠慮なさらず。お休みの間くらい、私たちにお任せください」
律は少し考え、毛布から顔を出した。
「じゃあ、カーテン、もう少し閉めてもらっていい?」
「お任せを」
デュランダルが立つのと、ライトオが立つのが同時だった。
ライトオの方が窓に近かった。ためらわずカーテンを引き、振り向く。
「閉めました」
デュランダルは、窓とライトオを見比べた。
「今のは、私が承りました」
「完了までが早い方にしました」
「早ければよいというものではありません」
「眩しくなくなったよ。ありがとう、ライトオ」
「はい」
ライトオはそのまま部屋を出て、廊下のカーテンに手を掛けた。律はソファから声を掛けた。
「廊下まで閉めなくて大丈夫!」
「では、室内に戻ります」
戻ってきたライトオへ、給湯スペースのビリーヴがトレーを差し出した。
「こちらを運んでいただけますか。ゆっくりお願いします」
*
運ばれてきた紅茶は、すぐに飲める温度だった。
律は毛布から両手を出し、カップを受け取った。湯気に顔を寄せ、ひと口飲む。
「おいしい」
「よかったです。お砂糖は、前と同じくらいで」
「うん。覚えててくれたんだ」
ビリーヴは頷き、砂糖の入れ物を戻した。デュランダルが空いたトレーを引き受けると、ライトオは次に運ぶ物がないかと棚を見た。
「ビリーヴって、教えるのも上手だよね」
律が言うと、ビリーヴは首を傾げた。
「お茶の淹れ方ですか?」
「それもだけど。今日、初めて合同練習に来た子に、アップのやり方を教えてたでしょう」
「ああ。流れが分からなかったようなので」
「あの子が真似できるところまで、隣でやってくれてた。途中からすっかり馴染んでたから、助かったよ」
ビリーヴは、カップを持つ律の手から顔へと目を上げた。
「ご覧になっていたんですね」
「うん。自分の準備もあるのに、丁寧だった。それを先に言いたかったんだ。ありがとう」
彼女は口を開いたが、すぐには声が出なかった。
律が紅茶をもうひと口飲むと、ようやく返事が返ってきた。
「……いえ。そのくらいでしたら、いつでも」
ソファの前へ、ビリーヴがしゃがんだ。さっきより顔が近かった。
「熱くありませんか」
「ちょうどいい」
「何か召し上がりますか。お茶だけよりも、少しお腹に入れておいた方が」
「夕食が入らなくなるから、今はいいかな」
「小さな物なら。ああ、明日は昼食を持ってきましょうか。練習のあと、そのまま召し上がれますし」
デュランダルが咳払いをした。
ビリーヴは振り返る。
「何ですか」
「お休みを守るのでは?」
ライトオも頷く。
「そのまま来週の献立まで進むに違いありません」
ビリーヴは律を見た。律はカップを口元から離して、笑っていた。
「明日のお昼、一緒に食べられたら嬉しいな」
「はい。では」
答えてから、ビリーヴは2人を見た。
「……お2人の分も、用意します」
「私は、我が君の分の飲み物を」
「私は、どなたより早く席を確保します」
昼食の予定が、その場で整っていった。デュランダルは明日の天気まで確かめ始め、ビリーヴは好き嫌いをもう一度聞くと言い、ライトオは日陰にあるベンチを提案した。
律は紅茶を飲み終えて、空のカップを差し出した。
3人の動く気配がした。
「割れるから、1人で」
手が3本とも止まった。
律はいちばん近いビリーヴへカップを渡し、デュランダルには毛布を借りた礼を言い、ライトオには起こさず運ぼうとしてくれたことを改めて礼を言った。
3人の顔を見ていると、眠るのが少し惜しくなった。
「みんな、僕の世話をするの、好きだね」
返事がなかった。
ライトオがビリーヴを見た。ビリーヴはカップを見た。デュランダルは胸を張ったが、律と目が合うと、わずかに顎を引いた。
「……頼っていただくのは、好ましいことです」
「そっか」
律は毛布を掛け直し、背もたれへ頭を預けた。
「じゃあ、あと15分だけ。起きたら、3人の話をもう少し聞かせて」
「はい」
返事は綺麗に揃った。
照明が落とされる。ビリーヴが食器を下げ、デュランダルが入り口の椅子へ座った。ライトオは律の隣の空いている場所を見てから、そこへ腰を下ろした。
「こちらで、お時間を測ります」
律は頷いた。目を閉じる前に、彼女の袖を軽く引く。
「起きるときは、声を掛けてね。もう運ばなくていいから」
「はい。起きていただいてから、お運びします」
「歩けるよ」
ライトオは少し考えた。
「では、必要になったら」
律は笑って、目を閉じた。
すぐそばで衣擦れの音がする。もう1人、ソファへ座ったらしかった。入り口の椅子が動き、声が近づく。
「ライトオさんだけ近過ぎませんか」
「空いていましたので」
「2人とも、お静かに」
「ビリーヴさんも座っているではありませんか」
律は目を閉じたまま、3人の声を聞いていた。
「……明日のお弁当、楽しみにしてるね」