蒸気の絆、永遠の日常 作:匿名希望
新緑が芽吹く荒野を抜け、ベルとルシアの足取りは、かつて人類の文明が最高潮に達していた「旧・霊導蒸気都市圏」の深部へと向かっていた。
ふたりの旅の目的は、日用品の調達だけではない。
ルシアが背負う一族の血筋のルーツを辿り、そしてベルにとっては、自らの内部コアに刻まれた失われた歴史の断片を回収するための「遺構巡り」でもあった。
最初の目的地は、大崩壊の波を免れ、深い森林のなかに眠る「緑の回廊都市・エルミニア」の廃墟だった。
幾重にも絡みつく蔦や苔をかき分け、巨大なアトリエの扉を押し開けると、そこにはかつてこの街で暮らしていた三代目のお嬢様・エレノアの足跡がそのまま残されていた。
窓から差し込む木漏れ日が、埃の舞う空間を神聖な光芒で満たしている。
「わぁ……すごい。お部屋の中に、本物の木が生えてる……」
ルシアが息を呑み、壁一面に掛けられた絵画の数々に駆け寄る。
そこには、色褪せたカンバスの上で微笑む歴代のお嬢様たちの姿が描かれていた。
初代クラリスの凛とした横顔、やんちゃに歯車を掲げるフィオナ、そして、柔らかな筆致で描かれた若い頃のエレノア自身の自画像。
その絵画の端に、ひっそりと、しかし精緻に描かれている小さな影があった。
――白磁のドレスを纏い、燭台を持って静かに控える、少女型自動人形の姿。
「これ……ベルだ」
ルシアが振り返り、驚きと愛おしさが入り混じった瞳を向ける。
ベルは静かに歩み寄り、絵の前に立ち止まった。内部の記憶回路がかすかな熱を帯び、数十年前の記憶が鮮明に引き出される。
「はい。エレノア様は、私が夜な夜なこのアトリエで自分の関節のメンテナンスをしている姿を好んで描かれていました。
『貴女の姿には、人間にはない永遠の祈りが宿っているから』と、そう仰りながら」
ベルが白磁の指先でカンバスの縁に触れると、何十年も前にエレノアが使っていたパレットや絵の具の匂いが、不思議と蘇るような気がした。
人間は老い、朽ちて、土に還っていく。
しかし、描かれた絵画や、それを慈しむ自動人形の記憶のなかで、彼女たちは決して色褪せることはない。
アトリエを後にしたふたりは、さらに都市の最深部、かつての巨大中央プラントの跡地へと足を踏み入れた。
そこは崩落した高架橋が幾何学的なアーチを描き、底の見えない地下水路から微かな蒸気が立ち込める、厳かな空間だった。
「ねえベル。おばあ様や、そのまたご先祖様たちも、この景色を見たのかな」
ルシアがベルの手をギュッと握りしめる。その手の温もりが、ベルの真鍮の骨組みを通してコアへと伝わる。
「ええ。この場所は、この街の心臓部でした。
初代クラリス様が私に新しいドレスを仕立ててくださった日も、フィオナ様と初めてこの高架下で気圧計の実験をした日も……すべてはこの空の下にありました」
ベルは足を止め、青く輝くコアの光を少しだけ強めた。
かつては恐怖と絶望の象徴だった「崩壊した世界」は、ルシアと共に歩く今、数世代にわたる人々の営みと想いが折り重なる、美しい記憶のミュージアムへと変わっていた。
「私たちは、過去の残りカスを拾い集めているだけではないのですね」
ルシアが空を見上げ、ふっと笑う。
その横顔には、かつての孤児としての頼りなさは微塵もなく、未来を切り拓く誇り高い一族の血脈が確かに宿っていた。
「はい、ルシア様。私たちは歴史の終わりではなく、そこから紡がれる新しい歯車の、最初の一歩に立っているのです」
カチリ、と心地よい双重奏のギア音が、緑に包まれた廃墟の静寂に響く。
失われた都市の歴史を抱きしめながら、少女型自動人形と最後のお嬢様は、手をつないで次の地平線へと歩みを進めていった。