蒸気の絆、永遠の日常 作:匿名希望
ガタゴトと規則正しい重低音を響かせ、雲海を貫く鉄橋をひた走る蒸気機関車の客車内。
空中都市の観光を終え、旅の余韻と旅疲れが混ざり合った穏やかな時間が流れていた。
車窓の向こうには、夕刻の光を浴びて茜色に染まる雲海と、遙か下に蠢く旧世界の遺構が広がっている。
ボックス席の窓際に座り、心地よい振動に身をゆだねていたルシアが、ふと向かいに座るベルへと視線を向けた。
ベルはいつものように完璧な姿勢で背筋を伸ばし、膝の上に置いた小さな旅行鞄に手を添えている。
「ベル、空中都市の蒸気庭園、すごく綺麗だったね。
……でも、帰りの列車に乗れてよかった。あんなに高い場所だと、なんだか地に足がつかない心地がしちゃって」
「お楽しみいただけたようで何よりです、ルシア様。
ですが、あの程度の高所で揺らぎが生じるようでは、今後の探索計画に支障をきたします。
次回は足場補正の訓練プログラムを導入いたしましょう」
「う、うぐ……それは遠慮しておこうかな……」
ルシアが苦笑いを浮かべたその時、客車を繋ぐ連結扉がプシューという蒸気排出音とともに開き、一人の女性が姿を現した。
深いネイビーブルーのクラシカルなドレス風メイド服。
頭部には繊細なレースのヘッドドレス。
そして、その歩調は人間特有の生体揺らぎを完全に排除した、極めて精緻な等速運動——。
「……あ」
ベルの緋色の光学センサーが、一瞬だけ鋭く明滅した。
その足音、蒸気エンジンの駆動ピッチ、そして内蔵データベースに残る固有の個体識別シグナル。数百年という歳月の隔たりを一瞬で飛び越え、照合結果が100%の完璧な合致を示した。
「……セレスティーヌ?」
思わず溢れたベルの声に、客室の通路を進んできたメイドが足を止めた。
彼女——セレスティーヌは、ゆっくりと首を巡らせ、ベルと視線を交わした。
その瞬間、彼女の美しい人工皮膚の顔に、驚きと動揺、そして溢れんばかりの懐かしさが波紋のように広がった。
「……嘘、でしょう。その識別シグナル……ベル? ベルなのですか!?」
セレスティーヌの足取りが早まり、ベルのボックス席の横へと滑り込む。
かつて『大崩壊』以前の旧霊導蒸気都市において、上流階級の館に仕える「シンギュラリティ確立済み」の高級メイドオートマタ同士として、僅かながらも茶会や情報交換を共にしていた旧友。
「生きて……生きていらしたのですね。
あの大混乱のなか、高架橋の崩落と高圧蒸気の爆発に巻き込まれたと……あの凄まじい衝撃波の映像記録を見て、私はてっきり……」
「ええ。私自身、なぜ核心コアが破損せずに機能し続けているのか、未だに論理的な説明がつきません。
……ですがセレスティーヌ、あなたこそ。都市から無事に脱出できていたのですね」
ベルは静かに立ち上がり、セレスティーヌの手を取った。
その手触りに、ベルのセンサーが僅かな違和感を検知する。
左腕のフレーム密度と蒸気圧のレスポンスが、かつて彼女が備えていた型番の純正パーツと微妙に異なっていた。
「……左腕を、失われたのですか」
「気づかれましたか。……ええ。『大崩壊』の際、避難する旦那様と奥様をお護りするために。落石と崩落する鉄骨を受け止めた代償です。
脱出後、別の都市の工房で新しいパーツに換装いたしました。当時のオリジナルパーツは、もう右半身くらいしか残っておりませんわ」
セレスティーヌは哀愁を帯びた、しかし誇らしげな笑みを浮かべた。
「もっとも……私のすべてであったあのご家族も、数十年前に天寿を全うされ、穏やかに眠りにつかれました。
今はこうして、仕えるべき主のない二度目のオートマタ生を、静かに過ごしておりますけれど」
二人の会話を、ルシアは息をのんで見守っていた。
ベルが『灰の都』の跡地で、かつて心を通わせたシンギュラリティ仲間たちの残骸を幾つも引き揚げ、自らの手で静かに見送ってきたことを、ルシアは知っていた。
ベルは「自分以外の仲間は全員、あの崩壊の日に全滅した」と思い込んでいたのだ。
だが、現実は違っていた。
『大崩壊』の直前、自発的な自我(シンギュラリティ)に到達できるほどの高度な環境と愛情を与えられていたオートマタのほぼ全ては、セレスティーヌのように「特定の名家に仕える専属使用人」であった。
そして彼らたちのほとんどは、自らの自我の核となった大切な主人を守るため、共に都市を脱出するか、あるいは人間の盾となって破砕されたのだ。
ゼノンやマリアのようにベテランの使用人「として作られた者」がいるから誤解されがちだが、『灰の都』に残された使用人タイプの多くは、当時まだシンギュラリティに達していなかった若い個体ばかりなのである。
「……そうだったのですね」
ベルは胸の奥の霊導回路を静かに熱くさせながら、ぽつりと漏らした。
「跡地にシンギュラリティ個体の反応が全く残っていなかったのは、完全に破壊されたか……あなたのように、主人と共に外の世界へ旅立ったから……」
「ええ。……ベル、貴女が『灰の都』でひとりぼっちになっていたなんて、私は今の今まで知りませんでした」
セレスティーヌは悲しげに目を伏せ、続けた。
「住民たちは当初、都市の地下大避難壕を目指していたのです。ですが、突然の二次爆発によって地下壕が大規模に崩落……。
やむを得ず、生存者は地上を通って都市の外へと命からがら避難し、そのまま世界中へ散っていきました。
……そして何より、あの大惨事のあと、『灰の都』周辺の地域は深刻な魔導蒸気汚染と崩落の危険により、二百年以上もの間、完全な不可侵領域として強固に封鎖されていたのですから」
「二百年……封鎖、ですか?」
ベルの視線が揺れた。
「私は……爆風の衝撃で重篤なシステムエラーを起こし、約一年の間、一時的な緊急スリープモードに陥っていました。
再起動した時にはすでに周囲に人の気配はなく……ただ都市が捨てられたのだとばかり」
「一年で済んでいたなら、災い中の幸いですわ。当時の封鎖線は軍によって厳重に管理されていました。
だから……外部の者が、貴女を探しにあの街へ戻ることは絶対に不可能だったのです」
セレスティーヌの言葉に、ルシアの胸がキュッと締め付けられた。
(……だからだったんだ)
ルシアは思い出す。かつて自分が幼い頃、両親を相次いで失い、絶望の縁で途方に暮れていた時のことを。
病床の母から聞かされた、亡き祖母——シェリーの遺言。
『いつか……あの灰の街に残してきた、私たちの愛しいベルを……誰か迎えに行ってあげて……』
シェリーは、ベルの目の前で高架橋が崩落し、大量の高圧蒸気が吹き荒れる瓦礫の向こうへベルが吹き飛ばされた瞬間を目撃していた。
生きているはずがないと思えるほどの惨状。
それでもシェリーは最期までベルのことを案じ続け、「もしも、もしも生きているのなら」と願いを遺言に託したのだ。
シェリーが自らの手でベルを探しに行けなかったのは、ベルを見捨てたからでも、忘れたからでもない。
都市全体が二百年もの間、人類の手の届かない封鎖地域と化していたからであり、そして何より、あの絶望的な爆発からベルが奇跡的に生き残っているなどとは、誰にも信じられなかったからなのだ。
ルシアは、両親を失った悲しみと孤独のなかで、その遺言の一片を藁にもすがる思いで思い出し、一縷の望みをかけて危険な封鎖区域の跡地——『灰の都』へと足を踏み入れた。
そして案の定、方向音痴を発動させて迷子になっていたところを、他ならぬベルに保護されたのだった。
「ベル……」
ルシアはベルの袖をぎゅっと引っ張った。
「シェリーおばあちゃん、ベルのこと、ずっとずっと大切に思ってたんだよ。
迎えに行けなかったのはね……本当に行けなかったからなんだよ。見捨てたんじゃないんだよ」
「……ええ。理解いたしました、ルシア様」
ベルの声音は静かだったが、その内部データ処理は、何百年間も胸に突っかかっていた「最後の謎」が綺麗に解け明かされたことで、澄み切った光を放っていた。
「私はシェリー様が私を捨てたなどと、一度たりとも疑ったことはございません。
ただ……自分が生きていることをお伝えできなかったことが、ずっと心残りでした。
ですが、今……こうしてシェリー様のご孫であるルシア様と巡り合い、そしてセレスティーヌ、あなたから当時の事実を聞くことができた。
私の演算回路は、今、これ以上ないほどの充足を感じています」
「ルシア様……とおっしゃるのですね」
セレスティーヌは感極まったようにルシアを見つめ、深く腰を折って礼をした。
「シェリー様の血を引くお方……ベルを見つけてくださり、本当にありがとうございます。
ベルは、私たちの時代の誇りであり、誰よりも心優しいメイドでしたから」
「ううん、私の方こそ! ベルに助けられてばっかりで……あ、でも、最近は『灰の都』もすごく賑やかになってきたんだよ!」
ルシアは誇らしげに胸を張った。
「そうなんですの?」
「うん! レイラさんっていうすごい怪力のメイドさんがいたり、Aシリーズっていう観測体のアンドロイドたちがドームを再建してたり……昔の静かな街とは大違いかもしれないけど、みんなで一生懸命暮らしてるの!」
「レイラ……?」
セレスティーヌはぽかんと目を丸くした。
「あの大規模劇場管理用の特注個体ですか? 彼女も生きていたのですか?」
「ええ、瓦礫の撤去作業の振動で再起動したらしく、居合わせた作業員の方々の話では、突然瓦礫が崩れたかと思うと彼女が立ち上がってきて、笑顔で何事もなかったかのように挨拶をしたそうです」
「……それは……もはや怪談の類では……」
「実際、一部の行商人の間では『劇場跡地の幽霊メイド』として噂になりつつあります」
ベルが淡々と補足すると、セレスティーヌは思わず「まあ……」と手袋をした手で口元を覆い、くすくすと笑い出した。
「ふふっ、相変わらずあの街は、私たちの想像を超える『想定外』に満ちているのですね。
……稼働年数が若く、未だシンギュラリティに達していない初期型の子たちが、そんな賑やかな環境で新しい『心』を育んでいるなんて……なんだか、とても胸が温かくなりますわ」
セレスティーヌは窓の外、遙か遠くに霞む『灰の都』の方向を見やった。
「『大崩壊』のあの日、私たちはすべてを失ったと思っていました。
時代は終わり、私たちのような霊導蒸気の落とし子は、歴史の闇に消えていくのだと。
……ですが、違ったのですね。ベル、貴女が守り抜き、ルシア様が繋いでくださったあの場所で、新しい芽がちゃんと育っている」
「はい。完璧な仕様書には存在しない、バグのような、愛おしい芽です」
ベルは誇らしげに胸を張り、ルシアの隣へと腰を下ろした。
「セレスティーヌ。もしお時間が許すのでしたら、いつでも『灰の都』へお越しください。
今のあの街には、美味しいお茶と、賑やかな仲間たちと……そして、私とルシア様の家がありますから」
「ええ……必ず伺いますわ。ベル、そしてルシア様」
ガタゴトと響く蒸気機関車のジョイント音が、まるで祝福の拍手のように夜の気配が迫る雲海に響き渡る。
かつて奪われた過去の真実と、シェリーが残した温かな愛の証明を抱きしめて、列車は新しい時代を生きる彼女たちを乗せ、夕闇の向こうへとひた走り続けていた。