新世紀エヴァンゲリオン 碇ミレイ 作:最高司祭アドミニストレータ
授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた直後、ミレイはジャージ姿の男子生徒──鈴原トウジの背中を追って、校舎裏へと連行されていた。
ミレイは立ち止まったトウジの背中に、冷ややかな視線を向けた。
ふと見れば、もう一人の男子生徒が立っている。茶髪に赤いフレームの眼鏡、首からはごつごつとした本格的なビデオカメラをぶら下げた少年──確か、同じクラスの相田ケンスケだ。
(あっちの眼鏡君は、親友のケンカに付き添ってきた保護者枠かな? それとも、ただの野次馬根性でスクープでも撮りに来た記録係? ま、どっちにしても私には関係のないことだけれど)
ミレイが品定めするように観察していると、トウジが勢いよく振り返った。
ポケットに突っ込んでいた手を引き抜き、険しい目つきでミレイを射抜くように睨みつけてくる。眉間には深い皺が刻まれ、その全身からは隠しようもない敵意が立ち昇っていた。
「おい、転校生。単刀直入に聞くぞ」
「なにかな。次の授業の予習をしたいから、要件は三分以内に箇条書きでまとめてもらえると助かるんだけど」
「お前、ほんまにあれに乗っとったんか。あの紫のロボットに」
地獄の底から響くような低い関西弁。
教室での騒ぎに続き、本日何度目になるかも分からないパイロットの事実確認だ。
本来であれば「いいえ、人違いです」と論理的に突っぱねて教室へ戻りたいところだが、すでにあのひっかけメッセージのせいでクラス中に肯定のログがばら撒かれてしまっている。今さら誤魔化すのはリソースの無駄遣いというものだ。
ここは下手に逆撫でせず、大人の対応で波風を立てずに終わらせるのが最善の手札だろう。ミレイは完璧な営業スマイルを顔に貼り付け、涼やかな声で応じた。
「ええ、その通りだよ。私がエヴァンゲリオン初号機のパイロット、サードチルドレンだけど…それが何か?」
「そうか…やっぱり、お前やったんかッ!!」
「え?」
次の瞬間、トウジの肩が大きく跳ね上がった。右腕が後方へと引かれ握り締められた拳が、風を切り裂くような速度でミレイの顔面へと真っ直ぐに突き出される。
暴力による解決など、ミレイの思考プロトコルには一ミリも組み込まれていなかった。
咄嗟に身を引こうとしたものの、完全には躱しきれない。ゴッと鋭い風圧と共に、硬い拳の表面がミレイの左頬をかすめ飛んだ。
「きゃっ!?」
掠っただけの衝撃だったが、急激な重心の移動に華奢な足元が耐えきれず、ミレイはバランスを崩して地面へと盛大に尻餅をついた。
砂埃が舞い上がり、プリーツスカートが汚れる。
(な、なに…!? 突然の物理攻撃!?)
痛みはほとんどないものの、初対面の女子生徒に対していきなり拳を振るうという野蛮極まりない非論理的行動に、ミレイの思考回路が一瞬ショートを起こした。
見上げるとトウジは拳を握り締めたまま、荒い息を吐いて肩を上下させている。
「…ワシの妹がな、怪我したんや」
吐き捨てるような、絞り出すような声だった。
「こないだの戦いや! あの化け物とロボットが暴れ回ったせいで、瓦礫が崩れてきて…まだ小学生の妹が下敷きになったんやぞ! 今も病院で入院しとるんや!!」
血を吐くような兄の叫びに、ミレイの頭の中から怒りの感情がすっと引いていった。
なるほど。そういうことか。
あの初陣、サキエルとの戦い。暴走した初号機は街をこれでもかと破壊し尽くした。
自分自身がコックピットの中で気絶し、「肉体労働の外注」を出していた間の出来事とはいえ、エヴァが撒き散らした暴力の余波で、無関係な一般人が巻き添えを食らっていたのだ。
他人の健康や生命は、何物にも代えがたい。人の命は決して軽くないのだ。
ミレイは汚れたスカートも気にせず、地面に座ったまま、真っ直ぐにトウジの目を見つめて頭を下げた。
「それは本当に申し訳ないことをしたよ。街を守るためだったとはいえ、あなたの妹さんを巻き込んで怪我をさせてしまったことは、紛れもない事実だ。初号機のパイロットとして、心から謝罪するよ」
損得勘定を抜きにした、真摯な言葉。
自分にも非がある以上、正当なクレームには誠心誠意対応するのが合理的な人間としての義務である。
──だが。
頭を下げながら、ミレイの優秀な頭脳は急速に記憶のアーカイブを検索し、ある重大な矛盾点へと行き当たっていた。
(…ん? 待てよ?)
ミレイは伏せていた顔をゆっくりと上げ、首を傾げた。
(鈴原、トウジ…妹、小学生…入院中…あ!)
記憶のピースが完璧に合致した。
病室で目を覚ました翌日、ミレイは己の良心に従い、あの戦闘で負傷した民間人のリストをNERVの端末からこっそり閲覧していたのだ。
そして入院していた鈴原サクラという少女の病室へ、高級フルーツの詰め合わせを携えてすでに直接謝罪に赴いていたのである。
あの時ベッドの上にいた可愛らしい少女は、ミレイの真摯な謝罪を聞いてこう言ってくれたはずだ。
『ううん、お姉ちゃんが怪物をやっつけてくれへんかったら、ウチもっと酷いことになってたかもしれへんもん! 街を守ってくれてありがとう、ミレイお姉ちゃん!』と、天使のような満面の笑顔で許してくれたのだ。
示談はすでに成立している。被害者本人との間では、完全なる和解と不可侵条約が結ばれていたはずなのだ。
(被害者本人からは『ありがとう』と感謝されて、すべて円満解決したはずなんだけど…じゃあ、このお兄さんは一体何に対してここまでキレ散らかしているのかな?)
根本的な疑問が脳裏をよぎる。
ミレイが怪訝そうに眉をひそめて見つめると、トウジの様子が急激におかしくなり始めた。
怒りで震えていたはずの肩が、今度は別の理由でワナワナと小刻みに揺れ動いている。
そして──ポケットからぐしゃぐしゃのハンカチを取り出すと、それを前歯でギリィッ! と噛み締めながらボロボロと大粒の涙を零し始めたのだ。
「う、うぐぅぅぅっ…! サクラのやつ…あんなに可愛いワシのサクラがぁぁぁっ…!!」
「えっ、情緒どうなってるの…?」
急激な温度差に、ミレイは思わず後ずさりそうになった。
トウジはハンカチを引きちぎらんばかりに噛みながら、血を吐くような怨嗟の声を絞り出す。
「サクラはな…昔からずっと『大きくなったらお兄ちゃんと結婚する!』って言うてくれとったんや! それがワシの生きがいやったんやぞ!!」
「はあ、微笑ましい兄妹愛だね…?」
「それやのにッ! お前が見舞いに来たあの日から…あいつ、部屋に飾ったお前のブロマイド見つめながら『ウチ、将来はミレイお姉ちゃんと結婚したいわぁ…♡』とか言い出しおったんやぞォォォッ!!」
「…は?」
ミレイの口から、間抜けな声が漏れた。
トウジの激昂は止まらない。ハンカチを涙と鼻水で濡らしながら、身振り手振りを交えて絶叫する。
「目が完全にハートマークやった! お前の名前を呼ぶたびに胸を押さえて『トゥンク…♡』とか『おっふ!』とか言うて悶絶しとるんや! 小二の女子が『おっふ!』やぞ!? 完全に骨抜きにされとるやないかい!!」
「……」
あまりの事態のくだらなさに、ミレイの思考回路が完全にフリーズした。
怪我の恨みでもなんでもない。ただの、妹を取られたシスコン兄貴の個人的な嫉妬と八つ当たりである。
「ワシの純情を返せ! サクラのお兄ちゃんへの愛を返せぇぇぇっ!!」
わんわんと泣き叫ぶ大柄な男子中学生。
ミレイの中で、先ほどまで抱いていた真摯な謝罪の念が、急速に冷え切った絶対零度の呆れへと変化していった。
深いため息をつきながら、ミレイは地面に座ったまま、極めて冷淡な正論をピシャリと言い放った。
「あのね、鈴原君。それは単に妹さんの好みが、粗野で暑苦しいお兄さんから、知的で洗練された美少女である私へと健全にシフトしただけじゃないかな。私に八つ当たりするのは、論理的にも筋違いというものだよ」
言った瞬間、空気が凍りついた。
トウジの頭の中で、理性の最後の細い糸がブツンッ! と音を立てて断裂したのが見えた。
「──お前ぇぇぇぇぇッ!!」
怒髪天を衝く勢いで振り下ろされた、渾身の右フック。
今度はかすり傷では済まなかった。
バチィィィンッ!! という凄まじい打撃音と共に、トウジの硬い拳がミレイの柔らかい右のほっぺたにクリーンヒットした。
「あべしっ!?」
顔面を真横に殴り飛ばされ、ミレイの華奢な身体が地面を転がった。
再び地面に盛大に尻餅をつき、砂埃の中に倒れ込む。
殴られた右頬がジンジンと猛烈に熱を持ち、じんわりと赤く腫れ上がっていくのが自分でも分かった。
痛い。文句なしに痛い。
その強烈な痛撃が脳幹を揺らした時、ミレイの口から零れ落ちたのはアニメ史に燦然と輝くあの名台詞であった。
「な、殴ったねェ!? お父様にも殴られたことないのにッ!!」
(あ、いや、待って。お父様を病室の壁まで殴り飛ばしたのは私の方だったっけ?)
口に出してから一瞬で脳内ツッコミが入ったが、今はそんな些細な事実はどうでもいい。
ミレイはじんじんと痛む右頬を手で押さえながら、驚愕の眼差しでトウジを見上げた。
(相手が女の子だろうが、一切の手加減なしでほっぺたに本気のグーパンを叩き込んでくるなんて…っ)
なんて徹底された男女平等の精神だろうか。
現代社会においてこれほどまでにコンプライアンスやフェミニズムを無視し、己の剥き出しの感情のままに対等な暴力を行使してくる人間が他にいるだろうか。
痛みを通り越して、ミレイの胸の奥に謎の感動すら湧き上がってきそうになった。
しかし、当のトウジにそんな感動を味わっている余裕はない。
「まだや! 妹の分の鉄拳制裁、あと十発は叩き込まんと気が済まんわッ!」
「うわっ、ちょっと待てトウジ! そこまでにしとけって!」
ここでようやく、後ろで傍観していた眼鏡の少年──ケンスケが血相を変えて飛び込んできた。
トウジの太い腕に必死にしがみつき、羽交い締めにするようにして後ろへと引っ張る。
「離せケンスケ! ワシはあいつを許さん! サクラの純情を奪った罪は重いんやぁぁぁっ!」
「いいから落ち着けって! 相手は女の子だぞ! 停学になっちまう!」
ケンスケは暴れる怪力男を必死に宥めながら、地面に座り込んだままのミレイに向かって、気まずそうに片手を挙げて叫んだ。
「悪いね! こないだの騒ぎで妹さん怪我しちゃってさ! まっ、そういう事だから!」
ものすごい大雑把なまとめ方だった。
ケンスケはそのまま、ジタバタと暴れながら罵声を撒き散らすトウジを引きずるようにして、校舎の角の向こうへと足早に連れ去っていった。
遠ざかるトウジの「サクラぁぁぁっ!」という絶叫が、昼下がりの静かな校庭に虚しく木霊していく。
「嵐のような人たちだったね」
一人残されたミレイは、砂だらけになったスカートをパンパンと払いながらゆっくりと立ち上がった。
右頬はまだズキズキと痛むが、骨に異常はなさそうだ。保健室へ行って保冷剤をもらって冷やせば、放課後までには腫れも引くだろう。
(まったく…人のパーソナルスペースを土足で踏み荒らした上に、物理的な損害まで与えていくなんて。あの一連のやり取り、私の人生における完全なデッドタイムだよ)
やれやれと首を振った、まさにその時だった。
「みっともないわね」
背後から、氷のように冷たく抑揚のない声が降ってきた。
ミレイがビクッとして振り返ると、校舎の角の影から一人の少女が姿を現した。
淡い水色のショートヘア。透き通るような白い肌。そして、すべてを見透かすような無機質な赤い瞳。
同じ制服を着た、綾波レイであった。
(な、なんでここに…!?)
ミレイが身構える前で、レイは感情の読めない瞳でじっとミレイの赤く腫れた右頬を見つめ、それから淡々と告げた。
「非常召集よ。先に行くから」
それだけを言い残すと、レイはすっと背を向けた。
そして、すれ違いざま──フッ、と小さく鼻を鳴らして、あからさまに見下すような嘲笑を浮かべたのだ。
今朝の食パンデッドヒートの屈辱を、ここぞとばかりに晴らすかのような、完璧なる勝ち誇りフェイス。
「っ!」
ミレイの額に、本日最大級の青筋がピキリと浮かび上がった。
「ちょっと! 今、あからさまに鼻で笑ったでしょ! 負け犬を見るような目で嘲笑ったよね!? 聞こえてるの? 綾波レイ!」
「急がないと、遅刻するわよ」
「遅刻って言うな! 今朝の勝負はドローだったはずでしょ! 待ち伏せなんか卑怯な手を使いおってからに!」
ミレイが拳を握り締め、即座に臨戦態勢に入った瞬間──。
バタバタバタッ!! と慌ただしい足音が響き渡り、校舎の角から漆黒のスーツに身を包んだ大柄な男たちが四人も飛び出してきた。
特務機関NERVの保安部員たちだ。
「サードチルドレン! ファーストチルドレン! 直ちに本部へ移動願います!」
「えっ、ちょっと、まだ決着が──わっ!?」
ミレイの抗議の声も虚しく、黒服の男たちは有無を言わさずミレイの両脇をガッシリと抱え上げた。
同時に、別の男たちがレイの身体も同じように抱え上げる。
「離しなさいよ! 私は自分の足で歩けるんだけど! 人を荷物みたいに運ぶなー!」
「碇ミレイ。暴れるだけエネルギーの無駄」
「あなたに言われたくないわよ! なんなの、非常招集の現場でアホの子みたいな挑発してきて! 教育はどうなってるの!」
「碇司令を侮辱するのは、許されない」
両脇を黒服に抱えられ、宙に浮いた状態で足をバタバタさせながら、醜い口論を繰り広げる二人の美少女。
もはや人類を救う選ばれしエヴァパイロットの威厳など、微塵も存在しない。ただの意地っ張りな十四歳の子供のケンカである。
そして、強制連行されていく二人の頭上から大音量のサイレンが鳴り響き始めた。
『ただいま東海地方を中心とした関東中部の全域に特別非常事態宣言が発令されました。速やかに指定のシェルターへ避難して下さい。繰り返しお伝えいたします。ただいま東海地方を中心とした──』
さぁて、次回もサービスサービスゥ!