夜。
シャリーア。
グレイラット家。
「……」
シルフィはルーシーを寝かせたあと一人で廊下を歩いていた。
すごくやつれていて、あまり喋らなくなっていた。
ルーデウス。
エリナリーゼ。
ルーク。
そして、アリエル。
大切な人たちは、もういなかった。
静かな夜だった。
誰も起きていない。
「……」
足が止まる。
目の前。
ルーデウスの部屋。
ずっと閉められていた部屋。
「……ルディ」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
当然だった。
それでもシルフィはしばらく扉を見つめていた。
「……掃除」
そう呟く。
「しないと」
誰に言うでもなく。
言い訳をするように扉を開けた。
「……」
埃。
少し。
机。
本棚。
ベッド。
そして窓。
何も変わっていない。
ルーデウスがいつ帰ってきてもおかしくないような。
そんな部屋。
「……」
シルフィは机に触れた。
「冷たい」
当たり前なのに。
胸が痛くなる。
「……ルディが」
言葉が続かなかった。
「……」
掃除を始める。
机を拭く。
本棚の埃を払う。
床を掃く。
その途中だった。
本棚の奥。
何かが引っかかった。
「……?」
手を伸ばす。
一冊の本を取り出す。
木表紙。
見覚えのない本だった。
「これ……」
表紙を開く。
中には見たことのない文字が並んでいた。
「……」
シルフィはしばらく黙っていた。
読めない。
この世界の文字ではない。
でもなぜかわかった。
「……ルディの字」
文字そのものは読めない。
だけど書き方。
癖 筆圧。
見ているうちにこれはルーデウスが書いたものだと
確信した。
「……何を書いたの?」
ページをめくる読めない。
さらにめくる読めない。
「……」
翌朝。
「ノルン、これ読める?」
「これですか?」
ノルンは本を受け取った。
しばらく眺める。
「うーん……わからないです」
「アイシャ、これ」
「見たことのない言葉ですね」
アイシャも首を傾げる。
「……」
シルフィは考えた。
そして一人の少女の名前を思い出す。
「ナナホシさんなら……」
その日の午後シルフィは一人でナナホシの研究室を訪ねた。
◇
「……ナナホシさん」
「シルフィ?」
ナナホシは、少し驚いた顔をした。
「どうしたの?」
シルフィは何も言わず、持ってきたノートを机の上に置いた。
「これ……読んでほしいの」
「……?」
ナナホシがノートを開く。
そして、一ページ目を見た瞬間――
表情が変わった。
「……これ」
「読める?」
「……うん」
ナナホシは、しばらく黙っていた。
「これは……日本語」
「日本語?」
「そう。私たちの世界の文字」
シルフィは目を見開いた。
「じゃあ……ルディは、この文字を……?」
「……書けたみたいね」
ナナホシは一枚目をめくった。
そして、そこに書かれていた最初の一文を見つめる。
「……」
しばらくして、ナナホシは小さく息を吐いた。
「……これ、かなり長いわよ」
「……どのくらい?」
「たぶん、ルーデウスの日々の感想や人生のかなりの部分が 書かれてる」
シルフィは、黙ってノートを見つめた。
「……お願い」
「え?」
「全部……読めるようにしてほしい」
ナナホシはシルフィを見る。
その目に、強い決意があった。
「……分かった」
こうして、ナナホシは日記の翻訳を始めた。
数日後。
ナナホシは、分厚い紙の束を持ってシルフィのもとへ戻ってきた。
「終わったわ」
「……全部?」
「全部」
シルフィは翻訳された日記を受け取った。
紙の束は、思っていたよりずっと重かった。
「……ありがとう」
「シルフィ」
「うん?」
「これ……」
ナナホシは少しだけ言葉を選んだ。
「読んでいて、何度も思った」
「何を?」
「……あの人、本当に色々あったのね」
シルフィは黙っていた。
「魔大陸のことも。
大学のことも」
ナナホシは少し笑った。
「笑えるところもあった」
「……笑える?」
「うん。でも――」
ナナホシは目を伏せた。
「同じくらい、辛いところもあった」
シルフィは翻訳された日記を抱きしめた。
「……みんなにも、読んでもらいたい」
「そうね」
「ルディがどんな人だったのか……ちゃんと知ってほしい」
◇
グレイラット邸。
シルフィはしばらく。
開けなかった。
読んでしまえば。
もう戻れない気がした。
ルーデウスが何を考えていたのか。
知らなかったことを知ってしまう。
知りたくなかったことまで知ってしまうかもしれない。
「……」
それでも呼ぶことにした。
皆を。
◇
リビング。
人が集まっていた。
パウロ リーリャ ノルン アイシャ ザノバ クリフ
「これが」
パウロが本を見る。
「ルディのか?」
シルフィは小さく頷いた。
「……うん」
「部屋にあったの」
「……最初は」
「何が書いてあるのか」
「わからなかった」
アイシャが本を見る。
「誰が訳したんですか?」
「……ナナホシさん」
「ナナホシさんが?」
クリフが顔を上げた。
「彼女しか読めなかった」
シルフィはそう言った。
「……ルディと」
「同じ文字だったから」
沈黙。
「同じ?」
パウロが眉を寄せた。
「ルディの?」
「……うん」
「ナナホシさんは」
「読めた」
ザノバが翻訳された本を見る。
「師匠の秘密ということでしょうな」
「……」
シルフィは答えなかった。
秘密だった。
おそらくルーデウスが誰にも話さなかった秘密だった。
「……読むのか?」
パウロが聞いた。
「……うん」
シルフィは頷いた。
「みんなで」
「読もうと思った」
「ルディが」
「残したものだから」
「……」
ノルンが俯いた。
アイシャは何も言わなかった。
ザノバもクリフも。
本を見ていた。
「じゃあ」
パウロが言った。
「読もう」
シルフィが本を開こうとした。
その時だった。
――コン。
玄関の方から音がした。
全員が顔を上げた。
「……?」
「誰?」
アイシャが立ち上がった。
夜だった。
客が来る時間ではなかった。
リーリャがルーシーを抱き上げる。
パウロが玄関へ向かった。
「誰だ」
「私よ」
その声にシルフィの手が止まった。
「……」
全員が動かなかった。
パウロが扉を開けた。
そこに一人の女が立っていた。
赤い髪 大きな剣。
そして以前より少しだけ疲れた顔。
「……エリス」
シルフィが呟いた。
「おう」
エリスは短く答えた。
「久しぶりね」
「……」
誰もすぐには話せなかった。
「どうしたんですか」
アイシャが聞いた。
エリスは少しだけ顔を逸らした。
「……別に」
「用事があったわけじゃない」
「ただ」
少し沈黙した。
「……たまには」
「顔を見せようかなと思っただけよ」
その言葉にシルフィが目を伏せた。
エリスはグレイラット家から出発して、一度は剣の聖地に出向いたが、旅に出ていた。
剣を振るため。強くなるため。
そう言っていた。
「……」
パウロがエリスを見る。
「上がれ」
「……いいの?」
「帰ってきたんだろ」
「……」
エリスは少しだけ笑った。
「そうね」
「……ただいま」
「おう」
パウロは短く答えた。
「おかえり」
エリスがリビングへ入る。
そして全員を見る。
「何?」
「集まって」
「何かあったの?」
シルフィが本を見た。
「……エリス」
「何よ」
「……今」
「ルーデウスの」
少し間が空いた。
「……ルディが残した」
「日記を」
「見ようとしてたところだった」
エリスの顔が止まった。
「……日記?」
「うん」
「……ルディの?」
「……うん」
「……」
エリスは本を見た。
「読んだの?」
「……まだ」
「今から」
「みんなで」
エリスは黙った。
「……私も」
「読んでいい?」
「……うん」
シルフィは小さく頷いた。
「もちろん」
「……でも」
「先に」
「お茶でも」
「飲む?」
「……」
エリスがシルフィを見る。
「……そうね」
「飲むわ」
「……久しぶりに」
「皆で」
◇
少しだけお茶をした。
誰も大きな声では話さなかった。
やがてシルフィが本を持った。
「……読もうか」
全員が顔を上げた。
エリスが少しだけ姿勢を正した。
「……うん」
シルフィは翻訳された本を開いた。
最初のページ。
『今日から日記をつけようと思う』
そして数ページ進んで
『◯月△日
今日から自分の過去の話をしよう。』
全員が黙った。
『せっかくだし、俺がどんな人生を送ってきたのか、ちゃんと残しておこうと思った。
誰に読まれるかは知らない。
読まれないかもしれない。
逆に俺が忘れてしまうかもしれない
でも、書いておけば、いつか誰かが読んでくれるかもしれない。
まぁ、読まれたら読まれたで、恥ずかしい話もかなりあるんだけどな。
それでも、俺が何を考えて、何を見て、何を大切にしてきたのか。
それくらいは残しておこうと思った。』
パウロが腕を組んだ。
「……最初から妙に素直だな」
クリフが呟く。
「日記だからだろ」
「そういうものか?」
「知らん」
ノルンが少しだけ笑った。
「……なんか、ルディ兄ちゃんらしい」
シルフィもほんの少しだけ笑った。
ページがめくられる。
『俺が生まれたのはブエナ村だった。
アスラ王国のフィットア領にある小さな村だった。
父親はパウロ・グレイラット。
母親はゼニス・グレイラット。
俺は二人の子供として。
ルーデウス・グレイラットとして生まれていた。』
⸻
「……」
パウロが止まった。
「……として?」
アイシャが呟いた。
「としてって何ですか?」
シルフィは答えなかった。
彼女にもわからなかった。
本を読む。
⸻
『子供の頃の俺はあまり外へ出なかった。
本ばかり読んでいた。
父さんと母さんにはずいぶん心配をかけていたと思う。』
「確かにお前。他の子より外に出なかったな」
「……」
シルフィが続きを読んだ。
⸻
『そんな俺を外へ連れ出してくれたのがロキシー師匠だった。
俺の最初の師匠だった。
俺に魔術を教えてくれた。
魔術だけじゃなかった。
外の世界を教えてくれた。
世界は広いと教えてくれた。
俺はロキシー師匠がいなければ。
たぶん外へ出られなかった一生。
狭い世界の中で。
何も知らずに。
終わっていたと思う。』
ノルンが。
「ロキシー先生のこと、好きだったんだね」
『◯月△日
最初にシルフィと出会った時も、まさかこんなに長い付き合いになるなんて思っていなかった。
緑色の髪のせいで、シルフィは周りから酷い扱いを受けていた。
俺は、それを見て放っておけなかった。
俺も最初から格好よく助けたわけじゃなかった。
でも、シルフィと一緒に過ごした時間は、本当に楽しかった。
勉強を教えたり、魔法を教えたり。
くだらないことで笑ったりもした。
あの頃は、毎日が結構楽しかった。
今思えば、あれが俺にとっての最初の「普通の幸せ」だったのかもしれなかった。』
シルフィの手が止まった。
「……」
パウロが横目でシルフィを見る。
「……よかったな」
「……うん」
シルフィは小さく答えた。
◇
『◯月△日
しばらくしてから学校の学費を稼ぐために
エリスの家庭教師になった。
まぁ……これが大変だった。
本当にほんとぉーに大変だった。
初対面から最悪だった。
いきなりタコ殴りにされた。
「なんで俺がこんな目に遭うんだ」と思った。
パウロを恨んだこともあった。
……いや、今思えば、あれはかなり酷かった。』
全員の視線が一斉にパウロへ向いた。
「……なんで俺を見る?」
アイシャが即答した。
「お父さんのせいじゃない?」
「いや、俺だってそんなことになるとは思わねえよ!」
ノルンが笑う。
「パウロ父さん、恨まれてたんだ……」
「そこを強調するな!」
エリスは少し気まずそうに目を逸らした。
「……」
クリフが言った。
「ところで、エリス」
「何よ」
「タコ殴りというのは事実なのか?」
「……」
「事実なのか」
「……昔のことよ」
「否定はしないんだな」
「うるさいわね!」
少しだけ空気が軽くなった。
そして、ページが進む。
『でも、エリスはエリスで、ただ乱暴な女の子だったわけじゃなかった。
不器用だっただけだった。
一緒に勉強して。
魔法を教えて。
剣を教えてもらって。
少しずつ、一緒にいることが当たり前になっていった。
喧嘩もした。
怒らせたこともあった。
怒らされたこともあった。
でも、楽しかった。
あの時間は、俺にとって大切なものだった。』
エリスが黙った。
そして小さく。
「……そう」
それだけ言った。
◇
『◯月△日
エリスが十歳になった誕生日。
エリスは他の人とダンスを踊ったが、結果は散々。
仕方ないから俺はエリスと踊った。
エリスは上手く踊れなかった。
が、俺が助言をしたらこれが大成功!
俺も上手くなかった。
でも、結果的には大成功だった。
エリスが笑っていた。
それだけで十分だった。』
「……」
エリスの頬が少し赤くなる。
ノルンが横から見る。
「エリスさん、嬉しそう」
「嬉しくないわよ」
「顔、赤いですよ」
「赤くない!」
「赤いです」
「……」
パウロが笑う。
「昔から仲良かったんだな」
エリスは黙った。
『途中で他の女の子から声をかけられたりもした。
「お、これはモテ期か?」なんて一瞬思った。
……まぁ、すぐにエリスに呼ばれて終わった。
俺のモテ期は短かった。
非常に短かった。』
クリフが吹き出した。
「そこを日記に残す必要あるか!?」
ザノバが真顔で言う。
「師匠らしいですな」
アイシャも呆れた顔をする。
「本当にどうでもいいところを覚えてますね」
ノルンが笑う。
「でも兄さんらしい」
エリスは。
「……」
顔を赤くしたまま。
小さく呟いた。
「……馬鹿」
◇
『その日の夜には、フィリップさんから政略的な話も出た。
俺は、その話を断った。
後になって後悔した。
でも、断ってよかったとも思った。
……矛盾してるな。
人生なんて、そんなものなのかもしれなかった。
部屋に戻ってしばらくした頃、エリスが来た。
あの夜のことは、今でもよく覚えている。
ただ、あまり細かく書くのはやめておこう。
俺にも恥ずかしいという感情は残っていた。
あの時、エリスは俺に言った。
「十五歳になったら」
……あの言葉を、俺はずっと覚えていた。』
「……」
エリスが固まる。
パウロも固まる。
リーリャがそっとお茶を飲む。
クリフは咳払いをした。
「……次へ行こう」
「そうだな」
パウロも即座に同意した。
「次だ。次!」
アイシャが冷静に言う。
「お父さん、動揺しすぎ」
「うるせい!」
◇
『◯月△日
俺が十歳になった誕生日。
エリスから特注の杖をもらった。
俺は、誕生日の準備をしていること自体は知っていた。
だから完全なサプライズではなかった。
でも、嬉しかった。
あの杖は、本当に気に入っていた。
俺の宝物だ!
あの頃の俺は結構幸せだった。
エリスとギレーヌさんがいて。
サウロスさんフィリップさんヒルダさん
家族がいて。
魔法を覚えて。
毎日が忙しくて。
くだらないことで笑って。
……あの時間がずっと続くと思っていた。
少なくとも、その時の俺はそう思っていた。』
エリスは。
目を閉じた。
「……」
シルフィも。
静かに。
ページをめくった。
『エリスとギレーヌさんに、俺の必殺技を見せようと思っていた。
その時だった。
空が不気味な雲で覆われ、仮面の使者が来てギレーヌと戦闘になり、空が光った
そう、フィットア領転移事件だ
何が起きたのか、最初は理解できなかった。
俺はエリスを守ろうとした。
そして――
俺たちは魔大陸へ飛ばされた。』
パウロが。
「……」
拳を握った。
自分が取り戻せなかったもの。
「……続けてくれ」
シルフィは頷いた。
◇
『そこからの旅は、本当に大変だった。
でも、楽しいこともあった。
ルイジェルドさんと出会った。
エリスと三人で旅をした。
喧嘩もした。
飯を食べた。
魔物と戦った。
知らない土地を歩いた。
怖いこともあった。
ぶっちゃけてしまうが、正直怖かった!見知らぬ土地で守らなければならないお嬢様。
でも、だけれどもそれ以上に旅をしている実感があった。
俺は、あの時間が好きだった。』
エリスが小さく笑った。
「……私も」
誰にも聞こえないほどの声だった。
『◯月△日
新人冒険者を狙って、罠にはめて金を稼ぐような、現地の勝手を知り尽くした連中にも出会った。
俺は、まんまとはめられた。
……まぁ、俺も新人だった。
知識も経験も足りなかった。
「冒険者って怖いな」と思った。
魔物より人間のほうが怖い時もある。
あれは、かなり勉強になった。』
クリフが眉をひそめる。
「……それは笑えないな」
ザノバが頷く。
「世の中には、そのような者もいるのですな」
パウロが腕を組む。
「ルディ……昔から変なところで苦労してたんだな」
アイシャが。
「でも、その後も一人で何とかしたんでしょう?」
シルフィがページを見る。
「……たぶん」
そして続きを読む。
『俺は、パーティーの調整も一人でやっていた。
金の計算。
依頼の管理。
今後の方針。
さらに、スペルド族についての誤解を少しでもなくすための活動も進めていた。
……今思えば、やりすぎだった。
普通に考えれば、何人かに仕事を分担すればよかった。
でも、俺は自分でやった。
結果――
オーバーワークだった。』
「……」
全員が沈黙したクリフが真顔になる。
「それは馬鹿だ」
ザノバも。
「完全に馬鹿ですな」
アイシャ。
「お兄ちゃんらしいです」
ノルン。
「……ちゃんと休めばいいのに」
パウロ。
「お前、昔からそういうところあるよな……」
シルフィは苦笑した。
「……ルディ、昔からだったんだ」
『しかも、俺が忙しすぎるから邪魔しないように気を遣ってくれた二人がいた。
ありがたいことだった 本当にありがたかった。
でも、その結果――
戦闘以外では、基本的に俺は置いてぼりを食らっていた。
……いや、待て。
これ、俺が悪いのか?
いや、俺が悪いな。
忙しくしていたの俺だし。
でも寂しかった。
かなり寂しかった。
戦闘になると普通に一緒なのに。
それ以外になると、俺だけ一人。
……なんだったんだ、あれ。』
「……」
ノルンが少し笑った。
「寂しかったんだ」
「そうみたいね」
シルフィも少しだけ笑った。
エリスは。
「……」
何も言わなかった。
◇
『◯月△日
さらに面倒なことが起きた。
パーティーメンバーの渡航費が足りなかった。
だから――
知り合いに頼んで密航させてもらった
……うん。
書いていても意味が分からない。
普通はそんなことしない。
でも、その時は仕方なかった。
その後、密航の原因になったルイジェルドさんの意向もあって、誘拐された子供を助けることになった。
助けた助けたのに――
聖獣の誘拐犯と間違えられた。
冤罪だった。
そして俺は、一人で一週間ほど拘束された。
(新入り{ギース}が来るんだけどな)
……一週間。
長かった本当に長かった。
しかも、見世物のように扱われて、水を使った尋問まで受けた。
あの時は、さすがに「俺、何か悪いことしたか?」と思った。
してない本当にしてなかった。
……たぶん。』
クリフが。
「いや最後の『たぶん』はなんだ!」
ザノバも真剣な顔で頷く。
「師匠、それは笑い事ではありませんぞ」
パウロは何も言えなかった。
ノルンは俯いた。
アイシャも顔を強張らせていた。
エリスの手が震えていた。
『仲間たちにも事情はあった。
仕方ないことだった。
……とはいえ。
後回しにされて、しばらく放置されたせいで、解放されるのも遅れた。
その結果、俺はほとんど一人で北聖と戦うことになった。
しかも雨期と重なった。
俺を投獄した獣族の集落で足止めまでされた。
……人生って、なんでこうなるんだろうな。
俺はもっと普通に冒険したかっただけなんだけど。』
「……」
パウロが目を伏せる。
「……それでも」
「こいつは一人でやったのか」
ザノバが。
「そうだったのでしょうな」
クリフが。
「……無茶苦茶だ」
エリスは何も言わなかった。
◇
そしてページをめくる。
そこから文章の雰囲気が少しだけ変わった。
『◯月△日
そして――
その後、パウロに殴られた。
ノルンとアイシャには拒絶された。
……まぁ。
あれは辛かった。
本当に辛かった。
俺は家族に会いたかった。
それだけだった。
でも、俺が何をしてきたのか。
何をしなかったのか。
それを全部説明することはできなかった。
だから、仕方ないと思うことにした。
……でも、やっぱりその時は辛かった。』
「……」
パウロの顔が完全に固まった。
「……俺」
声が出ない
ノルンは涙を浮かべていた。
「……ごめん」
アイシャも俯いた。
「……私も」
シルフィは何も言わずページを見つめていた。
『◯月△日
やがて、俺たちは魔大陸での旅を終えた。
そして、ルイジェルドさんとも別れることになった。
あの時は、本当に寂しかった。
一緒に旅をしていた仲間と別れるというのは、思っていた以上に辛かった。
その後、俺は今の状況について説明を受けた。
フィットア領のこと。
エリスの家族のこと。
これからどうするのか。
いろんな話を聞いた。
そして、その夜。
俺はエリスと一夜を過ごした。
俺にとって、あの時間は幸せだった。
だから――
翌朝、目を覚ました時。
エリスがいなかったことが、信じられなかった。
そこには置き手紙と、エリスの髪が残されていた。
俺は、それを見て思った。
捨てられたんだ、と。
その後のことは、あまり詳しく覚えていなかった。
頭の中が真っ白だった。
何を食べたのか。
どこを歩いたのか。
どうやって立ち上がったのか。
よく覚えていなかった。』
「…………」
エリスの手が止まった。
さっきまで日記を読んでいた時とは明らかに違っていた。
エリスは俯き、唇を固く結んでいた。
その横で、シルフィも顔を伏せていた。
「……ルディ……」
声は小さかった。
パウロは何も言わなかった。
ただ、眉間に深い皺を寄せ、日記を睨むように見つめていた。
リーリャは胸の前で手を握りしめていた。
ノルンは顔を上げられず、膝の上で両手を強く握っていた。
アイシャも、いつものような明るい表情は完全に消えていた。
ザノバは黙ったまま、重々しく息を吐いた。
クリフは眼鏡を押し上げたが、その表情は険しかった。
誰も、すぐには次のページを開こうとはしなかった。
しばらくして、エリスが震える指でページをめくった。
『その後、あるパーティー(カウンターアロー)に出会った。』
『コツコツそこらで頑張って売名していけば、ゼニスに届くんじゃないかと思っていた。
だから、俺は頑張った。
もちろん、嫌われることもあった。
それでも、ゼニスを探すために動き続けた。
そんな中で、ある日、パーティーメンバーのサラが行方不明になった。
サラはエリスによく似ていた。
俺は助けに行った。
そして、その時になって初めて気付いた。』
『サラは俺に惚れていた。』
『相手の気持ちに気付くのが遅すぎた。』
「…………」
ノルンの顔が曇った。
「……エリスに似ていた……」
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
エリスは何も言わなかった。
ただ、目を伏せたままだった。
シルフィも複雑そうな表情を浮かべていた。
悲しいのか、苦しいのか、それともルーデウスが当時どんな気持ちだったのか想像しているのか。
本人にも分からないような、そんな顔だった。
パウロが小さく息を吐いた。
「……ずっと引きずってたんだな」
誰も返事をしなかった。
『その後、俺はサラとデートをした。
買い物をして。
バーで酒を飲んで、いろいろな話をした。
その日は、サラはいつもより距離が近かった。
俺はそのままサラを自分の部屋に招いた。
そして、一線を越えようと思った。
……でも、心も身体も、うまくついてこなかった。
そう勃たなかったのだ。
サラには幻滅された。
きつい言葉を残されて、俺は一人になった。
メンタルはボロボロだった。
人生で一番落ち込んだ瞬間だった。
エリスとの別れ、サラとの出来事、ED様々なことが重なって正直死んでもおかしくなかった。』
「…………」
今度こそ、誰も言葉を発しなかった。
シルフィの顔から、血の気が引いていた。
目には涙が浮かんでいたが、それを拭おうともせず、ただ日記を見つめていた。
「……そんなに……」
シルフィの声が震えた。
「そんなに辛かったんだ……」
リーリャは目を閉じた。
ノルンは俯いたまま、肩を小さく震わせていた。
アイシャは唇を噛み、何か言おうとしていた。
けれど、言葉が出てこなかった。
パウロは拳を握っていた。
自分が知らなかった息子の過去を、今になって初めて知っている。
そんな表情だった。
クリフは眼鏡の奥の目を伏せていた。
ザノバもいつもの豪快な表情を完全に消していた。
そして、エリス。
エリスは日記を持ったまま、じっと動かなかった。
「…………」
頬を、一筋の涙が流れた。
それでもエリスは拭かなかった。
『◯月△日
サラとの一件があった後の夜、俺はバーで酒を飲んでいた。
そこに現れたのは、散々俺を馬鹿にしてきたゾルダートだった。
俺は馬乗りになってゾルダートに殴りかかって、いろんな言葉を浴びせた。
今思えば、かなり酷いことを言っていた。
その後、俺たちは和解した。
俺はゾルダートに、いろいろなことを打ち明けた。
ゾルダートは、俺が立ち直るためにどうすればいいのか、いろいろ教えてくれた。
でも、すぐに効果が出たわけではなかった。
それくらい、俺は参っていた。』
パウロが顔を上げた。
「……ゾルダート」
その名前を聞いた瞬間、クリフも複雑そうな顔をした。
「こいつ……ルーデウスを放っておかなかったのか」
ザノバは静かに頷いた。
「……良い男ですな」
シルフィは涙を拭いながら、続きを読んだ。
『翌朝、酔っ払っていた俺は、サラを侮辱するようなことを言ってしまった。
ちょうどその時、俺に謝ろうとしていたサラとばったり会った。
そして、ビンタされた。
……当然だった。その後、ゾルダートの誘いもあって、俺はその街を離れることになった。ゾルダートと、その仲間たちと一緒に戦った。
戦っているうちに、少しずつ気持ちも落ち着いていった。 そんな時、俺を探していたエリナリーゼさんが来た。
そして、少ししてから、魔法大学から手紙が届いた。
俺はエリナリーゼさんと一緒に、ラノア魔法大学に入学することになった。』
「…………」
長い沈黙。
シルフィは目元を拭った。
ノルンもまだ俯いたままだった。
アイシャは小さく息を吐き、ようやく顔を上げた。
リーリャは胸に手を当てていた。
パウロは深く息を吐き、
「……知らなかったな」
とだけ呟いた。
クリフは日記を見つめたまま、静かに言った。
「俺たちが知っているルーデウスになるまでにも……こんなことがあったんだな」
ザノバは何も言わなかった。
ただ、日記のページをじっと見つめていた。
「……もう」
小さく呟く。
「……ルディの馬鹿」
そして日記はまだ続いていた。
『今日はここまでにしよう。
明日、続きを書こう。』
シルフィはそこでページを閉じた。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
パウロは拳を握っていた。
ノルンは涙を拭っていた。
アイシャも俯いていた。
ザノバは日記をじっと見つめていた。
クリフは深く息を吐いた。
エリスは目を閉じていた。
そしてシルフィは日記を胸に抱いた。
「……ルディ」
返事はない。
それでも今までとは少し違った。
そこには確かにルーデウスの声が残っていた。
完璧な英雄の声ではない。
失敗して。
悩んで。
笑って。
怒って。
泣いて。
くだらないことで悩んで。
それでも前へ進もうとした。
私たちが知らない一人の人間としてのルーデウスの声だった。
シルフィは涙を拭った。
「……明日も」
小さく呟く。
「続きを読もう」
その言葉に誰も反対しなかった。
エリスが静かに頷く。
「……うん」
ノルンも。
「……読みたい」
アイシャも。
「私も」
パウロは少しだけ笑った。
「……ああ」
ザノバもクリフも頷いた。
机の上にはまだ分厚い日記が残っていた。
そしてページの最後には――
『明日、また続きを書こう。』
そう書かれていた。