そのまま、いくつかの事務的な確認事項を交わしているうちに、窓の外に広がる人工の空は夕暮れの琥珀色へと染まっていった。
リサは爪先で不機嫌そうに床を叩いていたが、室内の電子時計が定時のチャイムを鳴らした瞬間、わざとらしく大きく伸びをした。
「はい、終わり終わり。今日の仕事はここまで!」
リサは椅子の背もたれに預けていた身体を勢いよく起こすと、グレージュの長髪を乱暴に手ぐしで整えた。そして、まだ部屋の隅で彫刻のように佇んでいた俺を、顎でしゃくるようにして見据える。
「今日の業務は終わったから。あんた、買い物に付き合って」
「……買い物だと?」
定時を過ぎた。社長であるラグロワールとの契約を厳密に履行するなら、ここから先は俺の自由時間のはずだ。そもそも、この最上層『聖層』から一歩も出ずに厳重に匿われているはずの聖女が、街へ買い物に出かけるなど、護衛の身としては厄介極まりないリスクでしかない。
「おい、お前は自分が置かれている状況を分かって――」
「分かってるわよ。他社のネズミだかテロリストだかが私の首を狙ってるんでしょ? だから、あんたっていう『影の護衛』をパパが雇ったんじゃない」
リサは俺の言葉を小馬鹿にするように遮ると、不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。グレーと白の清廉な修道服風のアウター。その胸元を覆うケープを、今度は見せつけるように綺麗に整え直していく。
「大衆が求めているのは、神聖で完璧な聖女の姿。でもね、それを維持する裏で、私がどんな『毒』を溜め込んでるか、あんたには想像もつかないでしょうね。……これ以上この息苦しい檻にいたら、本番のステージの前に私が狂うわよ。それとも何? 優秀な護衛サマは、私を檻の中に縛り付けておくことしかできない無能なの?」
挑発的な視線。誰にも期待せず、自分を偽物と自虐しながらも、大衆を欺く聖女であり続けるために、彼女は彼女なりのギリギリのバランスで精神を保っている。それがこの強気な我が儘なのだと、静かに察知する。
ため息を吐き出す代わりに、俺はポケットの中でナイフの冷たい感触を確かめた。
「……勝手にしろ。ただし、俺の指示には絶対に従え」
「ふん。奴隷の分際で偉そうに」
リサは完璧な『光の聖女』の微笑みをその面に張り付け、お上品な足取りで歩き出した。その一歩後ろを、俺は音もなく追う。
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耳元に仕込んだ通信機のスイッチを切り、ポケットに手を突っ込んだ。
画面の向こうにいた潔白なスーツの主、ラグロワールへの定期報告は、遅滞なく完了している。リサが定時後に外出を要求したこと、そしてその護衛ルート。社長は氷のように冷静な声で『好きにさせろ。伝説が完成するその時まで、傷一つつけずに連れ戻せ』とだけ命じて通信を切った。実の娘の我が儘を、あの狂信的な父親は単なる「商品のメンテナンス」程度にしか捉えていない。反吐が出るほどの徹底ぶりだ。
「準備できた?早く行くわよ」
ひょっこりと、ドアの隙間からグレージュの髪を揺らした頭が覗いた。
変装を終えて私服に着替えたリサの姿が、そこにあった。先ほどまでの、肌の露出を徹底的に拒んでいたグレーと白の修道服風のアウターやケープは影も形もない。動きやすさを重視したストリート感のあるカジュアルな白いシャツと黒の長ズボンの私服に身を包み、大きめのキャスケット帽を深く被っている。
その姿は最上層にいる贅沢に慣れた令嬢とも違い、かといってスラムの煤けた少女とも違う。有象無象の雑踏に紛れればどこにでもいるような、少しお洒落で、そして誰もが思わず振り返るほどに整った顔立ちをした、年相応の綺麗な少女そのものだった。
俺は部屋の電子ロックを解除し、彼女に続いて廊下を歩きながら、かねてからの疑問を口にした。
「……一つ、尋ねたい。なぜ、わざわざ下層に近い中層区まで買い物に行く。
『アイギス』。企業に属さず、都市アルカディアの政府が組織する『国家の絶対正義』を掲げたエリート集団だ。『星蝕』の力や『星脈者』を厳重に管理し、表向きは治安維持のために国民から広く慕われている。ヘリオス社のような巨大企業すら監視対象にするほどの権力を持つその最高峰の正規軍が、この上層区には五万と張り付いているのだ。
だが、その『絶対正義』の裏側を、スラム出身の俺はよく知っている。
彼らは聖層(上層区)の防衛と上流階級の護衛に戦力のほとんどを費やし、特権階級だけが甘い汁を吸えるように檻を固めているに過ぎない。第2〜第4セクターの中層区には最低限の戦力しか配備されておらず、俺が這い出てきた第5セクター『外縁防壁区』に至っては、もはや企業や裏社会に買収された汚職警備員しか残っていないのが、この都市の剥き出しの闇だった。
治安が上層区中層区へわざわざ降りるのは、護衛としては自ら戦力の手薄な地帯へ飛び込むようなものだ。そう告げた俺を、リサは帽子を少し持ち上げ、冷ややかなグレーの瞳で振り返った。そして、心底から忌々しそうに唇を尖らせる。
「はあ? あんた、何も分かってないわね。上層区に誰がいると思ってるのよ。ヘリオスの大株主、他社のお得意先、パパの顔色を窺う政治家……右を向いても左を向いても、そんな奴らばっかりじゃない」
リサは歩調を早め、小さく拳を握りしめながら、普段は大衆の誰もが聞くことのない『擦れた本音』を吐き散らした。
「そんな場所じゃ、OFFの時でも『完璧な聖女サマ』でいなきゃいけないの。せっかくのプライベートなのに、お偉いさんたちにペコペコ媚びへつらって、裏では私の価値を値踏みするみたいにジロジロ見てくる……あのキモイ視線を向けられるのは、もう真っ平ごめんなのよ。あいつらの前で笑うのは、ステージの上だけで十分!…なに、その顔? あんた、パパに雇われた護衛でしょ? だったら、これくらいの要望、涼しい顔で乗り越えてみせなさいよ。それとも、私のわがまま一つ叶えられないほど無能なのかしら?」
吐き捨てるような、剥き出しの言葉。
大人たちの意地汚い真実を知り尽くし、誰にも期待しないと決めている彼女にとって、上層区の徹底した治安の上に築き上げられた美しい街並みは、四方八方を欲望の目で見張られた巨大なガラスの檻に過ぎないのだろう。中層区の雑踏のほうが、彼女にとってはまだ、ただの「偽物の少女」として呼吸ができる場所なのだ。
俺はフードの奥で、何も映さない黒い瞳を少しだけ和らげた。
「……そうか。お前もお前で、随分と苦労しているんだな」
ほんの少しだけ、本物の同情を含んだ。
スラムで大人たちに搾取され続け、裏社会の泥水を啜ってきた俺の過去と、先天的な能力者ゆえに企業の最高の商品として祭り上げられ、自由を奪われてきたリサの現在。形は違えど、俺たちは同じ「大人たちの身勝手な欲望の被害者」だった。
「ふん……何よそれ。同情のつもり? 余計なお世話よ。奴隷の分際で、生意気ね」
リサは予想外の言葉を掛けられたことに戸惑ったのか、グレーの瞳を泳がせ、ふいっと顔を逸らして足早にエレベーターへと向かった。
二人を乗せたエレベーターは、アイギスが守護する人工の光の聖層を離れ、不夜城のごとき中層区の雑踏へと向かって、深く、深く降下していった。
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上層区の張り詰めた静寂が嘘のように、第3セクター『居住・生産区』の商業エリアは、過剰なネオンと有象無象の熱気に満ち溢れていた。
行き交う人々、鳴り響く広告のホログラム、屋台から漂う油の臭い。その雑踏を、キャスケット帽を深く被ったリサは水得た魚のように楽しげに突き進んでいく。
だが、その背後を歩く俺の姿は、裏社会の始末屋としての威厳など微塵もない惨めなものだった。
右腕にはシックなデザインの高級バッグやアクセサリーの詰まった小箱の山、左腕には数着の私服が詰め込まれた大きな買い物袋。両手、両肩、指の先までが、リサの物欲の戦果によって完全に埋め尽くされている。今の俺の格好は、今やただの「荷物持ち」のそれだった。
「……おい、リサ。いい加減にしろ」
俺は歩調を緩め、地を這うような声で不満をぶつけた。さっきから俺の髪が、抱えた荷物に擦れて鬱陶しい。
「俺は荷物持ちを契約した覚えはない。この状態では周囲の警戒はおろか、万が一の奇襲があった際にナイフを抜く初動がコンマ数秒遅れる。格闘戦に移行したとしても、重心のバランスが悪すぎて素早く動けん。お前の安全を最小限の不確定要素で確保するためにも、一度ヘリオス社のセーフハウスにこれらを格納するのが合理的だ。というか、そうしろ」
立て板に水のごとく、
「ふーん、そんな泣き言言うんだ。パパが直々に選んだ護衛だから、もっと骨があると思ってたのに」
リサはくるりとこちらを振り返ると、組んだ両手を腰に当て、傲岸不遜な瞳で俺を小馬鹿にするように見下ろした。
「両手が塞がってようが何だろうが、護衛対象の命と、ついでに私のわがままを両方守りきるのが、あんたに与えられた『依頼』でしょ? ほら、シャキッと歩く!」
「お前な……。万が一お前が死んだら、俺は社長から報酬を受け取れなくなる。俺にとっては死活問題だ」
「あら、心配するところが自分の懐なわけ? ほんと、裏社会の人間って現金で現実的で夢がないのね。」
リサは呆れたように肩をすくめてみせるが、その表情は心なしか活き活きとしている。
「それとも何? 荷物をちょっと抱えたくらいで私を守れなくなるほど、あんたの腕ってナマクラなわけ?」
「……ナマクラかどうかは、敵の首を撥ねる時に証明してやる。……それと、その無駄に高いバッグの角が俺の脇腹に刺さっていて非常に不愉快だ」
「デザインを褒めなさいよ、デザインを。あんたに買ってあげるわけじゃないんだから、文句言わないの」
完璧なまでの挑発。スラムの能力者をハメ殺してきた俺の「牙」を、この十七歳の少女は、企業の最高の商品として培ってきた強気な口調だけで綺麗に受け流してみせる。
いつもは大人たちの意地汚い視線に晒され、自分を「偽物の聖女」と自虐している彼女が、今はその呪縛を忘れたのか、ただの「生意気な女の子」として笑っている。
「まっ、口だけは達者のようね。――あ、見て! あっちのショップのバッグ、良いデザインじゃない。今度はあの店を見るわよ。遅れないでね、リベル!」
「おい、待て。そっちは人混みが多すぎて射線が――」
俺の制止など、彼女の耳には届かない。グレージュの髪を軽やかに揺らし、リサは弾んだ声で再び雑踏へと駆け出していく。
「ちょっと、リベル! 遅い! さっさとその無駄に長い脚を動かしなさいよ」
「……誰のせいで機動力が落ちていると思っている」
「私のわがままに付き合える栄誉を噛み締めてる最中、ってことでしょ?」
振り返りざまに不敵に笑うリサに、俺はそれ以上言い返すのを諦めた。大量の買い物袋を揺らしながら、再びため息を噛み殺して彼女の影を追う。
アイギスの警備が最低限しか届かないこの中層区の闇で、いつどこからライバル企業のネズミが牙を剥くか分からない。両手を塞がれた俺は、リサの背中を見失わないよう、周囲の有象無象の『殺気』の網をより一層鋭く張り巡らせるのだった。
投稿遅れました。