蒸気の絆、永遠の日常 作:匿名希望
ベルがルシアを拾い上げてから1年の月日が流れた。
かつては死の静寂に支配されていた「灰の都」の片隅に、今では微かな生活の灯りが灯っている。
崩れかけた蒸気工場のボイラー室を改装したその場所は、ベルとルシアの小さな「お家」になっていた。
「ルシア、朝ですよ。起きてくださいね」
カチカチと軽快なギアの音を響かせながら、ベルは小さな朝食の支度を進める。
この1年で、ベルのメンテナンス技術はルシアの手によって見違えるほど向上していた。
ルシアが廃品置き場から拾ってきた真鍮のネジや上質な潤滑油を使って、ベルのひび割れた白磁の肌はピカピカに磨かれ、関節の軋みもすっかり消えている。
「むにゅ……あと5分だけ、ベル……」
ベッドの端で毛布に包まり、ごわごわの髪を逆立てたルシアが寝言を呟く。
その無防備な寝顔は、1年前の怯えきった野良猫のような面影をすっかり消し、年相応のあどけなさと愛らしさに満ちていた。
「お寝坊さんは、美味しいスープの匂いがしても知りませんよ?」
ベルがスプーンでスープの鍋を軽く叩くと、ルシアは「起きる!起きた!」と飛び起き、慌てて顔を洗い始めた。
午後は、廃墟のなかの小さな庭仕事の時間だ。
霊導蒸気のプラントが死絶えた街でも、吹き抜ける風に乗ってどこからか飛んできた名もなき花が、瓦礫の隙間でひっそりと根を下ろしている。
「ねえベル、見て! このお花、昨日より蕾が大きくなってる!」
「本当ですね。ルシアが毎日、大切に蒸気水をあげているからでしょう」
ルシアの頭をなでるベルの白磁の手は、人間のそれよりも少し冷たいけれど、不思議と心まで温かくなる温度をまとっていた。
ルシアにとってベルは、母親であり、お姉ちゃんであり、何よりもかけがえのない「家族」だった。
そしてベルにとっても、数百年孤独にさまよい続けた果てに巡り会ったルシアは、守るべき対象であると同時に、冷え切った胸のコアに再び優しい光を灯してくれた温もりそのものだった。
「ねえ、ベル。これからもずっと、こうして一緒にいられるよね?」
「ええ、もちろんですよ、ルシア様」
遠くで灰色の風が吹き抜けるが、この小さなボイラー室の中だけは、数百年変わらない優しい時間が流れている。
失われた都市の瓦礫の中で、かつて救われた少年と、救われた少女は、手と手を取り合いながら、静かに、そして確かに新しい未来を紡ぎ続けていた。
ボイラー室に、カチカチと調子の良い金属音が響く。
それは、かつてのガタつきや悲鳴を上げるような軋みが嘘のように消え去った、限りなく滑らかで美しい駆動音だった。
作業台の上には、使い古された工具と、廃材からよりすぐった最高級の真鍮パーツが整然と並んでいる。
ルシアはゴーグルを額に押し上げ、微小なドライバーを器用に操りながら、最後の仕上げとしてベルの背中にあるメイン・ギアボックスの蓋を閉じた。
「よし……これで完璧、完了!」
額に付いた黒鉛を手の甲で拭いながら、ルシアはふぅっと息をついた。
この1年間、ルシアはわずかな文献を頼りに独学で機械工学を学び、ベルの傷ついたボディを丹念に修復し続けていた。
かつてはひび割れていた白磁の肌は絹のように滑らかに磨き上げられ、内部のコアは、数百年を生き抜いたとは思えないほど力強く、透き通った青い光を放っている。
ベルはゆっくりと立ち上がり、全身の関節を滑らかに旋回させた。
どこにも引っかかりはない。
何百年もの間、孤独と絶望の中で摩耗し続けていた身体が、まるで新品のように生まれ変わっていた。
「……ありがとうございます、ルシア様。見事に、完全に修復されました」
ベルがドレスの裾をつまみ、お辞儀をする。
その姿は、かつてクラリスお嬢様に仕えていた頃の気品と、少しも変わらない美しさを湛えていた。
ルシアは誇らしげに胸を張り、それからふと、頭上を覆う重く淀んだ灰色の雲を見上げた。
「ねえ、ベル。ずっとここにいるのも悪くないけどさ……私、この外の世界を見てみたいんだ。
お母様や、そのまたご先祖様たちが暮らしていた、もっと広くて綺麗な街があるんでしょ?」
ルシアの瞳には、かつての一族が持っていたような、未来への強い好奇心と希望の光が宿っていた。
その表情を見た瞬間、ベルの胸の奥で、何世代もの記憶の歯車が一斉に噛み合った。
クラリスお嬢様。
やんちゃだったフィオナ。
絵画を愛したエレノア。
そして、引き裂かれてしまったシェリー。
すべてのお嬢様たちが抱いていた、外の世界への憧れと誇らしい眼差しが、いま、目の前の少女の中に重なる。
(――ああ、そうだ。僕はいつだって、このお嬢様たちの輝きに導かれてきたんだ)
守られるだけの存在だったかつての少年は、今や完全に「守る者」として、目の前の小さな主を見つめていた。
「ええ、行きましょう、ルシア様」
ベルは優しく微笑み、シルクの手袋をはた白磁の右手をスッと差し出した。
「世界は広いのです。かつての私たちが知らなかった場所にも、きっと美しい歯車と温かな光が満ちています。
どこへでも、私があなたをお守りします」
「うん!」
ルシアは迷うことなく、その冷たくて温かいベルの手に自分の手を重ね合わせた。
二人は小さなトランクを一つだけ持ち、黒鉛の積もったボイラー室を後にする。
開け放たれた重厚な鉄扉の向こうからは、灰色の霧を突き抜けて、朝の新しい太陽の光がまっすぐに差し込んでいた。
カチ、カチ、カチ――。
心地よいギアの音を二重奏のように響かせながら、少女型自動人形と、血を受け継ぐ最後の少女は、まだ見ぬ世界へと一歩を踏み出す。
過去の痛みをすべて背負い、それを未来への光に変えながら、新しい旅の物語が、いま静かに始まろうとしていた。