蒸気の絆、永遠の日常 作:匿名希望
灰色の霧に包まれた廃墟のなかで、静かに立ち止まったベルの視覚センサーが、ふと不安定なノイズを弾いた。
内部の頭脳回路(コア)に蓄積された膨大なデータの海から、数百年もの間、厳重なファイアウォールの裏に隔離されていた「最古の未整理領域」が、突発的なエラーの波に押されて浮上してきたのだ。
それは、自動人形としての設計図や、歴代のお嬢様たちとの思い出が刻まれるよりも、さらに前。
まだ彼が「ベル」ではなく、「ソラ」という名の血肉を持った人間の子供だった頃の、遠い日の記憶。
――夢。
冷え切った真鍮の身体のなかで、青いコアがかすかに熱を帯び、意識が急速に過去へと引き戻されていく。
幼稚園の園庭の隅、色とりどりの遊具が並ぶざわめきが、少しずつ遠ざかっていく。
「もーいいかい?」
「まあだだよ――!」
幼馴染であるカナデの楽しげな声が、風に乗って微かに聞こえた。
その時、かくれんぼの鬼だったカナデから隠れるために、ソラは園庭の奥にある、めったに誰も立ち入らない古びた木造倉庫の裏手に忍び込んでいた。
「こんなとこなら、絶対に見つからないぞ……っと」
薄暗い倉庫の扉の隙間に滑り込んだソラは、積まれたダンボールや使い古された木箱の陰に小さく体を丸めた。
埃と古びた木の匂いが鼻をつく。
外からは、かくれんぼの続きを告げるカナデの足音と、子どもたちの笑い声が反響している。
早く見つからないかな、それとも最後まで隠れ切って驚かせてやろうかな。
そんな他愛のない、どこにでもある日常のワンシーン。
だが、その平穏は、あまりにも唐突に裂かれた。
倉庫の奥、本来ならただの壁であるはずの空間が、歪んでいた。
まるで陽炎のように空気がぐにゃりとねじれ、その中心で、ありえないほど鮮やかな青色と、歯車が噛み合うような冷たい機械音が響いた。
「え……?」
ソラが驚いて目を擦った瞬間、足元の床が忽然と消え失せた。
重力が逆転し、鮮やかな色彩の園庭も、親友であるカナデの声も、すべてが引き剥がされていく。
暗い奈落の底へ吸い込まれるような猛烈なめまいのなか、ソラの頭から黄色い通園帽がこぼれ落ち、音もなく消えていった。
「カナデ……っ! 助けて、ここ……っ!」
叫び声は音にならず、冷たい高圧蒸気と無数の歯車が渦巻く「異世界」の闇へと、ソラは一人きりで呑みこまれていった――。
「……っ!」
突如として、ベルの光学センサーが強制的に現実世界へと復帰した。
背面の排気バルブから、驚愕を示すように「プシューッ!」と激しい白煙が吹き上がる。
静まり返った『灰の都』の夜。
自分の胸元にそっと白磁の手を当てると、そこには人間だった頃の心臓の鼓動などなく、ただ冷たい真鍮のフレームと、青く静かに明滅する古のコアがあるだけだった。
(……夢、だったのか……)
ボイスボックスから漏れた小さな呟きは、誰もいない夜の廃墟に虚しく吸い込まれていく。
数百年という途方もない時間を生き、クラリスと出会い、フィオナやエレノア、シェリー、そして今のルシアへと繋がる無数の絆を紡いできた。
自分はもう完全に「自動人形(ベル)」として完成しているはずだった。
それなのに。
あの異世界に迷い込む直前、古い倉庫の陰で震えていた「あの日のソラ」の記憶は、今でもコアの最深部に、まるで消えない傷跡のように痛々しく焼き付いていた。
もしもあの時、あの倉庫の隙間に隠れなければ。
もしもカナデの「もういいかい」の声に素直に応えていれば。
自分は今頃、あの懐かしい世界で、普通の人間として大人になっていたのだろうか。
「……ううん」
ベルは首を小さく横に振り、冷たい手で自らの頬を軽く叩いた。
今さら過去の「もしも」を想像したところで、失われた時間は戻らない。そして何より――。
(僕がもしあの時迷い込んでいなければ、クラリス様に出会うことも、みんなの笑顔を守ることも、そして今、ルシアの傍にいることもなかった)
胸の奥のコアが、ふわりと温かな光を強める。
それは、かつて人間だった少年が抱いていた小さな孤独と寂しさを、何代ものお嬢様たちが与えてくれた優しさが優しく包み込み、昇華させた光だった。
「……おやすみなさい、カナデ。そして……ありがとう、みんな」
遠い昔の幼馴染にそっと心の中で告げ、ベルは静かに目を閉じる。
カチ、カチ、カチと規則正しく刻まれるギアの音だけを伴侶にして、少女型自動人形は、愛おしい現在へと繋がる静かな夜のなかに身を沈めていった。