新世紀エヴァンゲリオン 碇ミレイ 作:最高司祭アドミニストレータ
ぶ、ぶつけるだ、よォォ。
…悪化しそうだからお薬を飲んで安静にしよう。
翌朝、第3新東京市立第壱中学校、二年A組の教室。
ミレイがスライドドアをガラリと開けて中へ足を踏み入れた瞬間、騒がしかった教室内の雑談がピタリと止まり、一斉に視線が集中した。
制服の袖から覗く左腕には、まだ白い包帯と固定用のサポーターが巻かれている。右の頬には小さな絆創膏が貼られており、痛々しいといえば痛々しい姿だ。
「っ、おい…碇さんだ!」
「昨日の使徒との戦い、ニュースで見たわよ…! 碇さん、本当にひとりで街を守ってくれたのね!」
「すげぇよな、あんな巨大な化け物を相手に…! 大丈夫なのか、その怪我!?」
教室のあちこちから称賛と感謝、そして怪我を案じる温かい声が次々と飛んできた。
初登校の日のような、珍獣を見るような無遠慮な野次馬の空気ではない。「自分たちの街を命がけで守ってくれたクラスメイト」に対する、素直なリスペクトと心配の眼差しだった。
「おはよう、みんな。心配してくれてありがとう。見ての通り、もう日常生活には何の支障もないから安心して」
ミレイは完璧な優等生スマイルを浮かべ、優雅に片手を挙げて声援に応えながら自分の席へと向かった。
(ふふ、悪くない空気だね。これだけ好意的な世論が形成されていれば、今後の学園生活における私の発言権と快適さは完全に保証されたようなものだよ)
内心で満足げに頷きながら、ミレイは教室の後ろの席──窓際で固まっている二人の男子生徒へと、さりげなく視線を走らせた。
黒いジャージ姿の鈴原トウジと、赤縁眼鏡の相田ケンスケだ。
ミレイと目が合うと、ケンスケは気まずそうに眼鏡のブリッジを押し上げて苦笑いを浮かべ、トウジに至っては顔を真っ赤にした。
彼らは借りてきた猫のように、バッと視線を逸らしてうつむいてしまった。
(おやおや。昨日まではあんなに威勢よく吠えていたのに、ずいぶんと可愛らしい反応じゃないか)
ミレイは口元の笑みを深め、鞄から教科書を取り出した。
あの二人がいつ、どんな風に謝罪へやってくるのか。壮大なドッキリの答え合わせは、どうやらそう遠くないうちに始まりそうだった。
午前中の授業が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた直後のことだった。
ミレイが机の上にお手製の二段弁当を広げようとしていると、ひょこひょこと少し遠慮がちな足取りで、相田ケンスケが席の横へとやってきた。
「やあ、碇さん。その、怪我の具合はどうだい? 腕の包帯、まだ痛むんじゃないか?」
「こんにちは、相田君。ええ、おかげさまで順調に回復しているよ。それで、私に何か用かな?」
ミレイが涼やかな目で問いかけると、ケンスケはポリポリと頬を掻きながら、廊下の方をチラリと振り返った。
開いたドアの隙間から、黒いジャージの背中が落ち着きなくウロウロしているのが見える。
「実はさ、トウジがどうしても君に話したいことがあるんだってさ。悪いんだけど、ちょっといいかな? 場所は一昨日と同じ校舎裏なんだけど」
「へぇ、校舎裏にね。なにかしら、今日は左のほっぺたでも殴られるのかな?」
「め、滅相もないって! 絶対そんなんじゃないから! 頼むよ、あいつ昨日の夜から一睡もしてないみたいなんだ!」
必死に両手を振って否定するケンスケの姿に、ミレイは小さく肩を竦めた。
「わかったよ。せっかくのお昼休みなんだから、手短に済ませてよね」
まあ、せっかくのランチタイムを邪魔されるのは不本意だが、ここで懸案事項を一気に片付けておくのも悪くないだろう。ミレイはお弁当箱の蓋をパチンと閉じ、席から立ち上がった。
校舎裏で待ち構えていた鈴原トウジの姿は、一昨日の凶暴な不良とは似ても似つかないものだった。
ミレイとケンスケが角を曲がって姿を現すと、壁に寄りかかっていたトウジがビクッと肩を震わせ、直立不動の姿勢をとった。
目の下にはうっすらとクマができている。ミレイの左腕に巻かれた白い包帯と右頬の絆創膏が視界に入った瞬間、トウジの顔が苦渋に満ちたようにギュッと歪んだ。
「来てもろうて、すまんな」
「それで、話ってなにかな、鈴原君。私はお腹が空いているから、要点から先に言ってくれると助かるんだけど」
ミレイが腕を組んで促すと、トウジは大きく息を吸い込み──次の瞬間、地面に額が擦りつくほどの勢いで、ガバッと九十度のお辞儀をした。
「一昨日はほんまにすまんかったァッ!!」
校舎の壁にビリビリと反響するような、腹の底からの大声だった。トウジは頭を下げたまま、握り締めた両拳を震わせて言葉を続ける。
「ワシは、ほんまに最低のクズ男や! サクラのケガのことだけやない。妹がお前に懐いたくらいのしょうもない嫉妬で、お前の顔を殴ってその上に避難命令まで破って山に登ってお前の足を引っ張った!」
「…」
「それやのにお前は…自分を殴ったワシらを見捨てんと、その細い腕で化け物の攻撃を受け止めて、あんなボロボロになりながら命を張って守ってくれた…! コックピットの中で痛くて泣いとるのを見て、ワシは自分が情けなくて申し訳なくて死にたくなったわ…!」
トウジはガバッと顔を上げた。その目には、悔恨の涙がうっすらと滲んでいる。
「命を救ってもろうた恩人に、言葉だけで『ごめんなさい』言うて済ませるほど、ワシは腐っとらん! せやから碇、いやミレイ!」
トウジは一歩前に踏み出し、自分の両足を肩幅に広げて地面を踏み締めると、両手を後ろに組んで顎を突き出した。
「ワシを殴ってくれ!! あの時ワシが殴った分と、昨日ケガさせた分や! お前が納得するまで、ワシのツラを思いっきり殴ってくれや!!」
予想の斜め上を行く、あまりにも直球すぎる『ケジメ』の要求。ミレイは目を瞬かせ、呆気に取られたように立ち尽くした。
(ほ、本気で言ってるの? この人)
ミレイの脳裏で、冷静な本音がぐるぐると回る。
正直なところ一昨日殴られたことなんて、昨日のうちに綺麗さっぱり忘却の彼方へ処理済みだった。
昨日の戦闘で負った怪我だって、使徒を倒して生き残るための「必要経費」として計算の上で支払ったコストであり、トウジたちを恨む気持ちなど一ミリも残っていない。
おまけにコックピットの中でしくしく泣いていたのだって、単に神経接続の痛覚が限界を超えて涙腺のバルブがバカになっただけの生理現象である。
ミレイとしては『あれだけ劇的な姿を見せたら、二人がどんな風に恐縮してペコペコしてくるかな?』という、ちょっとした人間観察ドッキリを楽しんでいたつもりだったのだ。
「あのね、鈴原君。私は別に、もう一昨日のことなんて気にしていないし、わざわざ殴り返すような趣味は──」
「手抜きは無しや、ええから早うせい! せやないと、ワシの気持ちもおさまらん!」
ミレイが合理的に断ろうとした言葉を遮り、トウジは目をギュッと瞑り、さらにグッと頬を突き出してきた。
横を見れば、ケンスケが困ったように笑いながら、肩を竦めて言った。
「ま、こういう実直なやつだからさ。頼むよ」
(…やれやれ。本当に、不器用で暑苦しくて非合理的な人たちだね)
ミレイは小さく、けれどどこか悪くない気分でため息をついた。言葉で許すと言っても、この一本気な熱血漢のプライドと罪悪感は一生晴れないのだろう。
彼にとっての誠意とは自分も同じ痛みを受け止めることであり、それによって初めて対等なスタートラインに立てるという理屈なのだ。
(いいよ。そこまでお望みなら、私が直々にその重たい十字架を下ろしてあげる!)
ミレイは包帯の巻かれていない右腕をスッと上げ、華奢な拳を固く握り締めた。
ローファーの爪先で地面を蹴り、一歩踏み込む。腰の回転と体重をしっかりと乗せた、理想的なフォームからの右ストレート。
「──歯、食いしばりなさいよっ!!」
バチィィィンッ!!
乾いた快音が校舎裏に響き渡り、ミレイの小さな拳が、トウジの左頬へと寸分の狂いもなくクリーンヒットした。
「ぐおっ…!?」
一昨日のミレイと同じように、トウジの大柄な身体が横向きに吹き飛び、砂埃を上げて地面へと豪快に尻餅をついた。
「っ、いたぁ…! な、なんて硬い頬骨してんのよ、私の拳の方が割れそうなんだけど…!」
ミレイはジンジンと熱を持つ自分の右手首を押さえ、涙目で手をブンブンと振った。やっぱり暴力を振るうなんて、殴った側にもダメージが返ってくるからコストパフォーマンスが最悪である。
地面に尻餅をついたトウジは、赤く腫れ上がった自分の左頬を手のひらでさする。まるで憑き物が落ちたかのように、ニカッと太陽みたいな満面の笑みを浮かべた。
「へへっ。なんや、細い腕しとるくせに、なかなかええパンチ持っとるやないか!」
「だ、誰のせいで打ったと思ってるのよ、もう…っ」
ミレイは呆れ果てて頬を膨らませた。殴られて殴り返して、地面に座り込んだ不良が爽やかに笑っている。
(…なにこれ。拳と拳で語り合って友情が芽生えるとか、どこの昭和の少年バトル漫画よ。私のクールで知的な美少女ヒロインとしてのキャラクター設定が、完全にブレブレになっちゃうじゃない)
内心で盛大にツッコミを入れながらも、不思議と胸の奥はスッキリと晴れ渡っていた。
計算や損得勘定だけでは決して得られない、泥臭くて真っ直ぐな熱量がそこには確かにあったからだ。
トウジは砂を払って立ち上がるとミレイの前に歩み寄り、少し照れくさそうに鼻の下を擦りながら大きな右手を差し出してきた。
「これで、一昨日の分はチャラや。ほんで昨日はワシとケンスケの命を助けてくれて、ほんまにおおきに。あんたはワシらの大恩人や!」
「僕からも礼を言わせてくれよ、ミレイ。昨日は本当にカッコよかったし、すごく感謝してる。これからは、僕たちとも仲良くしてくれるかい?」
ケンスケも隣に並び、レンズの奥の瞳を真っ直ぐに向けて微笑んだ。昨日までは「転校生」「碇さん」だった呼び方が、いつの間にか自然な形で「ミレイ」へと変わっている。
ミレイは差し出されたトウジの大きな手と、二人の晴れやかな顔を交互に見比べた。
まったく、騒がしくて世話の焼ける連中だ。こんな二人と関わったら、目指していた平穏な学園生活からは、少しばかり遠ざかってしまうかもしれない。
──けれど。
「ふふ。いいよ、そこまで言うなら特別に仲良くしてあげる。ただし、次に私の顔を殴ったら、今度はエヴァの拳でデコピンするからね、トウジ、ケンスケ」
ミレイは悪戯っぽく微笑み、差し出されたトウジの手を、自分の右手でしっかりと握り返した。
「おう! 誰が二度と殴るか! これからはワシらが、学校中のどんなやつからもお前を守ったるわ!」
「ははっ、エヴァのパイロットを僕たちが守るっていうのもおかしな話だけど、気持ちはそういうことさ! よろしくな、ミレイ!」
強く握り交わされた手と手。
最悪の出会いから始まった三人の関係は、どんな計算式でも割り出せない「かけがえのない親友」へと変わっていた。
「さ、ケジメも済んだことだし、早く教室に戻ろうよ! 私の冷めちゃったお弁当、二人にちょっとだけおかずを分けてあげるから!」
「おっ、マジか!? お前、自分で弁当作っとるんか!?」
「それは楽しみだなぁ! 早く戻ろうぜ、トウジ!」
賑やかに笑い合いながら、三人は並んで明るい陽射しの差し込む校舎へと歩き出していった。
さぁて、次回もサービスサービスゥ!