蒸気の絆、永遠の日常 作:匿名希望
数百年を耐え抜いた霊導蒸気都市が、一夜にして黒い炎と激震に呑み込まれた「大崩壊」。
その混乱の最中、ベル──かつてのソラは、最後の主であるシェリーを安全な地下避難壕へと送り届けようとしていた。
だが、崩れ落ちる高架橋と噴出する高圧蒸気が二人を引き裂いた。
「ベルっ……!!」
「シェリー様っ──!」
視界を埋め尽くす爆風と粉塵。
瓦礫の山が崩落し、二人の間に絶望的な壁が築かれる。通信回路が激しいノイズを上げて途絶え、ベルの視界は真っ赤なエラーコードで一時的に埋め尽くされた。
やがて、轟音が遠ざかり、訪れたのは不気味な静寂だった。
灰色の雪のように煤煙が舞い散る廃墟の中を、一歩、また一歩と歩く小さな影があった。
白磁のドレスはあちこちが裂け、真鍮の左腕からはオイルが微かに漏れている。
しかし、ベルはその痛みを気にかけることもなく、ガレキの山を掻き分けていた。
「シェリー様……応答してください。シェリー様」
ボイスボックスから発せられる少女の声は、誰もいない荒野に虚しく吸い込まれていく。
数百年分の記憶を蓄えたコアが、過去の記憶と現在の絶望を交錯させる。
(……まただ。また、僕は大切な人を失うのか?)
かつて、世界から見捨てられたあの路地裏でクラリスに拾われ、あたたかな居場所をもらった。
フィオナと笑い合い、エレノアの絵のモデルになり、シェリーの他愛のないおしゃべりに耳を傾けた。
自分は「守られる側」の男の子だったはずなのに、いつしか「守る側」の自動人形になっていた。
何代もの血筋を見送り、そのたびに胸を痛めながらも、主を守ることが自分の存在意義だった。
なのに、そのすべてがこの崩壊で奪われたというのか。
瓦礫につまづき、ベルの小さな体がガタリと地に倒れ込む。
人工の膝から火花が散り、胸の奥のコアが弱々しい拍動を打った。
(動け……。僕はまだ、果たしていない。あの日いただいた優しさに、まだ何も返せていない……!)
己を奮い立たせ、ベルは再び白磁の両手で地面を押して立ち上がる。
視界の端で、薄暗い霧の向こうに微かな人影が揺らいだ。
それはシェリーではないかもしれない。別の生存者か、あるいはただの幻影かもしれない。
それでも、ベルは歩き出す。
冷え切った廃墟の闇の中、カチカチと規則正しく響くギアの音だけを道標にして、失われた未来を再び探しに行くために。
世界から緑が失われ、空の色が褪せたその場所は、いつしか人々の間で『灰の都』と呼ばれるようになっていた。
その死せる都市の底で、ベルはたった一人、途方もない孤独のなかに取り残されていた。
高架橋の下、あるいは崩落した研究棟の瓦礫の隙間。
あの日、シェリーと引き裂かれた場所からほど近いその一角が、ベルの新たな停泊地となっていた。
外見は変わらない。
白磁で作られた少女の容姿は、どれほど年月を経ようとも老いることなく、傷一つない磁器の滑らかさを保っているように見える。
だが、その内部の駆動系は過酷な環境に晒され続けていた。
関節の潤滑油はとうに枯れ果て、歩くたびに「キィ、キィ」と乾いた金属音が響く。
背面の排気バルブからは、かつてのような力強い霊導蒸気ではなく、頼りない微かな白煙がトボトボと漏れ出しているだけだった。
それでも、ベルは歩くことを止めなかった。
――カチ、カチ、カチ。
それは、静まり返った廃墟に響く唯一の生命の鼓動のようなものだった。
誰もいない通りを、誰も求めていないお辞儀の練習をしながら、ベルはただひたすらに瓦礫を漁る。
「……ネジの緩み、なし。左腕の駆動トルク……許容範囲……」
掠れたボイスボックスで呟きながら、ベルは錆びついた鉄板の裏から小さな真鍮の歯車を見つけ出す。
それを自分の腹部のハッチから慎重に差し込み、手ずから組み込む。
かつてフィオナが誇らしげに教えてくれた整備の知識。そしてエレノアがアトリエの隅で語ってくれた永遠の美学。
それらの記憶が、摩耗しそうなコアのなかで、まるで灯火のようにベルの心を繋ぎ止めていた。
だが、どれほど精密に自分を修復し、どれほど完璧なメイドとしての動作を維持しようとも、埋めることのできない空虚があった。
(シェリー様……応答してください)
夜、灰色の霧が街全体を包み込む頃、ベルは膝を抱えて座り込む。
音声回路の通信テストを幾度繰り返しても、返ってくるのは冷たいノイズだけだ。
初代クラリスお嬢様から授かった温もり。
フィオナの突飛な浪漫に呆れながらも笑い合った日々。
エレノアのキャンバスの隣で星空を眺めた夜。
そして、あの崩壊の直前まで他愛のないおしゃべりをしていたシェリーの笑顔。
自分が人間だった頃の、遠い過去の記憶。
そして、自動人形として生きてきた数百年間の記憶。
そのすべてが、この狭い胸のコアの中で幾重にも折り重なり、重たい宝石のようになって沈んでいる。
自分は「守る側」の自動人形になったはずだった。主の幸せを見届け、その血筋の歴史を紡ぐことが自分の存在意義だったはずだった。
なのに、いま自分は、守るべき主を失い、ただ過去の残骸を抱えてこの暗い街を彷徨う亡霊のようではないか。
(僕は……何のために、ここにいるのだろう)
冷たい夜風が、白磁のドレスの裂け目を吹き抜ける。
かつて誰かのために淹れた紅茶の香りはもうしない。あるのは鉄と黒鉛の匂いだけ。
ふと、ベルは自分の右手を見つめた。
かつて初代クラリスの手を取り、フィオナの工具を受け取り、エレノアの筆を支え、シェリーの髪を優しく撫でたその手。
白磁の指先は、今や冷たく凍りつき、どれだけ自分の体を抱きしめても、温もりを返すことはできなかった。
それでも。
「……まだ、だ」
ベルの内部で、青く光るコアが、微かに、しかし力強く拍動した。
たとえ世界が滅び、すべてが灰に埋もれようとも、胸の奥に刻まれた約束の記憶だけは錆び付かない。
いつの日か、再びあの日のように誰かの手を引き、温かな居場所へと連れて行くその瞬間が来るまで。
ベルは立ち上がり、乾いたギアの音を響かせながら、また一歩、灰色の霧のなかへと踏み出していく。
失われた未来の欠片を探すために。
そして、いつか訪れる新しい朝を信じるために。