新世紀エヴァンゲリオン 碇ミレイ 作:最高司祭アドミニストレータ
少女は、ゆっくりと重い瞼を開けた。
視界のピントが合うまでの数秒間、脳内のデータベースが直近の記憶を高速で検索し、現在の状況との照合を行う。
ここはどこだろう。少女ミレイは、直前までの記憶を整理することにした。
紫の巨人に乗り、第3新東京市のど真ん中で「使徒」と呼ばれる白黒の怪物と物理的な交戦状態にあったはずだ。
防戦一方の挙句、右の眼球を光の槍で焼かれ、左腕を関節の逆方向にねじ切られるという、労働基準法も真っ青な史上最悪の労働環境を強いられた。
その結果、神経接続を通じた致死量の痛覚フィードバックにより、私の意識は強制的にシャットダウンした。それが最後に保存された確実な記憶である。
しかし現在、この身体を包んでいるのは冷たいLCLの液体でもなければ、激痛を訴えるプラグスーツの圧迫感でもなかった。
少し固めのモケット生地の感触。一定のリズムで響く「ガタン、ゴトン」という車輪とレールの摩擦音。
ミレイは、電車の座席に腰を下ろしていた。
内装をぐるりと観察する。木目調の壁面、天井で首を振る古めかしい扇風機、そして独特の埃っぽい匂い。どこかの寂れたローカル線で走っていそうな、極めてレトロな電車の車内。
「状況の把握が必要ね」
冷静な声を無人の車内に落とし、ミレイは立ち上がった。
情報を収集すべく、視線を巡らせる。といっても前方から後方まで見渡せる一両編成の空間だ、わざわざ歩き回る必要はない。窓の外の景色を確認する。
「…どういうことなのかな」
外の様子が全く分からない。いや、正確には「理解不能」であった。
窓の向こうには、ただ果てしなく続く線路だけ。建造物はおろか、山も川も何一つ存在しない。
極めつけは、空が不気味な茜色に染まっているにもかかわらず、その光源となるべき「太陽」がどこにも存在しないことだ。
物理法則を完全に無視した空間。
「もしかして、私は死んでしまったのかな」
極めて妥当な推論である。先ほどの激痛とダメージを考慮すれば、肉体が限界を迎えていても不思議ではない。
とすれば、ここは三途の川ならぬ三途の電車か。これから天国に行くか、地獄に行くかの書類選考会場へ向かう途中なのだろうか。
ミレイは、自身のこれまでの人生十四年間を瞬時に振り返った。
「地獄行きは絶対にないね」
即座に結論を出す。他者に無用な迷惑をかけず、あの不器用な父親を言葉で蹂躙した程度。ただ己のQOLを高めるために、合理的に善良に生きてきた一市民だ。
もしこれで地獄行きなら、閻魔大王の評価システムには重大なバグがある。
「うん。死因を含めて、全部お父様のせいだね」
思考のベクトルを現実の敗因へと向ける。
そうだ。転倒してあのような無様な失態を演じたのは、ひとえにあの男が邪魔をしたからだ。
シートベルトも着用せずに背後に直立し、あろうことか慣性の法則に従って私の背中に物理的に激突してきたからである。あの不審な挙動がなければ、レバーへの入力が狂うことは絶対になかった。
ミレイは頭の中で、元々の「殲滅計画」を再生する。
『初号機の巨体と質量を利用し、路面の摩擦係数を計算した完璧なステップで接近』
『左足で踏み込んだ直後、腰の回転を乗せた右ストレートで敵のA.T.フィールドを中和しつつ、物理的にコアをピンポイントで粉砕。所要時間はわずか三分』
『その後は無傷で帰還しシャワーを浴び、空調をセットさせた快適な部屋で最高級のステーキを堪能する』
何度計算しても、父が同乗さえしていなければ余裕で倒せたビジョンしか見えない。
とはいえ──
「…私の頭の回転にも、ほんの少しだけ予測不足の責任があったかもしれない」
合理主義者として、わずか0.1パーセントほど自身の責任を客観的に検討してみる。父の体重と慣性を完全に制御しきれなかった自分の未熟さ。
しかし三秒後にその思考は棄却された。
「いいや。やっぱり100パーセントお父様が悪い。うん、そういう結論に至ったよ」
スッキリとした顔で頷くミレイ。事実なのだから仕方がない。
「もう。ミレイったら、お父さんのこと悪く言いすぎよ」
ふいに後ろから呆れたような、それでいて鈴を転がすような美しい声がした。
背筋が微かに粟立つ。この密室には自分しかいなかったはずだ。ミレイは警戒レベルを引き上げつつ、ゆっくりと振り向いた。
「…」
一人の女性が、向かいのシートに座っていた。
若い。ポンコツ送迎係と同い年か、もしくはさらに年下に見える。
彼女はぷぅっとハムスターみたいに頬を膨らませて、こちらを拗ねていた。その仕草すら計算されたあざとさではなく、純粋な愛嬌として成立するほどの圧倒的な美貌。
ミレイの記憶領域が、過去の映像記録と目の前の顔立ちを瞬時に照合し、完全に一致したと判定を下す。
ここで「あなたは誰?」などと知らないふりをするのはやめておこう。それは情報処理の無駄な遅延であり、何より、目の前の女性──己の母親である「碇ユイ」に多大な失礼だろうから。
「お母様? こんなオカルトみたいな空間で再会するなんて、想定外だったな」
「ふふっ。大きくなったわね、ミレイ。私そっくりで、とっても可愛いわ」
ニコリと微笑むユイ。
その圧倒的な母性に、ミレイの心の奥底にある隠れマザーコンが『はわわ…♡』とエラーを吐きそうになるが、鋼の自制心で何とか表情を保つ。
「ここは私の魂の中、それともエヴァの深層心理といったところかな? お母様から事情を説明してもらえると、すごく助かるんだけど」
「ええ、いいわよ」
そこから、少女は母から色々な話を聞かされた。
ゼーレという裏の組織の存在。彼らが目論む『人類補完計画』の全貌。そして、お母様が何故エヴァンゲリオン初号機に取り込まれたのかという真実。
「エヴァ初号機へのダイレクトエントリーで、私は意図的に肉体を失ったの。初号機のコアとなることで、ゼーレの野望を内部から阻止するためにね」
「…なるほど」
少女は深くため息をつき、その真実を少しだけ忘れたくなった。
母親が意図的に肉体を捨てたこと。これは、正直言ってはた迷惑な話であるが、世界を裏で牛耳る組織を止めるという明確なロジックが存在するため、まだいい。よくはないが、許容範囲だ。
しかし、『人類補完計画』は別である。
「人類の心の壁『A.T.フィールド』を取り払い、すべての魂を融合させて、単体の完全な生物へ人工進化させる…」
ミレイは言葉を反芻し、眉間を激しく揉んだ。
「これは酷い。極めて悪質ね」
「でしょう? だから私は──」
「完全なるプライバシーの侵害じゃない!」
「…え?」
「全人類の意識が共有される? 冗談じゃないわ。私が快適なベッドで眠る至福の感覚も、美味しいステーキの味覚も、お風呂上がりのリラックスタイムも、見ず知らずの赤の他人に全て筒抜けになるっていうことでしょう!? そんなの、私のQOLに対する重大なテロリズムだよ!」
ユイがポカンとしている。娘の怒りの焦点が「人類の尊厳」ではなく、「個人の生活環境の保護」に全振りされているからだ。
「なんとしてでも阻止しなきゃいけないね。私の究極のQOLのために。ついでに人類も救ってあげる」
「つ、ついでなのね」
「あのお父様は…救っていいのか、すごく悩ましいところだけど」
ミレイは思い出す。後ろでLCLに溺れ、最終的に物理的にぶつかってきて自分を死地に追いやったあの男を。
「誠に遺憾だけど、救ってあげよう。あれでも一応、父親だからね」
そこまで決意を固めたところで、ミレイは現実世界の状況を推測した。
「お母様。エヴァの活動限界まで、たぶんあと五分くらいかな。赤木博士の説明だと、内蔵電源が切れればエヴァは完全に動かなくなるらしいの」
「ええ。そうね」
「そうだ。お母様に動かしてもらえばいいんだ」
ミレイはパンッと手を打った。先ほどの話で、お母様は「活動限界になっても動かせる」と言っていた。
「私はもう右目と左腕をやられて、極度の疲労状態にある。労基署が機能していれば一発で業務停止命令が出るレベルだよ。だからここからの肉体労働は、お母様に委託するね。私は、特等席で応援することにするから」
なんと合理的なアウトソーシングだろうか。ミレイはふかふかの座席に深くもたれかかり、今後の展望に思いを馳せた。
「起きたら、私の操縦を邪魔したお父様にどうやってペナルティを与えてやろうかな。一週間口を利かない刑か。それとも、寝室のエアコン設定を強制的に二八度にする刑か。いやいや、サンドバッグ代わりにするのもありかな? ふふっ」
冷酷に、どこか楽しげに微笑んだミレイ。
──それがダメだった。
「…ミレイ?」
背筋が凍るような、圧倒的な冷気が車内を支配した。
ミレイが視線を向けると、先ほどまで慈愛の笑みを浮かべていたユイの表情が、完全に消え失せていた。
「何を考えているのかしら」
光の宿っていない、どこまでも暗く淀んだ瞳。ゴゴゴゴゴ…と、レトロ電車の車体が物理的に軋むほどのプレッシャーが、ユイの全身から放たれている。
「お父様を痛めつける? 私の愛するゲンドウくんを、いじめるの…?」
「あ…そ、それは…だってお父様が悪いんだもん! 邪魔してきたから…」
「そうね。確かにゲンドウ君は不注意だったわ。でもね」
ユイはさらに近づく。ミレイは思わず一歩、後ずさる。背中が電車の座席に当たる。逃げ場はない。
「私の大事な大事なゲンドウ君に、手を上げるなんて…どういうつもりかしら」
その笑みは、氷のように冷たい。
「傷つけるなんて、絶対に、許さないわ」
「ひぇっ」
ミレイの完璧な思考プロセスが、使徒のビームを浴びた時以上の特大の警報を鳴らした。
戦慄である。目の前の女性は、夫を狂気的なまでに愛している。その夫にペナルティを与えるなどという計画の立案は、彼女にとって万死に値する神への冒涜だったのだ。
(殺される…っ! 使徒じゃなくて、実の母親に…っ!)
この日、少女は魂の底から誓った。
この世界で絶対に怒らせてはならない存在は、使徒でもゼーレでもない。
『お父様ガチ勢』である、この実の母親なのだと。
碇ユイ「ゲンドウ君は天使!」
碇ミレイ「ヤクザ顔だから天使は似合わない男!」
碇ユイ「ほお〜?」
碇ミレイ「お父様は神!」
碇ユイ「ミレイ愛してる!」