エリナリーゼが、ラノアから姿を消した。
そしてクリフは、一人になった。
二人で暮らすはずだった家。
二人で選ぶはずだった家具。
二人で決めるはずだった結婚式。
そのすべてが残されている。
けれどそこにエリナリーゼだけがいなかった。
「……」
クリフは、何日もその家から出なかった。
大学にも研究室にも行かなかった。
最初の一日 誰も気にしなかった。
ルーデウスが死んだ。
エリナリーゼがいなくなった。
それだけのことが重なっている。
少しくらい休んでも、おかしくない。
二日目 まだ来ない
三日目 それでも来ない
「……」
一週間。
ついにザノバが教室の空席を見つめていた。
そこにはいつもクリフがいた。
そして、その隣にはエリナリーゼがいた。
その後ろにはルーデウスがいた。
二人で魔導具について議論しくだらないことで言い争い。
時には、夜遅くまで研究室で研究を続けていた。
「……師匠」
ザノバが呟く。
返事はない。
ザノバが研究室に行く。
「クリフ殿も……来ませんな」
机の上にはルーデウスが残した研究資料。
魔導具 人形
そして何も置かれていない空席。
「ジュリ」
「はい」
「出かけますぞ」
「どこに?」
「クリフ殿の家です」
ジュリは少しだけ考えた。
「……大丈夫でしょうか」
「大丈夫ではないでしょうな」
「……」
「だから行くのですぞ」
⸻
クリフの家
扉を叩く。
「クリフ殿」
返事はない。
もう一度。
「クリフ殿」
「……」
静寂。
「ザノバですぞ」
やはり返事はない。
ジュリが扉を見る。
「壊しますぞ」
「ダメです。マスター」
「しかし」
「ダメです」
「……」
二人でしばらく待つ。
すると中から足音がした。
ゆっくりそして扉が開く。
「……うるさい」
そこにいたのはクリフだった。
髪は乱れ目の下には濃い隈がある。
「お久しぶりですな」
「帰れ」
「嫌ですぞ」
「……」
「入りますぞ」
「おい」
ザノバは構わず中へ入った。
⸻
家の中には二人分の食器。
新しい家具。
そして大量の紙。
結婚式の予定表 会場 料理 招待客 家具の注文書
家の契約書
すべて二人の未来のために用意されたものだった。
「……」
ザノバが紙を見る。
「なるほど」
「何だ」
「これは酷い」
クリフの眉が動く。
「喧嘩を売りに来たのか?」
「いいえ」
ザノバは椅子に座った。
「確認ですな」
「何の」
「クリフ殿が」
一拍。
「まだ生きているか」
クリフの表情が変わった。
「……馬鹿にしているのか」
「しておりませんぞ」
「なら帰れ」
「嫌ですな」
「……」
「余も」
ザノバは静かに続けた。
「師匠を失いましたぞ」
クリフが止まった。
「……」
「余の師匠」
「……」
「生涯、仕えるつもりだった御方です」
クリフは目を逸らした。
「だから何だ」
「別に」
「……」
「慰めに来たわけではありません」
ザノバはそう言って机の上の紙を見る。
「拙者に、クリフ殿を慰める言葉などありませんからな」
「……なら」
クリフが呟く。
「帰れよ」
「嫌ですぞ」
「……」
「ただ」
ザノバはクリフを見る。
「一人でいるより」
少し考えて。
「二人でいる方が、多少マシかと思いましてな」
クリフは答えなかった。
ザノバも、それ以上は何も言わなかった。
ジュリが部屋の隅に座る。
ただ三人で同じ部屋にいる。
それだけだった。
⸻
一時間ほど経った頃。
クリフが口を開いた。
「……ザノバ」
「なんですかな」
「僕は」
机の上を見る。
「エリナリーゼを救うつもりだった」
「知っておりますぞ」
「呪いを治して」
「はい」
「結婚して」
「はい」
「家庭を作る」
ザノバは黙って聞いている。
「僕ならできると思ってた」
「……」
「僕は天才だからな」
「そうですな」
「……否定しろ」
「事実でしょう」
クリフの口元がほんの少しだけ緩んだ。
「……ルーデウスも」
「師匠も?」
「ああ」
クリフが紙を見る。
「僕ならできるって言った」
「……」
「僕の研究をすごいと言った」
拳を握る。
「なのに」
「……」
「あいつは死んだ」
「はい」
「エリナリーゼもいなくなった」
「はい」
「僕には」
声が震える。
「何もできなかった」
ザノバはしばらく黙った。
そして。
「余もですぞ」
クリフが顔を上げる。
「……お前は迷宮にいなかっただろ」
「クリフ殿もです」
「……」
「それでも考えてしまう」
ザノバは自分の手を見る。
「もし拙者がいたなら」
「……」
「この怪力で師匠を引き戻せたのではないか」
「無茶苦茶だ」
「ええ」
「お前がベガリット大陸へ行く理由なんてなかった」
「ええ」
「どうしようもないだろ」
「ええ」
ザノバは頷いた。
「クリフ殿も同じですな」
「……」
長い沈黙。
「……お前」
「はい」
「意外と性格が悪いな」
「師匠の影響ですかな」
「……」
クリフは俯いた。
「ルーデウス……」
「はい」
「会いたいな」
ザノバはすぐには答えなかった。
「……ええ」
小さく。
「拙者もですぞ」
二人はそれ以上、何も言わなかった。
⸻
同じ頃――
ルーデウスの家。
「シルフィ様」
リーリャが扉を叩く。
「朝食です」
「……いらない」
小さな声。
「ですが――」
「いらない」
リーリャは扉の前で立ち止まった。
「……ルーシー様が、お待ちです」
しばらく何も聞こえない。
やがて扉がゆっくり開いた。
「……ルーシーは?」
「アイシャが見ております」
「……そう」
シルフィの髪は乱れていた目の下には疲れが残っている。
「シルフィ様」
「何?」
「少し、お休みになられた方が」
シルフィは小さく笑った。
「寝てるよ」
「……」
「いっぱい寝てる」
それなのに身体は重かった目を閉じても休んだ気がしない。
朝になればルディはいない。
その事実だけが毎朝、最初に胸へ突き刺さった。
「……ルーシーのところに行くね」
「はい」
シルフィは歩き出した。
⸻
「シルフィ姉さん」
アイシャがルーシーを抱いていた。
「起きたんですね」
「うん」
「ルーシーちゃん、さっきまで泣いてたんですよ」
「そう」
「でも、私が抱いたら――」
「……ごめん」
アイシャが止まる。
「え?」
「ごめんね」
「何がですか?」
「僕」
シルフィはルーシーを見る。
「お母さんなのに」
「……」
「アイシャに任せてばっかりで」
「シルフィ姉さん」
「ごめん」
「謝らないでください」
「でも……」
アイシャは優しく笑った。
「産後なんですよ」
「……」
「疲れて当然です」
「……」
「お母さんも言ってました」
「……」
「みんなで育てればいいんです」
シルフィはルーシーを見る。
「……みんな」
「はい」
「でも」
声が小さくなる。
「ルディはいない」
アイシャは黙った。
「お婆ちゃんも」
「……」
「いない」
シルフィは笑った。
「みんな、いなくなるね」
「シルフィお姉ちゃん!」
「……ごめん」
また謝った。
「ちょっと」
「……」
「疲れた」
シルフィは部屋へ戻った。
その日ルーシーを抱かなかった。
⸻
夜。
ルーシーが泣いている。
シルフィには聞こえている。
行かなきゃ母親だから。
けれど身体が動かなかった。
「……」
扉の向こうからアイシャの声がする。
「ルーシーちゃん、どうしましたかー?」
泣き声が少しずつ小さくなる。
シルフィは目を閉じた。
安心した。
そして同時に胸が苦しくなった。
僕じゃなくても泣き止む。
当たり前のことなのに。
「……僕」
天井を見る。
「いなくても……」
そこで言葉を止める。
違うそんなことを考えてはいけない。
「……ルーシー」
そして小さく呟く。
「ルディ」
返事はない。
「……助けて」
涙が頬を伝う。
「僕……どうしたらいいの……」
⸻
翌朝。
ノルンがシルフィの部屋を訪れた。
「シルフィ姉」
「……」
「入ります」
扉を開ける。
部屋は暗かった。
カーテンも閉まっている。
「……シルフィ姉?」
ベッドにシルフィが座っていた。
「ノルンちゃん」
「はい」
「学校は?」
「今日は休みです」
「そう」
ノルンはシルフィを見る。
「シルフィお姉さん」
「何?」
「大丈夫ですか?」
「うん」
即答だった。
「大丈夫」
ノルンは黙った。
「僕は大丈夫だよ」
笑う。
その笑顔をノルンは知っていた。
兄――ルーデウスも時々、同じ顔をしていた。
何かを抱えているのに大丈夫。
そう言う顔。
「……嘘です」
シルフィの笑顔が止まる。
「え?」
「大丈夫じゃないです」
「……」
「シルフィ姉」
「大丈夫だよ」
「嘘です」
「大丈夫」
「嘘!」
ノルンの声が響く。
シルフィの肩が跳ねた。
「……ご、ごめんなさい」
ノルンは俯く。
「でも」
「……」
「わかります」
「何が?」
「私も」
ノルンは拳を握った。
「ずっと、大丈夫って言ってたから」
シルフィは何も言わない。
「兄さんが死んで」
「……」
「お父さんを見ても、喜べなくて」
「……」
「私が兄さんを殺したんだって」
声が震える。
「今でも、そう思うことがあります」
「ノルンちゃん……」
「でも」
ノルンは顔を上げた。
「一人で決めちゃいけないんです」
「……」
「ルイジェルドさんが、きっとそう言うと思います」
シルフィの口元がほんの少し緩んだ。
「……ルイジェルドさん、そんなこと言った?」
「言ってません」
「……ふふ」
「でも、多分そうです」
「そっか」
静かな笑いだった。
けれど涙が落ちた。
「……ノルンちゃん」
「はい」
「僕」
シルフィが俯く。
「ルーシーを抱くのが」
「……」
「怖い時がある」
ノルンは黙って聞く。
「泣かれると」
「……」
「僕が悪い気がする」
「……」
「アイシャが抱くと泣き止むから」
涙が落ちる。
「僕、お母さんなのに」
ノルンは少し考えた。
「兄さんも無理です」
シルフィが顔を上げる。
「……え?」
「兄さん」
「……」
「赤ちゃんを育てたことありません」
「……」
「多分、すごく慌てます」
「……」
「泣いたらリーリャさんに聞きます」
「……」
「それでも駄目ならアイシャに」
「……」
「最後はロキシーさんに手紙を書きそうです」
シルフィが少し笑った。
「……するかも」
「します」
「絶対?」
「絶対です」
二人の間に久しぶりの笑い声があった。
けれどその笑い声はすぐに涙へ変わった。
「……会いたい」
「はい」
「ルディに」
「……はい」
「お婆ちゃんにも」
「はい」
「会いたいよ……」
ノルンはシルフィの隣に座った。
「……私も」
「……」
「兄さんに会いたいです」
二人は。
静かに泣いた。
⸻
数日後――
「クリフ殿」
「嫌だ!」
「大学へ行きますぞ」
「僕は行かない!」
「行きますぞ」
「離せ!」
ザノバはクリフを肩に担いでいた。
ジュリが後ろを歩いている。
「僕は歩ける!」
「では歩いてくだされ」
「だったら降ろせ!」
「研究室までですぞ」
「僕の尊厳を何だと思ってる!」
「まだ残っていたのですかな?」
「ザノバァ!」
廊下を歩く。
学生たちが振り返る。
「見るな!」
「おお」
ザノバが頷く。
「元気ですな」
「殺すぞ!」
「それも結構」
「降ろせ!」
そして研究室。
扉が開く。
ザノバがクリフを降ろす。
「……」
クリフは服を直した。
「最低だ」
「褒め言葉ですかな」
「違う!」
その時クリフの視線が止まった。
机 一つの空席。
そこには誰も座っていない。
「……」
ザノバも見る。
「師匠の席ですな」
「……ああ」
「片付けますかな?」
クリフはすぐに答えた。
「いや」
「……」
「まだ」
クリフは机を見る。
「そのままでいい」
ザノバは頷いた。
「ええ」
二人はしばらくその席を見つめた。
もうルーデウスは来ない。
それでも研究室は少しずつ動き始めた。
クリフもザノバもジュリも残された者として前へ進むしかなかった。
――だがルーデウスの家ではまだ時間が止まっていた。
シルフィは朝を迎えることさえ苦しい日々を過ごしている。
ルーシーを愛している。
家族もいる。
支えてくれる人もいる。
それでも心の中には。
ルーデウスとエリナリーゼがいなくなった、ことで生まれた穴がある。
そしてその穴は日が経つほど小さくなるどころか。
少しずつ深くなっていた。
誰もまだ知らない。
それがただの悲しみだけではないことをシルフィ自身でさえ。
まだ知らなかった。