蒸気の絆、永遠の日常 作:匿名希望
真鍮のギアが重なり合う不協和音が、すっかり落ち着いた滑らかな駆動音へと変わってから1年。
ソラの「ベル」としての生活は、すっかり板についていた。
外見は1年前と変わらぬ可憐な少女型自動人形のままだが、中身の精神は幼稚園児から少しだけ成長し、ちょっと背伸びをしたいお年頃だ。
「ベル、今日のドレスはどれにしましょう?」
「おじょうさま、本日はこちらの藍色のビスチェドレスがよろしいかと存じます!」
お辞儀の角度はぴったり45度。
手首の関節を滑らかに旋回させ、クラリスの前に滑り込む動作には一切の無駄がない。
1年前は紅茶のカップを割ったり蒸気掃除機に振り回されていたのが嘘のようだ。
この1年で、ソラは屋敷の図書館でこの世界の言語と機械構造を猛勉強した。
自分の体内に埋め込まれた古代ギアの仕組みを理解し、自己メンテナンスすらこなせる「完璧な少女人形メイド」へと進化を遂げていたのだ。
だが、どれほど優雅に振る舞おうとも、ふとした瞬間に「男の子」の本分が覗く。
屋敷の庭園でクラリスが読書をしている傍ら、ベルは真鍮製の小さな蒸気トカゲを見つけると、ドレスの裾も気にせず目を輝かせて追いかけまわしてしまう。
「まあベル、またそんな機械蜥蜴と遊んでいるの? お洋服が汚れてしまうわよ」
「あ……! す、すみませんおじょうさま! 捕獲……じゃなくて、排除しようと……っ」
顔を真っ赤にして弁明するベルに、クラリスはくすくすと鈴を転がすように笑う。
「ふふ、いいのよ。完璧すぎるお人形より、少しやんちゃなベルの方が私は好きだもの」
夜、クラリスが眠りについた後、ベルは自分の部屋で胸の装飾プレートを外し、剥き出しになった心臓部のコアを見つめる。
1年前はただカチカチと狂っていた歯車が、今は青く美しい蒸気光を放ちながら、ゆるやかに時を刻んでいる。
(僕、少しは大きくなれたのかな……)
いつか元の世界に帰る方法が見つかるかもしれない。
でも、自分の手で淹れた紅茶を美味しそうに飲んでくれるクラリスの笑顔を見るたび、ソラの胸のコアはあたたかな熱を帯びるのだった。
深夜の静まり返った自室。
屋敷の明かりがすべて落とされ、クラリスの寝息だけが遠くの廊下から微かに聞こえてくる頃、ベルの「真夜中の仕事」が始まる。
ベッドに腰掛けたベルは、白磁の指先を自らの胸元へと伸ばした。
カチリ、と小さな金属のラッチが外れ、胸部の装飾プレートがパカリと前方に開く。
中から溢れ出たのは、淡い青色の霊導蒸気の光と、精密な歯車が刻む規則正しい微弱な駆動音だった。
(よし、今日のメンテナンスを始めよう)
剥き出しになった心臓部――コアの周囲には、日中の仕事や庭園でのやんちゃで蓄積された微細な金属粉や、関節部のオイルの微小な偏りがある。
ベルは専用の小箱からピンセットと極細のオイル注入器を取り出すと、まるで自分の体ではないかのように、あるいは極めて精密な立体パズルを解くかのように、手際よくメンテナンス作業に取り掛かった。
「右腕、肘関節のロータリーギアにわずかな摩耗……」
呟きながら、ベルはピンセットで真鍮のスペーサーを挟み、ミリ単位で位置を微調整する。
元は人間の男の子だった頭脳が、独学で叩き込んだ膨大な機械工学の知識と噛み合い、自分の肉体(ハードウェア)を最適化していく。
かつては工具を持つだけで手が震え、ネジ一つ締めるのにも苦労していたのが嘘のようだ。
しかし、自分の体を自分で分解し、整備する感覚は、いつ経験しても少しだけ奇妙だった。
痛覚はない。
代わりに、オイルが浸透したときの滑らかな駆動フィードバックが、心地よい「感触」として直接脳内の思考回路に伝わってくる。
(……ふう。これでよし、っと)
最後のボルトを専用のドライバーで「カチッ」と締め直す。
全身の駆動系が完全に同調し、先ほどまでわずかに感じていたギクシャク感が嘘のように消え去った。
背筋を伸ばすと、体全体の霊導蒸気の循環効率が跳ね上がり、コアの青い光が一段と鮮やかに輝く。
――だが、自分で自分の体を完璧にメンテナンスできるようになったからこそ、ベルの脳裏には時折、複雑な想いがよぎるようになっていた。
(僕は、どんどん「人間」から離れていっているのかな……)
人間の体なら、傷がつけば痛み、自然に治り、そして少しずつ年をとって成長していく。
しかし、自分は違う。
どれだけ年月が経とうとも、外見は可憐な少女人形のままで、壊れたパーツはこうして自分の手で新しい真鍮や白磁に換装し続けなければならない。
永遠に老いることも、本当の意味で大人になることもできない「自動人形」の身体。
ふと、日中にクラリスが言った言葉を思い出す。
——『完璧すぎるお人形より、少しやんちゃなベルの方が私は好きだもの』
(……そうだよね)
ベルはふっと唇を緩め、胸部のプレートを元通りにカチリと嵌め込んだ。
完全無欠の冷たい機械人形になる必要なんてない。機械蜥蜴を追いかけて顔を赤くしたり、クラリスの淹れてくれるお茶の香りにほっとしたりする「男の子の心」がこの胸のコアにある限り、自分はただの道具なんかじゃない。
明日も、お嬢様に最高の紅茶を淹れるために。
ベルは窓の外の星空を見上げながら、心地よいギアの音を背中に響かせ、静かに休止モードへと移行していくのだった。