新世紀エヴァンゲリオン 碇ミレイ 作:最高司祭アドミニストレータ
「知らない天井ね」
ゆっくりと目を開けた碇ミレイは、視界いっぱいに広がる無機質な白いパネルを見つめながら、静かにそう呟いた。アニメや漫画において、気を失った主人公が病室で目覚める際の、最もポピュラーな定型句である。
しかしミレイの思考は、そこから感傷的な方向へは一切向かわない。即座に現状の把握と、この環境がいかに快適かどうかのチェックへと切り替える。
身体を起こし、周囲を見渡す。特務機関NERVの医療区画と思われるその個室は、一人の患者を収容するには無駄に広すぎた。
壁際に置かれた心電図のモニターと点滴のスタンド以外、目立った家具はない。
(空間の使い方がもったいなさすぎるね。この無駄な空きスペースには高級アイスを常備するための大型冷蔵庫と、最新式のマッサージチェアを置くべきじゃないかな。設計した人のQOLへの意識の低さがよく分かるよ)
自分の体調チェックよりも先に内装へのダメ出しを頭の中でリストアップしつつ、ミレイは自分の着ている服に視線を落とした。
現在彼女が身に纏っているのは、胸元に『EVA-01』と黒字でプリントされた、真っ白な指定の検査着だ。
通気性の良い薄手の生地で、ゆったりとしたラップドレスのような構造になっている。
その「ゆったり感」が逆に厄介だった。前を合わせる紐の結び目が緩いせいか、少し動くだけで胸元のV字の隙間が広がり、華奢な鎖骨や滑らかな肌の起伏が露わになりかける。
さらにベッドの上に投げ出された下半身は、ガウンの裾が大きくはだけて、太腿から膝にかけてのラインが完全に無防備な状態で外気に晒されていた。
(これもまた、理にかなっていない服だね。保温性が低いし、ちょっと動いただけで肌が見えちゃう。患者の羞恥心を煽って、無駄なエネルギーを使わせる気なのかな)
非効率な衣服に呆れながら、はだけた検査着の胸元を直そうとした──その時である。
「じ〜…」
右耳のすぐ側から、声に出して放たれた擬音が聞こえた。
ミレイがビクッと肩を揺らして横を向くと、ベッドのすぐ脇に、一人の少女が立っていた。
淡い水色のショートヘアに、透き通るような白い肌。そして、すべてを見透かすような赤い瞳。交差点の陽炎の中で見かけた、あの少女だ。
彼女は、上半身をベッドへ大きく乗り出し、ミレイの顔を至近距離で覗き込んでいた。
ミレイが勢いよく上体を起こしたため、二人の顔面距離は数センチまで接近していた。互いの前髪が触れ合い、相手の吐息が鼻先を掠めるほどの、パーソナルスペースの完全なる侵害。
あと数ミリ動けば、唇と唇が接触してしまう距離である。
(なっ…!)
ミレイは内心で大きく仰け反り、身体を後ろに引いた。まばたきをしても、少女は消えない。幽霊や幻覚の類ではない。純然たる物理的質量を持った、本物の人間だ。
「何か用?」
「具合は、どう?」
ポツリと、感情の起伏を一切排した、静かで抑揚のない声が紡がれる。その極端な口数の少なさと表情の乏しさに、ミレイの頭の中にある人物の顔がフラッシュバックした。
(この声帯の震えの少なさと、コミュニケーションを放棄したような態度…どこかの最高司令官にそっくりだね。この組織は、無口じゃないと採用されないルールでもあるのかな)
内心で小さくため息をつきつつ、ミレイはなるべくフラットな声で返す。
「問題ないよ。…ところで状況を確認したいんだけど、あの使徒との戦いはどうなったの?」
「初号機が暴走して、殲滅したわ」
「なるほど」
水色の髪の少女──綾波レイの短い報告に、ミレイはすべてを悟った。あの魂の空間で、亡き母に「あとの肉体労働は任せるね」と外注した結果である。ミレイの冴え渡る頭脳は、気を失っている間に起きた惨劇の様子を完璧に予想していた。
おそらく初号機が折れた左腕を瞬時に再生し、怪物のA.T.フィールドを紙切れのように引き裂き、そのまま力任せにコアを粉砕。使徒の自爆プロセスすら力技でねじ伏せて生還したのだろう。
(お母様の仕事の早さ、素晴らしいね。これで今日のステーキは確約されたも同然。アウトソーシングのコスパとしては最高の結果じゃないかな)
安堵の息を吐き、これからの夕食のメニューに思考を切り替えようとしたその時。
ドバァァァンッ!!
病室のドアが、蝶番が吹き飛ぶほどのすさまじい勢いで蹴破られた。
「ミレイッ!! 無事か!!」
響き渡る大音声。
オレンジ色の色付き眼鏡を顔の半分にズラし、髪を振り乱した特務機関NERV最高司令官が、文字通り転がり込むように突入してきたのだ。
その後ろには、黒服の男が慌てて付き従っている。
「お、お父様…?」
ゲンドウはベッドに飛び込むなり、ミレイの両肩をガシッと掴んだ。そして、前後に激しく揺さぶり始めたのである。
「怪我はないか!? 痛むところはないか!? 眼球は!? 腕は!? 私の可愛いミレイに万が一のことがあったら、私は世界を滅ぼすぞ!!」
「あばばばばっ!?」
親バカの暴走による、物理的な猛烈シェイク。
ただでさえ緩かった検査着の襟元がさらに乱れ、白い肩が大きく露わになるが、ゲンドウの目は娘の生存確認で血走っており、それどころではない。
脳髄が頭蓋骨の中でシェイカーのように振られ、ミレイの意識が再び遠のきそうになった時。
「碇司令。揺すりすぎです。患者の脳に深刻なダメージを与えます」
レイが淡々とした声で、ゲンドウの腕をピタリと掴んで制止した。その声には一切の感情がこもっていなかったが、ゲンドウはハッとして手を離した。
「す、すまない。取り乱した」
「げほっ、ごほっ」
ベッドに倒れ伏し、荒い息を吐くミレイ。
(なんなの、この人は…! 娘を心配するあまり、物理的に破壊してどうするつもり!?)
ミレイの心の奥底にある隠れファザコンのメーターが、不器用すぎる父親の愛情表現に『きゅんっ♡』と跳ね上がりかけたものの、直後に受けた脳震盪クラスのダメージがそれを即座に吹き飛ばし、理性を呼び覚ましてくれた。
大きく息を吸い込み、乱れた襟元を直して睨みつけようとしたその時である。
ミレイの目が、重大な違和感に気づいた。
アームホルダーで吊られた腕、全身のあちこちに巻かれた痛々しい包帯。そして、その下には白い特殊ラバー素材──エヴァ用のプラグスーツが着込まれているのが見えた。
(おかしいな。プラグスーツを着たまま、さらにその上から無数の包帯を巻いているのはどうしてだろう)
ミレイの合理的な頭が、瞬時に一つの恐ろしい仮説を弾き出した。この少女は、初号機とは別の機体の専属パイロット。そして、これほどの重傷を負っている。
にもかかわらずプラグスーツを着用し、いつでも出撃できる状態を維持させられていた。
「…お父様」
ミレイの声の温度が、一気に氷点下まで下がった。
「一つ、確認したいんだけど。もし私がエヴァに乗るのを拒否して帰っていたら…あなたはこの、怪我をして包帯を巻いた女の子を、あの怪物の前に立たせるつもりだったの?」
病室の空気が凍りついた。
ゲンドウはビクッと肩を震わせ、スッと不自然に目を逸らした。
レイは何も言わず、コクリと頷いた。
後ろの黒服の男は、「うちのトップが本当にすいません」と言わんばかりの顔で冷や汗を流している。
(…真っ黒だ)
ミレイの中で、何かが完全にキレた。
自身の生活環境を破壊するだけならまだしも、重傷の未成年を無理やり戦場へ駆り出そうとするなんて、労働基準法違反どころか非人道的なブラック企業の極みである。
しかも目の前にいる少女は、亡き母に酷似した顔立ちをしているのだ。そんな少女を平気で死地へ送ろうとする父親の業の深さに、ミレイの怒りメーターはついに限界を突破した。
「…碇司令」
「な、なんだ、ミレイ…」
ミレイは無言でベッドから降りた。ペラペラの白いガウンの裾が翻り、素足が病室の冷たい床を踏みしめる。ゆっくりと足首を回し、手首をほぐす準備体操を始めた。
「私、今すごく感動しているよ。組織のトップが、ここまで救いようのないブラック上司だったことにね」
「ミ、ミレイ? お前、何を…」
「悪の組織は、不当に扱われた労働者の手で解体されなきゃいけないんだから」
ミレイがここまで本気でキレた理由は、その極悪非道なブラック采配だけではない。
(青みがかった髪。赤い瞳。色素こそ違うけれど、その顔立ちのベースとなる骨格や造形…私と、そしてお母様によく似ている!)
ということは、だ。
(クローン? それとも愛人の子? 隠し子? ──いずれにせよ、亡き妻の面影を持つ少女を集めて手元に置き、あまつさえ危険な兵器に乗せて使い潰そうとしているなんて…この人、どこまで業が深いの!)
ミレイは腰を落とし、完璧なフォームで助走のポーズを取った。ロボットアニメの主人公が最終決戦で叫ぶような、最高に澄み切った声が病室に響き渡る。
「覚悟して、お父様! 碇ミレイ、いっきま〜〜すっ!!」
ダンッ! と床を蹴る音。十四歳の少女の体重と遠心力、そして日頃の鬱憤をすべて乗せた完璧な右ストレート。
それが、逃げ遅れた最高司令官の鳩尾にクリーンヒットした。
「ぐふぁっ!?」
見事な打撃音と共に特務機関NERV最高司令官は宙を舞い、病室の壁に激突してずり落ちた。オレンジ色の眼鏡がパリンと割れ、ゲンドウは白目を剥いて完全に悶絶している。
「悪は滅びたわ…ふふっ、すごくスッキリした」
見事な一撃。最高司令官への暴力という社会的なリスクは伴うが、鬱憤を晴らしたことによる精神的なデトックス効果は絶大だ。控えめに言って最高に気持ちよかった。
ミレイが己の戦果に満足し、再びベッドに戻って快適な睡眠を貪ろうとしたその時である。
「…許さない」
背後から、底冷えするような声が聞こえた。
振り返ると、そこに立っていたのは綾波レイだった。先ほどまでの感情の読めない無機質な少女ではない。
その赤い瞳は、怒りと敵意に爛々と燃え上がっていた。
「私の碇司令に対して、なんてことを…ッ」
その声音、その抑揚、そして圧倒的なプレッシャー。それはミレイが先ほどの魂の空間で対峙した、あの『碇ユイ』を完璧に想起させるほど恐ろしいものだった。
「ひぇっ…!」
ミレイの背筋に、使徒のビームを浴びた時以上の特大の悪寒が走った。
お母様、そこにいたんだね。このクローン(?)の少女の中に、お父様ガチ勢である母親の魂の欠片がインストールされているのだと、ミレイは本能で悟った。
思い出した。三途の電車の中で誓ったはずだ。お父様ガチ勢の母を、絶対に怒らせてはならないと。
「ち、違うの! お母様、じゃなくて綾波さん! これには深い事情があって! だから、そんな殺気を放ちながら突っ込んできちゃだ──」
弁明の余地は与えられなかった。
愛するゲンドウを傷つけられ、完全に理性を吹き飛ばしたレイの強烈な頭突きが、ミレイの顔面にクリーンヒットした。
「あべしっ!」
見事なカウンター。視界が真っ暗に暗転する中、ミレイの意識は急速にフェードアウトへと移行していった。
(どうして、私が…こんな目に…っ)
かくしてQOLを愛する少女は、「お父様ガチ勢」というこの世で最も理理不尽な暴力の前にあっけなく敗北し、壁際で伸びている父親の隣に仲良く倒れ伏して、その日の活動を強制終了させられたのだった。
次回はゼーレ会議を予定しています。