翌日の日曜日、朝10時頃。
妙に疲労感の残る体に衰えを感じながら、ユウジはほんのりと悪臭のする洗面台の前に立った。
昨日の時点では完全に取り去ったと思ったが、未だ悪臭問題は解決していなかったようだ。
とはいえ、そこまで気になるというほどでもない。
顔を洗い、歯を磨き、髭を剃って、洗面所を出る。
「ヴォエッ!!」
自室に戻る道中で、庭先からくぐもった悲鳴が聞こえた。
何事かと窓から覗いてみれば、リツトが車の消臭作業を行っているらしかった。
車の扉とトランクを完全に開けながら、何とか染みついた臭いを消そうと四苦八苦している。
……少なくとも今日は、車は使えそうに無さそうだ。
まぁ、元より車を使う予定も無かったが。
部屋のクローゼットから引っ張り出すのは、もう長いこと着ていなかった、外出用の私服だ。
ここしばらくは部屋着か、スーツか、あるいはジャージを着るくらいだったそれを着るのは、それこそ何年ぶりくらいであったが、体型維持には気を遣っていただけあって、すんなりと入った。
むしろ筋肉が落ちた分、オーバーサイズになっただろうか。
何だか不格好な気もするが、他の服も似たようなものだろう。
変に足掻くだけ無駄、というものだ。
そうして服装を整えたら、家の鍵と財布、携帯電話。
その他必要な諸々を鞄に突っ込み、玄関を出る。
扉を開けた瞬間、ツンと来る悪臭がユウジの嗅覚を殴った。
成程、これは近所から苦情が来る。
早急に何とかしてくれ、リツト。
と、そんなことを他人事のように考えつつ靴を整え、家の外へ。
「……んあ? 何? お出かけ?」
そんなユウジを見つけたリツトが、鼻を摘まんで鼻声のままに問いかける。
最近は色々あって少々距離感を掴みあぐねていた息子だったが、こうして掃除用具片手に四苦八苦しているところが全く変わっていないのを見ると、少々安心感を覚えるというものだった。
「そうだ」
「へぇ、そう。んじゃ昼は?」
「食ってくる予定だ」
「りょーかい。それじゃ、行ってらっしゃい」
「あぁ、行って来る」
短い会話を終え、家の敷地を出る。
ここ十年ですっかり歩き慣れた道を抜け、駅で電車に乗り込んだ。
スーツでなく、私服で乗るのは、何だか新鮮な気分だった。
普段に比べれば空いている車内を椅子に座り、揺られながら、いつも通りの駅を3つほど通り過ぎた場所で降りる。
そうしたら階段を下って、改札を抜け───
「よう」
携帯を取り出し、目的地に着いたことを知らせようと思ったら、横合いから声がかかった。
視線を横にスライドさせれば、相変わらずの軽薄な笑みを浮かべた友人が、そこに居た。
……流石に、ユウジと同じく、多少の衰えは隠せないようだったが。
「久しいな、タクマ」
「ああ、本当だぜマジで。10年近くも何やってやがったよテメー」
使い込まれ、角ばった拳がユウジの肩を小突く。
「ぬ」
「あ?」
骨に染みわたるような衝撃は、彼が未だに研鑽を怠っていない事を感じさせた。
逆に、タクマはユウジが鍛錬を辞め、衰え切っていることを理解し、目を見開く。
「……お前、マジで何やってた?」
「サラリーマンだ」
「はぁ!? サラリーマン!? お前がァ!?」
大口を開き、信じられないと彼は顔で語る。
「嘘だろオイ……お前がスーツ着て、会社行ってたってか」
「その通りだ」
「いやお前……嘘だろ、信じらんねぇ。よく10年も……っていうか、よく就職できたよな、まず」
「営業と似たようなことは、ずっとやっていたからな」
「あー……」
タクマの視線が明後日を向き、声が漏れる。
どうやら心当たりはあるらしい。
「マジかぁ……時間って怖えなァ……ま、何にせよ、久々の再会だ。良い飯屋を予約してある。積もる話はそっちでしようぜ。勿論お前の要望通り、個室だ」
「感謝する」
近くに停めてあったタクシーに乗り込む。
そうしてユウジが連れていかれたのは、何とも高級感の漂う、豪華な店だった。
見事に手入れされた庭園を抜け、店に入れば、和装の女性が二人を恭しく部屋まで案内する。
「ここはウナギがとにかく美味いんだ」
「ウナギか。長いこと食ってないな」
「俺もだ。だがまぁ、久々の贅沢くらいは、なぁ?」
「それもそうだな」
ユウジが頷く。
いくら冒険者時代に稼いだ金があるとはいえ、そう易々と浪費できるものではない。
節制は、常日頃から息子と一緒に心掛けていたことだ。
が、たまにはこんな日もあっていい。
「……しかし、なぁ?」
「ん?」
「いや……くはは、はっはははははははは!」
「……気でも狂ったか」
突然、哄笑を上げ始めた友人の姿に、ユウジは引いた。
「いや、そういうわけじゃねェよ。ただ、土手でザリガニ食ってた悪ガキ連中が、こーして立派な店の個室で、昼間っから高ぇ料理を食うようになったと思うと、つい面白くってよ!」
「まぁそう言われてみれば……そう、なのか?」
ユウジとタクマが出会ったのは、中学の時。
引っ込み思案で、いわゆるイジメと呼ばれる行為を受けていたユウジが、状況を変えようと当時学校一番の腕自慢として知られていたタクマに頭を下げたのが、始まりだった。
それからタクマがユウジを気に入り、ユウジを連れまわしていたのだ。
その一環で、タクマがユウジを鍛えたりもしていた。
ユウジが冒険者になる事のきっかけを作ったのが、タクマだった。
卒業してから一度縁は切れたが、後々に互いに冒険者として再会したのが、15年ほど前。
連絡先は、その時交換したものだ。
「……っと、来たな」
そんなことを話しているうちに、料理はすぐに運ばれて来る。
蓋越しにも漂う美味そうなタレの匂いが鼻腔をくすぐり、食欲を掻き立てた。
「まずは、食うか」
「あぁ、そうだな」
いただきます。
二人して手を合わせ、料理にありついた。
「美味いな」
「だろ」
久々のウナギは、信じられないくらいに美味しかった。
息子の料理も美味いは美味いが、やはりいいところの店となると、違うらしい。
箸が進み、止まらない。
その調子で食べ続けること十数分後、二人の前にある容器は、全て綺麗に空になっていた。
「ふぅ、食った食った。満足だ。…………さて、それじゃあ腹ごしらえも終わった。話をしようぜ、なぁ? 話してぇことが山ほどあるんだ……が、先にお前から連絡して来たって事は、話したいことがあるんじゃねぇか? えぇ?」
「そうだ。……これらを、見て欲しい」
「……へぇ」
ユウジが鞄から取り出したものを見て、タクマが感嘆の声を漏らす。
「こっち二つには見覚えがある。『呪い玉』に『半身のタリスマン』だな」
そう言ってタクマが指差したのは、それぞれリツトが『念玉』『分鬼のタリスマン』と呼んでいたものだ。
「『呪い玉』は、呪詛系のアイテムやら装備を作るときに使う素材で、『半身のタリスマン』は装備しておくと行動不能系の状態異常を食らった時、僅かだが動けるようになるって代物だ」
「……ふむ」
多少の違いこそあるが、リツトの説明と一致するらしい。
息子の知識を疑ったわけでは無いが、どうやら本当にそういう効果があるようだった。
「こっちの方は……知らねぇな。でもまぁ、この感じ、多分『聖水』的なヤツだろ」
合っていた。
流石はベテラン冒険者、と言ったところだろう。
しかし、彼の興味はすぐにこの見たことも無い『聖水』から外れ、他の二つの方に戻った。
「しかしこんなモン、一体どこで手に入れた? 何かのはずみで難易度高めの死霊・アンデッド系のダンジョンにでも入ったのか?」
「……それらは、ダンジョンで手に入る代物なのか」
「あぁ、そうだ。『呪い玉』の方はレイスみてぇな中位の死霊系が良く落とす。これより下の『妬み玉』は下位の死霊系が、これより上の『怨み玉』は上位の死霊系が良く落とすぜ」
『妬み玉』に『怨み玉』。
息子の行った錬金の流れから考えると、『妬み玉』が『球魂』とやら、『怨み玉』が『怨念玉』に相当するのだろう。
……それにしては、息子は『球魂』からではなく、『微霊の残滓』とやらから『念玉』を作り出していたが……
「……タリスマンは、どうだ」
「こっちはスゲェぞ。『
「そう、なのか……」
『
即死系の魔法や毒の状態異常攻撃などを絶え間なく繰り返すので、対策なしでは全滅必至、対策をしても何度も再生復活する腕利きの騎士と戦わねばならないという、アンデッド系のモンスターが嫌われる理由を詰め込んだような性能をしていた。
そんなモンスターを倒して、ようやく手に入れられるアイテムが、これだという。
「それでよ、もう一回聞くぜ、ユウジ」
タクマの眼光が、鋭くユウジを射抜いた。
「これらのアイテム、一体どうやって手に入れた? ちゃーんとモンスターを自前で倒して手に入れた、何て事は無ぇだろ、今のお前じゃあよ。そして、誰から譲り受けたわけでもねぇだろ。冒険者を引退してたお前に、こんな貴重なモンを渡す理由もねぇ」
「その通りだ。これは、俺が直接手に入れたものではない」
「じゃあどうやって手に入れた」
「……息子が作った」
空気が、凍る。
タクマは一度、困ったように自分のこめかみをグリグリと押した。
「……すまねぇ、ちょっと聞き違えたかも知れねぇから、もう一回頼む」
「息子が作った」
「……いやいやいやいやいや、お前にガキが生まれてたことは、俺も知ってたぜ。ミコトちゃんとの子供の、リツト君だっけか? お前から報告されたもんな? 顔を見に行ったことだってある」
「そんなこともあったな」
「だけどよぉ、流石にお前、そりゃ無理があるってモンだろ?」
半ば諭すように、タクマはユウジに語り掛ける。
「すまん、正確には、錬金した」
「錬金? あぁ……じゃあ、そういうことも無くはねぇのか。相変わらず言葉が足りねぇなお前は。ちょっと焦ったぜ。それで、リツト君は何を突っ込んだ」
「タリスマンの方は、瓶詰にした臓器と、空っぽのお守りと、『微霊の残滓』とかいう物質なのかどうなのかよく分からんヤツだ」
「…………はぁぁぁぁぁぁああああ?」
タクマが特大の疑問符を吐き出す。
そうして、再びタリスマンを持ち上げた。
「流石にお前、そんなこと有り得ねぇだろ。タリスマンはタリスマンでしか錬金できねぇ。錬金ッてェのは、
「俺も、つい先週くらいまではそう思っていたのだがな」
ユウジがそう発言したときに見せた表情を、タクマはまじまじと見つめる。
「…………マジなのか、おい」
そうして、冷や汗を垂らしながら、何かを察したように口を開いた。
「マジっぽいなオイ。いやマジかオイ。そうだよな、お前、嘘とか全然吐かないもんな」
「あぁ、そして俺は、今から、更なる事を告げたいと思っている」
「……これより先があるってのか……?」
「お前に、その覚悟があるなら」
ユウジがそう聞くと、タクマは一瞬考え込むようなそぶりを見せた後、獰猛に笑って見せた。
「いいぜ。聞いてやるよ。どうせ最近、刺激的なことが無くて暇してたんだ」
「では、心して聞け。あらかじめ言っておくが、他言は無用だ。いいな」
「おう、ばっちこい!」
タクマの宣言を受け、ユウジは語り始める。
大まかに、『錬金』には『レシピ』が存在すること、『錬金』は人が人に都合のいいように作ったシステムであること、しかし失敗して『垣間見る世界』のようになったことなど。
リツトから聞いた話を総合し、タクマに伝えた。
「そして、近年中に『聖剣』を作らないと世界が滅ぶ」
「…………成程な」
「分かったか」
「取り敢えず、お前の説明が下手だという事は分かった」
ほとんど何も伝わっていなかったらしい。
ユウジは普通にショックを受けた。
「お前本当に……お前、よくそれで社会人が務まったな……?」
「相手の感情に、訴えるのは得意だ」
「そうだよな。人誑しだもんな、お前」
心外が過ぎる。
人を誑かそうとして頭を下げたつもりなど、微塵も無いというのに。
ユウジはそう抗議しようとしたが、それよりも先にタクマが口を開いた。
「だから、お前が嘘を吐いてない事と、リツト君を信じて、必死で頑張ってることは分かった」
「……」
「とりあえず、俺をリツト君と会わせろ。お前の説明じゃ分からんから、本人と話がしたい」
「……分かった。家の住所を教えておく。学校があるが、7時以降なら、確実に家に居るだろう」
「その必要はねぇよ」
「……何?」
「行こうぜ。今から、お前ん家」
「……………………は?」
満面の笑みでユウジの肩に手を置くタクマ。
「いや、別に今日は、そういう目的で来たのではなく……」
ユウジの目的は、あくまでもユウジが『錬金』近辺で感じた違和感についての調査の依頼である。
そこにリツトは関係ない、そのはずだった。
だが。
「いやー、楽しみだなァ。最後に会ったのって、生まれてすぐの時だったもんなァ」
タクマはもはや聞く耳を持たないようであった。
彼がユウジの家に訪れることはもはや彼の中で確定しているようで、ウキウキとした表情を隠そうともしていない。
こうなった彼はもう止まらないと、中学校で彼と過ごした2年でユウジは学んでいる。
仕方がない、と。ユウジは彼を家に招くことを決めた。
だが。
この時、タクマとユウジには知る由もなかった。
この後にユウジに降りかかる予定だった、とんでもない苦行を。
そして、今回のこの選択により、その苦行がタクマの身にも降りかかる運命となったことを。