迷宮編ifルート   作:宵ノ旅人

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届かなかった言葉 #16

【翌日】

 

翌日。

日記を読んだ部屋には、まだ重たい空気が残っていた。

誰も、昨日読んだ言葉から抜け出せていなかった。

特にノルンは、ずっと俯いたままだった。

自分が兄に言った言葉。

それが最後の旅へ向かわせるきっかけの一つになったこと。

そして――兄は、その言葉を責めるどころか、

 

『ありがとう、ノルン。』

 

と書き残していた。

その時だった。

コンコン。

玄関を叩く音がした。

 

「……誰だろう」

 

シルフィが立ち上がる。

玄関へ向かい、扉を開ける。

そこに立っていたのは、一人の男だった。

大柄で、少し乱れた髪。

どこか疲れたような顔をしている。

 

「ああ、悪い」

 

男は頭を掻いた。

少し間を置いて。

 

「俺はゾルダートだ」

 

「……ゾルダート?」

 

その名前を聞いた瞬間。

後ろにいたクリフが反応した。

 

「ゾルダート……?」

 

ノルンも顔を上げる。

アイシャもパウロもそしてザノバも。

 

「日記に……」

 

ノルンが小さく呟いた。

 

「兄さんの日記に出てきた……」

 

ゾルダートは、その言葉を聞いて目を丸くした。

 

「日記?」

 

「はい」

 

シルフィが答える。

 

「ルディの日記に、あなたの名前がありました」

 

「……そうか」

 

ゾルダートは少しだけ黙った。

そして。

 

「なるほどな」

 

小さく息を吐いた。

 

「じゃあ、話は早い」

 

「今日は……どうして?」

 

シルフィが尋ねる。

ゾルダートは少し迷ってから答えた。

 

「泥沼の墓を見に来た」

 

「……」

 

ゾルダートが立ち上がろうとした時だった。

 

「……待ってください」

 

シルフィが声をかける。

ゾルダートが振り返る。

 

「ルディのことを……」

 

少し迷ってから、シルフィは尋ねた。

 

「あなたは、なんて呼んでいたんですか?」

 

ゾルダートは一瞬だけ黙った。

そして。

 

「……泥沼」

 

「…………」

 

全員が固まった。

 

「泥沼?」

 

ノルンが聞き返す。

 

「ルーデウスのことを……泥沼って呼んでたんですか?」

 

「ああ」

 

ゾルダートは何でもないように答える。

 

「俺たちの間じゃ、それがあいつの呼び名だった」

 

「……どうして?」

 

アイシャが尋ねる。

ゾルダートは少し考える。

 

「どうしてって言われてもな」

 

頭を掻く。

「泥沼の得意技でな、よく使ってたからそう呼んだ」

 

「あとまあ……泥の中を這い回って、何度転んでも出てくるからだよ」

 

「…………」

 

「魔物相手でも、人間相手でも、人生でもな」

 

ゾルダートは苦笑する。

 

「何かにハマったら、とことん泥まみれになる」

だから泥沼

……ひでえ呼び名だろ?」

 

少し笑う。

 

「でも、本人も嫌がってなかった」

 

シルフィが日記を見る。

そこには、確かに自分たちが知らないルーデウスがいた。

 

「泥沼……」

 

ノルンが小さく呟く。

 

「兄さんが……そんな呼ばれ方をしてたんだ」

 

「ああ」

 

「……大学にいた頃の兄さんしか知らない私には、想像できません」

 

「そりゃそうだ」

 

ゾルダートが言う。

 

「お前らが知ってるルーデウスと、俺が知ってる泥沼は、たぶん別人みたいに見える」

 

「でも」

 

ゾルダートは少しだけ笑った。

 

「同じ奴だ」

 

その言葉に、シルフィが顔を上げる。

 

「……同じ」

 

「ああ」

 

ゾルダートは椅子に座り直した。

 

「泥沼時代のあいつはな」

 

少し遠くを見るような目になる。

 

「本当に酷かった」

 

「……」

 

「失敗して、落ち込んで、酒に逃げて」

 

「……」

 

「それでも次の日には、何事もなかったみたいな顔をしてた」

 

「…………」

 

「でもな」

 

ゾルダートの声が少し低くなる。

 

「何事もなかったわけじゃねえんだよ」

 

シルフィの目が揺れる。

 

「ずっと引きずってた」

 

「……」

 

「ずっと、自分の中でぐちゃぐちゃにしてた」

 

ゾルダートは苦笑する。

 

「だから泥沼なんだよ」

 

「自分から泥の中に入っていって」

 

「自分で抜けようとして」

 

「また転んで」

 

「それでも、這い上がってくる」

 

誰も口を挟めなかった。

 

「……あいつは強かったよ」

 

ゾルダートが言う。

 

「でも、最初から強かったわけじゃねえ」

 

「弱かった」

 

「情けなかった」

 

「面倒くさかった」

 

そして。

 

「泣き虫だった」

 

ノルンが顔を上げる。

 

「……兄さんが?」

 

「ああ」

 

「でも……」

 

ノルンは戸惑う。

 

「兄さんが泣いているところなんて……」

 

「見たことないか?」

 

「……はい」

 

アイシャも頷く。

 

「私もありません」

 

パウロも黙っている。

リーリャもシルフィもザノバもクリフも誰も答えられない。

ゾルダートは、それを見て少しだけ苦い顔をした。

 

「……そうか」

 

そして、小さく呟く。

 

「やっぱりな」

 

「何がですか?」

 

シルフィが聞く。

ゾルダートはしばらく黙った。

そして。

 

「お前ら」

 

ゆっくり口を開く。

 

「本当に、泥沼のこと知らねえんだな」

 

その言葉がまた全員の胸に刺さった。

 

「……」

 

ゾルダートは少しだけ後悔したような顔をする。

 

だがもう一度、日記を見る。

 

「まあ、仕方ねえか」

 

「お前らが知ってるのは――」

 

少しだけ笑う。

 

「泥沼が泥を抜けた後の姿なんだからな」

 

シルフィは、日記を抱きしめた。

 

「……泥沼」

 

その呼び方は不思議だった。

今まで聞いたことのない、ルーデウスの名前。

でもそれは、日記の中にいたルーデウスと

どこか重なっていた。

完璧じゃない強くもない。

迷って転んでそれでも前に進もうとした。

シルフィは小さく笑った。

 

涙を流しながら。

 

「……ルディらしい名前かもしれませんね」

 

ゾルダートもほんの少しだけ笑った。

 

「だろ?」

 

けれどその笑顔の奥には泥沼と呼ばれていた頃のルーデウスを知る者にしか分からない、長い時間の記憶が残っていた。

 

「あと、花でも置いて、水でもやって……」

 

照れくさそうに頭を掻く。

 

「まあ、そんなところだ」

 

それだけ言うと帰ろうとした。

だがノルンの姿が目に入った。

ボロボロに泣いた後の顔。

目元は赤く腫れている。

ゾルダートは足を止めた。

 

「……あとお前」

 

ノルンを見る。

 

「……はい」

 

「泥沼の妹か?」

 

ノルンが頷く。

 

「……はい」

 

ゾルダートはしばらく黙った。

そして――

ほんの一瞬だけノルンの姿に、昔のルーデウスが重なった。

酒場で何もかも上手くいかなくて。

それでも平気な顔をしようとしていた男。

ゾルダートは、苦笑する。

 

「……本当に泣き虫だよな、お前」

 

「……え?」

 

ノルンが顔を上げる。

ゾルダートは、昔ルーデウスに向けたような調子で言う。

 

「そんなに泣くなよ」

 

少しだけ笑って。

 

「……まあ、泣きたい時は泣けばいいけどな」

 

ノルンの目から、また涙が落ちた。

 

「……ごめんなさい」

 

「なんで謝るんだよ」

 

「兄さんに……」

 

言葉が詰まる。

 

「私……兄さんに、行けって……」

 

ゾルダートの表情から笑みが消えた。

 

「……ああ」

 

そこでゾルダートは、何とも言えない顔をした。

気まずかった。

やるせなかった。

目の前の少女は、泣いている。

そして、その兄はもういない。

ゾルダートは、ぽつりと呟いた。

 

「……なんで泣き言くらい、言わせてやれなかったんだよ」

 

「…………」

 

全員が止まった。

ゾルダート自身も。

 

「あ」

 

しまった、という顔をした。

だが、もう遅かった。

その言葉は全員の胸に突き刺さっていた。

シルフィが俯く。

パウロは目を閉じる。

リーリャは胸元で手を握る。

アイシャは唇を噛む。

ノルンは涙を止められない。

ザノバもクリフも何も言えなかった。

ゾルダートは頭を掻いた。

 

「……悪い」

 

「いや」

 

パウロが低く言う。

 

「……お前の言う通りだ」

 

ゾルダートは首を振った。

 

「そういう意味じゃねえ」

 

「……」

 

「お前らを責めてるわけじゃない」

 

少し間を置く。

 

「俺だって、ルーデウスが何を考えてたか全部知ってたわけじゃねえ」

 

そしてゾルダートはリビングを見渡した。

そこにいる全員が、ルーデウスの家族や仲間だった。

 

「……ただな」

 

ゾルダートが言う。

 

「何度も言うが俺の知ってるルーデウスは――」

 

椅子を引いて座る。

 

「そんなに立派な奴じゃなかった」

 

シルフィが顔を上げた。

 

「……え?」

 

「天才魔術師」

 

ゾルダートは指を一本立てる。

 

「家族思い」

 

もう一本。

 

「迷宮攻略」

 

さらに一本。

 

「立派な夫」

 

鼻で笑う。

 

「……誰の話だよ」

 

「ゾルダートさん」

 

シルフィの声が少し低くなる。

 

「ルディを悪く言うなら――」

 

「悪口じゃねえよ」

 

ゾルダートは遮った。

 

「俺の知ってるルーデウスの話だ」

 

そして、少し笑う。

 

「もっと、みっともねえ奴だった」

 

「……」

 

「酒場で潰れる」

 

「……」

 

「意地を張る」

 

「……」

 

「失敗する」

 

「……」

 

「自分は平気ですって顔する」

 

私が世界で一番可哀想な顔して」

 

ゾルダートが机を指で軽く叩く。

 

「全然平気じゃねえ」

 

シルフィの手が止まった。

 

「……」

 

「面倒くせえ奴だったよ」

 

ゾルダートは笑った。

 

「でも、人間臭かった」

 

ノルンが顔を上げる。

 

「お兄さんが……そんなに?」

 

「おう」

 

ゾルダートは即答した。

 

「そんな奴だよ」

 

そして、周囲を見る。

 

「お前ら」

 

全員がゾルダートを見る。

 

「ルーデウスを神様にでもするつもりか?」

 

ザノバの眉が動く。

 

「師匠を愚弄するのであれば――」

 

「だから!」

 

ゾルダートが机を叩いた。

 

「それだよ!」

 

全員が黙る。

 

「師匠」

 

ザノバを見る。

 

「兄」

 

ノルンを見る。

 

「夫」

 

シルフィを見る。

 

「親友」

 

クリフを見る。

 

「息子」

 

パウロを見る。

 

そして。

 

「昔の仲間」

 

エリスを見る。

エリスは何も言わなかった。

 

ゾルダートは一人ずつ見ていった。

 

「お前ら、ルーデウスをそういう言葉でしか見てねえだろ」

 

「……」

 

「俺が知ってるのは、もっと普通のルーデウスだ」

 

声が少しずつ静かになる。

 

「怖がる」

 

「失敗する」

 

「落ち込む」

 

「意地を張る」

 

「それでも次の日には、また何かやろうとする」

 

ゾルダートは笑った。

 

「そういう奴だった」

 

そして。

 

「ルーデウスは、ルーデウスだろ」

 

誰も答えなかった。

 

「勝手に立派な奴に作り変えて」

 

「……」

 

「勝手に比べて」

 

「……」

 

「勝手に自分を責めてんじゃねえよ」

 

静寂。

その言葉は、誰かを責めるためのものではなかった。

むしろルーデウスを失った人間全員に向けられた言葉だった。

シルフィは、ゆっくり日記を見る。

そこには確かに英雄はいなかった。

完璧な夫も

無敵の魔術師も

何でも解決できる兄も。

ただ怖がって。

悩んで。

失敗して。

それでも家族を大切にしようとしていた男がいた。

 

「……そうだったんだ」

 

シルフィの目から涙が落ちる。

 

「ルディも……」

 

声が震える。

 

「怖かったんだ」

 

ゾルダートは答えなかった。

ただ、静かに頷いた。

 

「……ああ」

 

それだけだった。

しばらくしてゾルダートは立ち上がった。

 

「じゃあ、俺は墓に行ってくる」

 

「……ゾルダートさん」

 

ノルンが呼び止める。

ゾルダートが振り返る。

 

「兄さんのこと……」

 

ノルンは言葉を探す。

 

「……知っててくれて、ありがとうございます」

 

ゾルダートは少し驚いた顔をした。

そして。

 

「礼を言うのは、こっちだ」

 

そう言って、家を出ていった。

ゾルダートが去った後も誰もすぐには話せなかった。

エリスが日記を見る。

 

「……泥沼」

 

その言葉をもう一度呟く。

 

「私が知ってるルディも……」

 

少し笑いそうになって。

 

でも、笑えなかった。

 

「確かに、そうだったかもしれない」

 

シルフィも日記を抱きしめる。

 

「……私たち」

 

「ルディのことを、立派にしすぎてたのかもしれないね」

 

パウロは何も言わない。

ただ初めて息子のことを考える時に、

 

「立派な息子」ではなく。

 

「泥沼」と呼ばれた一人の男を思い浮かべた。

失敗して。

悩んで。

強がって。

それでも家族を大切にしていた。

昨日まで日記を読んでいた自分たちは、ルーデウスを知っているつもりだった。

でもまだ知らないことがあった。

日記に書かれていないルーデウス。

酒場で潰れたルーデウス。

強がっていたルーデウス。

誰かに弱音を吐きたかったルーデウス。

そして泣き言を言うことすら、上手くできなかったルーデウス。

シルフィは日記を抱きしめた。

 

「……私たち」

 

小さく呟く。

 

「ルディのこと、何も知らなかったのかもしれないね」

 

パウロは答えなかった。

ただ、目を伏せた。

ノルンも。

アイシャも。

リーリャも。

ザノバも。

クリフも。

エリスも。

誰も否定できなかった。

そしてその日シルフィはルーシーのところへ行った。

いつものように眠っている娘を見つめる。

少し迷ってから。

 

「ルーシー」

 

静かに話しかける。

 

「今日はね、お父さんの話をしようか」

 

英雄の話ではない。

すごい魔術師の話でもない。

 

「お父さんはね」

 

シルフィは少し笑った。

 

「ちょっと変で」

 

「すぐ悩んで」

 

「たまに面倒くさくて」

 

それでも。

 

「すごく頑張ってたんだよ」

 

ルーシーは眠ったまま。

シルフィは、その小さな手を握る。

 

「怖いこともいっぱいあったんだって」

 

「それでも、家族のところに帰りたかったんだって」

 

涙が一粒落ちる。

 

「……本当に、帰ってきてほしかったな」

 

それでも今度は、涙だけでは終わらなかった。

シルフィはルーシーに、少しずつ話した。

ルーデウスが失敗した話。

笑った話。

困った話。

家族を心配していた話。

そして最後まで帰ろうとしていた話。

その瞬間涙が溢れてルーシーの頬に落ちる

数年前の記憶が、ふっと蘇った。

まだルーデウスが生きていた頃。

森の中で二人きりで話したこと。

互いの気持ちを伝え合ったこと。

あの時のルーデウスの顔。

照れながら、それでも真っ直ぐに自分を見ていた。

 

「……ルディ」

 

シルフィは小さく呟いた。

 

「…………」

 

シルフィは慌てて顔を伏せた。

 

「ごめん……」

 

誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。

そして。

 

「……ちょっと、部屋に行ってくるね」

 

そう言って、シルフィは立ち上がった。

早足で廊下を進む。

やがて。

 

バタン。

 

扉が閉まる音。

そして――

カチャ。

鍵がかかる音。

 

「…………」

 

リビングに残された全員が、黙って扉を見つめる。

数秒後。

壁越しに。

 

「……うっ……」

 

小さな声が聞こえた。

そして。

 

「……ルディ……」

 

泣き声。

押し殺そうとしているのに、どうしても抑えきれない泣き声が静かな家の中に響いていた。

 

誰も、扉を開けようとはしなかった。

 

ただそこにいる全員が、分かっていた。

シルフィは今数年前の森で笑っていたルーデウスを思い出している。

そして――もう二度と、その場所には戻れないことも。

届かなかった言葉を今もまだ、胸の中に抱えていることも。

ルーデウスが死んでから長い時間が経っていた。

忘れたわけではない。

乗り越えたわけでもない。

傷が消えたわけでもない。

ただ少しずつ。

ルーデウスを「死んだ人」だけとしてではなく、

「一緒に生きていた人」として思い出せるようになっていった。

 

その後。

そして、グレイラット家では後になって、何度も同じ言葉が使われるようになった。

 

「ルディなら、どうするかな?」

 

すると誰かが少し考えてから答える。

 

「……多分、一回失敗する」

 

「ふふっ」

 

「それで?」

 

「またやるんじゃない?」

 

小さな笑い声その笑い声を聞きながら。

シルフィは、ほんの少しだけ笑った。

 

「……うん」

 

ルーデウスは、もういない。

けれどルーデウスが残したものは、まだここにある。

日記に書かれた言葉も。

誰かの記憶も。

家族の中に残った癖も。

そして何気ない会話の中に残る、ルーデウスらしさも。

だからグレイラット家は、少しずつ前へ進んでいく。

忘れないまま。

悲しみを抱えたまま。

それでも、生きていく。

――それがルーデウスが最後まで望んでいた、

「帰る場所」の続きだった。

 

 

ハッピーエンド√完

 

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