スプリンターズお姉さんに任せなさい 作:Lagavulin
「トレーナーさんを速くします」
ライトオは、そう宣言した。
律は運動靴の紐を結びながら、彼女を見上げた。
「ほどほどにね」
「最速がよいのでは?」
「明日も普通に歩けるくらいで」
来週、学園の職員が参加する小さな親睦会がある。律は借り物競走へ出ることになっていた。短い距離を走るだけだが、しばらく全力で走っていないので、少し体を慣らしておきたかった。
それを聞いたライトオが、指導を買って出たのだ。
休養日の午後、2人は学園のグラウンドに来ていた。ライトオは律のジャージ姿を上から下まで眺め、満足そうに頷いた。
「走れそうです」
「服はね」
「中身も走れるようにします」
準備運動の段階で、ライトオを選んだのは軽率だったかもしれないと思った。
お手本が速い。
ライトオは準備運動と称して目の前で1m近く跳び、足を入れ替え、もう1度1m跳んだ。軽く、と言われても、律からするとかなり跳んでいる。
「もう少し小さくやってみてもらえる?」
「はい」
跳ぶ高さは下がった。代わりに回数が増えた。
「速さも落としてほしいな」
ライトオは足元を見た。それから、律の足元を見た。
「人間用にします」
「最初から、それでお願いします」
律が1回動くと、ライトオも1回動いた。2人で同じように肩を回し、脚をほぐす。そのうち彼女の顔つきが真剣になってきた。
「トレーナーさん、右と左で少し違います」
「あ、本当だ」
「ここの動きを意識してください」
律は彼女の示した部位を意識して、もう一度動いた。ライトオがしゃがみ、靴の向きを見ている。
普段とは、すっかり立場が逆だった。
少し走って体を温めてから、短い距離でスタートを試した。ライトオが横に立ち、合図をする。
「では、行きます」
「うん」
「はい」
律は走り出した。数歩で速度を上げ、30メートルほど進んでから緩める。
振り向くと、ライトオが隣にいた。
「いつ来たの?」
「並んでいました」
「そうだった?」
「はい。だいたい、横から拝見しました」
息を整える律の前で、彼女は自分の腕を振ってみせた。
「手を後ろへ引くとき、こちらだけ外へ逃げています」
「こう?」
「そのくらいです。次は、そこを」
2本目を走ると、最初より体が前へ出る気がした。律は戻ってくる途中で、それをライトオへ伝えた。
彼女はすぐに頷いた。
「変わりました。こちらから見ても」
「教えるの上手だね。1つだけ言ってくれるから、試しやすい」
ライトオは腕を組んだ。
「次にお伝えできる点が、7つあります」
「1つずつ教えてほしいな」
彼女は少し考え、7つを1つに絞った。その間に律は水を飲めた。
3本目では、ライトオが斜め前を走った。追いかけてくる律を振り返り、もう少しで届きそうなところを保っている。
手を伸ばせば、ジャージの袖に触れそうだった。
律は少しだけ脚を速めた。ライトオも同じだけ速くなった。
「……待って」
終わりの目印を越えてから、律は息を吐いた。
「今、近づいたよね?」
「はい」
「同じだけ逃げたよね?」
「追いかけていただく練習です」
「1回くらい、追いつきたかったかも」
ライトオは律を見た。
そして、まっすぐ隣まで戻ってきた。
「今なら追いつけます」
「そういうことじゃなくて」
律が笑うと、彼女も少し微笑んだ。
休憩のベンチで、ライトオは律に飲み物を渡した。彼が受け取って礼を言うと、タオルも差し出す。
「ここまでです」
「もう?」
「今の走りで、最後に足元が乱れました。続けるより休みましょう」
律はタオルを首へ掛け、彼女の顔を見た。
「いつも僕が言ってることだ」
「はい。実施しました」
「……ちゃんと聞いてくれてるんだね」
ライトオは隣へ座らず、少し離れたところに立っていた。律の呼吸を確かめているらしい。
「座っていいよ。もう苦しくないから」
呼ぶと、ようやく隣へ来た。
2人でグラウンドを見た。向こうでは、別のチームが練習している。ウマ娘たちが直線を駆け抜けるたび、足音が重なって届いた。
「ああいう速さには、ならないね」
律が言うと、ライトオは向こうを見た。
「そうですね」
「正直だなあ」
「ですが、先ほどより速くなりました」
彼女は自分の指で、短い距離を示した。
「最初に前へ出るところが、特によくなりました。こちらが速度を上げたのも、そのためです」
「本当に?」
「はい。少しだけ急ぎました」
律は足元を見てから、もう一度グラウンドを見た。数本走っただけなのに、また試したくなる。
「あと1本だけ、走りたいな」
「今日は終わりです」
律はライトオを見て、笑った。
「なるほど。僕が言うときも、こういう気持ちになるのか」
「明日も普通に歩ける範囲です」
「はい。先生」
ライトオは満足そうに頷いた。律のタオルが肩から落ちかけると、拾う前に彼女が押さえた。そのまま首の後ろへ回し、左右の長さを揃える。
「走り終わった人は、よく休まなければいけません」
「うん。今日は任せるよ」
ライトオは立ち上がった。
「お帰りの際は、私が」
「歩くところまで、練習に含めたいな」
猫を持ち上げるかのように伸びてきた両腕が、律の脇で行き場を失った。
ライトオは腕を下ろし、代わりに鞄を持った。
「こちらだけ、お運びします」
「ありがとう。今日、すごく楽しかった」
律が立つと、彼女は顔を上げた。
「もっと走りたいですか」
「うん。また教えてほしい。僕の走り、よく見てくれてたし」
「もちろんです」
声が少し大きかった。
ライトオは鞄を抱え直し、校舎の方へ歩き出す。律はその隣についていった。数歩先へ出ては振り返っていた彼女が、途中から自然に同じ歩調になった。
「借り物競走では、何を借りるのですか」
「走っていって、紙を引くまで分からないんだ」
「不確定です」
「そこが面白いところらしいよ」
「では、私は現地で待機します」
律は彼女を見た。
「応援してくれるの?」
「はい。何か足りなければ、すぐにお届けできます」
「助かる。でも、借りた物を運ぶところまで僕がやるんだよ」
「承知しました。では、必要な物の場所を、いち早くお知らせします」
校舎へ着くと、ライトオは律に鞄を返した。
「次の練習で、もう1つ教えてもらっていい?」
「もちろんです。あと6つあります」
「1つずつね」
ライトオは頷いたが、律が扉を開けるまでに、次に直す腕の動きをもう始めていた。