スプリンターズお姉さんに任せなさい 作:Lagavulin
「律の姉です」
トレーナー室の入口で、女性はそう名乗った。
デュランダルは手に持っていた来客用のカップを見た。ビリーヴは律の机を見た。ライトオは女性を見たまま尋ねた。
「本物ですか」
「ライトオさん」
デュランダルの声に、女性は吹き出した。
「ええ、本物よ。偽物もいるの?」
誰も答えなかった。
律は別棟へ書類を届けに行っていた。姉が近くまで来るので少し寄る、とは聞いていたが、3人へ伝える前に出てしまったらしい。
女性は朝倉紗耶と名乗った。律より4歳上で、背も彼より高い。顔立ちはよく似ていたが、弟よりも目元が穏やかだ。
「お待ちしていてもいいかしら。帰る前に、顔だけ見ようと思って」
「もちろんです。どうぞ、こちらへ」
デュランダルが席を勧めた。
ビリーヴはお茶を用意し、ライトオは廊下へ顔を出した。
「呼んできます」
「急がせなくていいのよ」
「私だけ急ぎます」
返事を残し、ライトオは行ってしまった。
紗耶はその後ろ姿を見送ってから、机の上に置かれた練習表や、壁に貼られた予定を見た。
「本当に、3人で見ていてくれるのね」
ビリーヴがお茶を置いた。
「普段は、僕たちが見ていただいています」
「そう? 電話だと、いつも何かしてもらった話が出てくるの。お弁当を作ってもらったとか、服を選んでもらったとか」
デュランダルの椅子が、わずかに前へ動いた。
「服のお話を?」
「ええ。ジャケットを買ったでしょう。次に実家へ帰るとき、見せるって」
デュランダルはカップの持ち手へ指を掛けた。持ち上げずに、もう一度座り直す。
「……お似合いでしたので」
「あなたが選んでくれたのね。ありがとう。あの子、自分の服は後回しだから」
ビリーヴが隣で頷いた。
「よい物を選べたと、トレーナーさんも喜んでいました」
「ええ。たいへん、お似合いでした」
デュランダルは同じことを2度言った。
そこへ、ライトオが戻ってきた。律も一緒だった。歩いていたが、少し息が速い。
「姉さん。もう着いてたんだ」
「ちょっと早く来られたから。邪魔をしてるわよ」
「ごめんね。みんなにも言っておけばよかった」
紗耶が隣の席を空けた。律が座ると、持ってきた紙袋をその膝へ載せる。
「これ、お母さんから」
「何?」
「お煎餅。好きでしょう」
律は袋の中を見て、顔をほころばせた。
「あ、これ。近所の煎餅だ」
ビリーヴが袋の柄を見た。デュランダルも見た。ライトオは袋そのものへ顔を寄せた。
「お好きなのですか」
「うん。子どもの頃、よく食べてたんだ。みんなで食べようか」
ビリーヴが取り皿を出した。紗耶は律の顔を見て、襟元へ手を伸ばす。
「襟、入ってる」
襟を少し引き出し、ぽんと肩を叩いた。それだけだった。
デュランダルは、その動きを端から端まで見ていた。
律は何も気にせず袋を開け、取り皿へ煎餅を並べている。
「姉さん、今日このあとは?」
「帰るだけ。新幹線まで少し時間があるの」
「じゃあ、駅まで送るよ」
「大丈夫。1人で行けるから」
3人の耳が、そろって少し動いた。
聞き覚えのあるやり取りだった。
「途中に、姉さんが好きそうな店を見つけたんだ。時間があるなら寄ろうと思って」
「それなら、お願いしようかな」
あっさり決まった。
ビリーヴは自分のカップに口を付けた。デュランダルは煎餅を1枚取り、ライトオは律を見ていた。
「トレーナーさんも、お迎えをするのですね」
「するよ。いつもされるだけじゃないよ」
律が笑うと、紗耶も笑った。
「昔から、頼むと何でも張り切ってたわね」
「昔の話は、今しなくても」
「買い物袋を持ってくれたり。お姉ちゃん助かった、って言うと、もう1袋持つって」
ライトオが、ゆっくりと律を見た。
律は煎餅を食べた。
「……子どもの頃の話だよ」
「今もそうじゃない。手伝ってって言ったら、すぐ来てくれるし」
紗耶は3人へ向き直った。
「だから、あまり1人で抱え込ませないでやってね。本人は平気な顔をしてると思うけど」
デュランダルが胸を張った。
「その点は、お任せください」
「休憩も、こちらで確保しています」
ビリーヴが続ける。ライトオも頷いた。
「先日は、ソファへ運びました」
紗耶はライトオを見た。
「何を?」
「トレーナーさんを」
笑い声が部屋に響いた。
律は煎餅を置き、机に突っ伏した。
「そこまで話さなくても」
「いいじゃない。大事にしてもらってるんだね」
紗耶はまだ笑っていたが、律が顔を上げる頃には、少し優しい目になっていた。
「ちゃんと、頼れる人ができてよかった」
律は照れたように頷いた。
「うん。3人とも、頼りになるから」
デュランダルが背筋を伸ばした。ビリーヴは空いた皿をこのタイミングで寄せた。ライトオは、次の煎餅を律へ差し出した。
「召し上がってください」
「まだ手元にあるよ」
紗耶はその様子を見て、また笑った。
*
律が出発前に同僚へひと言伝えに行くと、紗耶は3人に尋ねた。
「あの子、先生らしくやれてる?」
今度の返事は、誰からともなく続いた。
「はい。走りをよく見てくださいます」
「必要なときには、きちんと決めてくださる方です。私は、そのご判断を頼りにしています」
「話したことを覚えていて、次に使ってくださるので。僕も、相談しやすいです」
紗耶は3人の顔を順番に見て、頷いた。
「そっか。ありがとう。そう聞けて、安心した」
少しの間、お茶を飲む音だけがした。
それから、デュランダルが控えめに口を開いた。
「あの。お電話では、私たちのことを、ほかにも?」
ビリーヴは彼女を見たが、自分もすぐに紗耶へ目を戻した。ライトオは椅子ごと近づいた。
「ええ。レースのことも、練習のことも。聞いても細かいところは分からないんだけど、嬉しそうだから、うんうんって聞いてる」
「嬉しそうですか」
「新しいチームの話ばっかりよ。みんな、ちゃんと寝てるかな、とかね」
ライトオが口を開いた。
「もっと、速さについての話は」
「していたと思う。最初の加速が、何だったかしら」
彼女は律が出ていった扉を見た。デュランダルが少し前へ身を傾ける。
「抜けてからの伸びについては、いかがでしょう」
「それも聞いた気がする」
「長いスパートについては、何か言われていましたか」
ビリーヴまで尋ねたところで、紗耶はとうとう笑った。
「直接、聞いたら?」
3人は互いを見た。
「直接ですと」
デュランダルが言いかけた。
「どうしたの?」
扉が開き、律が戻ってきた。紗耶が答えるより早く、ビリーヴが立ち上がった。
「お茶のお代わりを伺っていました」
「もう駅へ行かないと、時間がなくならない?」
「そうね。そろそろ行こうかな」
紗耶は立ち上がり、3人に礼を言った。デュランダルが鞄を渡し、ライトオが扉を開け、ビリーヴが紙袋の口を整える。
「また来てください」
律が言うより先に、ビリーヴが言った。
紗耶は頷き、少しだけ顔を近づけた。
「次は、もう少しちゃんと聞いておくね」
デュランダルとビリーヴが揃って礼をした。ライトオは真剣な顔で、ぜひ、と答えた。
律は3人を見た。
「何の話?」
「次にお会いするときのお話です」
デュランダルがきっぱり答えた。
駅までの道で、紗耶は何度も笑っていた。律が理由を聞いても、楽しそうなチームだね、としか言わない。
彼が担当の3人はすごいんだと話し始めると、今度は最後まで聞いた。
「で、その外へ切り替えた子は、誰だっけ?」
「デュランダル」
「うん。覚えた。続きをどうぞ」
律は姉を見上げた。
「今日、やけに詳しく聞くね」
紗耶は笑いながら、歩く速さを弟に合わせた。