蒸気の絆、永遠の日常 作:匿名希望
10年の月日が流れても、蒸気機関と歯車が奏でる街の喧騒は変わらない。
15歳になったクラリスは凛とした美しい貴婦人へと成長していたが、その傍らに立つ「ベル」の姿は、10年前のあの日のまま――小さな少女型自動人形の姿で止まっていた。
「ベル、本日の夜会用のドレス、着付けをお願いできるかしら」
「かしこまりました、クラリス様」
16歳相当の精神年齢へと成長したソラの声は、可憐な少女人形の声帯(ボイスボックス)を通してもどこか落ち着いた響きを帯びていた。
完璧な手つきでクラリスのコルセットを締め、真鍮の髪飾りを飾る。
外見は幼い少女のままだが、ソラの内部構造はこの10年で劇的な変貌を遂げていた。
夜な夜な自分の体を改造・強化し、今や屋敷のすべての機械設備を自動制御し、クラリスを狙う不審者を人知れず撃退するほど高度な「万能戦闘メイド」へと進化していたのだ。
だが、背が伸びて大人の女性になったクラリスを見上げるたび、胸のコアがかすかに痛む。
(お嬢様はどんどん大人になっていくのに、僕だけはこの小さな体のまま……)
夜会からの帰り道、蒸気馬車の中でクラリスが不意にベルの手を握りしめた。白磁の冷たい手に、クラリスの温かい体温が伝わる。
「ベル。貴女は変わらないわね。……でも、それが少し寂しいの」
「……クラリス様?」
「貴女が夜中に一人で図面を開き、私を守るために体を鍛え直していること、知っているのよ。
私が大人になっても、貴女はずっと私の『小さなお友達』でいてくれるのね」
クラリスは愛おしそうにベルの小さな頭を撫でた。
その手つきは、10年前、路地裏で泣いていたソラを拾い上げてくれたあの日のままだ。
「私はね、ベル。貴女が人間だろうと、お人形だろうと、男の子だろうと女の子だろうと関係ないわ。貴女が私の傍にいてくれるなら、それだけでいいの」
すべてを見抜いていたお嬢様の言葉に、ソラの真鍮の心臓(コア)が、今までで一番激しく、あたたかな音を立てて跳ねた。
「……はい、クラリス様。私が滅びるその日まで、ずっとあなたのお傍でお仕えいたします」
10年前、異世界に迷い込んだ心細い男の子はもういない。
蒸気と歯車の街で、ソラは大切な人を守る誇り高き「少女型自動人形」として、永遠の時を刻み続けている。
屋敷の窓から差し込む朝の光が、磨き上げられた真鍮の床に美しい模様を描いている。
相変わらず可憐な少女の姿のままのベルは、手際よくティーセットの準備を整えていた。
「ベル、今日のスケジュールを確認してもらえるかしら」
「はい、クラリス様。本日は午前中に蒸気工学アカデミーの視察、午後は庭園でのティーパーティーが予定されております」
返答するベルの声は、10年前よりも一層落ち着きと気品を帯びていた。
大人の女性となったクラリスと並んで歩く姿は、まるで年の離れた姉妹、あるいは美しい絵画のワンシーンのようだった。
屋敷の誰もが、この穏やかで満ち足りた日常がずっと続くものだと信じて疑わなかった。
しかし、その平穏は、ある嵐の夜に静かに破られることになる。
街の外れ、旧霊導蒸気プラントの地下深く。
長年眠っていたはずの古い自律制御システムが、地殻の変動によって突発的な暴走を起こしたのだ。
黒鉛の雲が夜空を覆い、街のあちこちで蒸気配管が悲鳴を上げる。
「――ベルっ!」
自室で書類に目を通していたクラリスが、激しい揺れと警報音に顔を青ざめる。
屋敷の防壁を突破しようと、暴走した小型の警備オートマタの残骸たちが庭園へと雪崩れ込んできた。
「おじょうさま、お下がりください」
ベルは一瞬で戦闘モードへと意識を切り替えた。
普段の優雅なメイドとしての挙動はそのままに、内部のコアが一気に最高出力へと跳ね上がる。
白磁の指先から鋭いワイヤーアンカーが射出され、襲いかかってきた機械群の動きを的確に封じていく。
(……足手まといには、絶対にさせない)
かつて、路地裏で守られるだけの存在だった小さな男の子はもういない。
クラリスを守るため、ベルは屋敷の防衛システムを完全にハッキングし、正確無比な体術と機動制御で次々と敵を無力化していく。
その戦いぶりは、冷徹でありながらも、主への絶対的な忠誠心に満ちあふれていた。
やがて、庭園の混乱が収まり、静寂が戻る。
煙の立ち込める中、ベルはドレスの裾を少しだけ汚しながら、クラリスの元へと静かに歩み寄った。
「……お怪我はありませんか、クラリス様」
息を整えることもなく、いつもの完璧な微笑みを浮かべるベル。
しかし、クラリスは駆け寄ると、言葉よりも先に、その小さな体をぎゅっと強く抱きしめた。
「よかった……。ベル、無事でよかった……っ」
クラリスの震える声に、ベルはわずかに目を丸くした。
いつも頼もしく自分を守ってくれるお嬢様が、今、自分を失う恐怖に震えている。
「私は大丈夫です、クラリス様。私は貴女の盾ですから。どのような脅威からも、必ずお守りします」
ベルがクラリスの背中にそっと手を回し、優しく背中を撫でる。
人間の時間は流れていく。
クラリスはやがて年を重ね、シワが増え、いつかはこの世を去る人間だ。
そして自分は、どれほど時が経ってもこの小さな少女の姿のまま、永遠に生き続ける自動人形。
それでも――。
(たとえ僕が永遠の時間を生きる機械だとしても、この温もりを知ってしまったからには……)
胸の奥のコアで、青い光がこれまでになく強く、温かく脈打った。
壊れゆく世界の中で、主と従者が紡ぐ絆は、どんな鋼鉄の装甲よりも固く、美しく結ばれていくのだった。