新世紀エヴァンゲリオン 碇ミレイ 作:最高司祭アドミニストレータ
間違いなく泣く。
作者は泣いた…ぐすんっ。
第三新東京市の夜を、青いスポーツカーが低いエンジン音を響かせながら滑るように走っていく。
窓の外には、人工的に建造された高層ビル群の無機質な灯りが流れていくが、車内の空気は外の夜風よりもはるかに重く、そして冷え切っていた。
葛城ミサトの所有するスポーツカーの車内は、本来であれば大人が快適に過ごせるほどの広さはない。ましてや、助手席のスペースには明らかな物理的異常が発生していた。
援助交際で連れ出されたわけでも、これからホテルに向かって怪しいビデオの撮影に臨むわけでもない。そもそも、運転席でハンドルを握っているのは特務機関NERVの戦術作戦局第一課長であるミサトなのだ。
やましいことなど何一つない。ただ、助手席には「親子」が座っている。それだけのことだった。
問題なのはその親子の片割れが、NERVの最高司令官たる碇ゲンドウであるという事実だ。
「ミレイと離れるわけにはいかない」と強硬に主張したゲンドウは、狭い車内の助手席に強引に乗り込み、結果として十四歳の娘と大柄な中年男性が助手席のスペースに無理やり身を寄せ合うという、極めて異様で窮屈な空間が出来上がっていた。
「あ、あはは。碇司令が、一緒に私の車に…あははははっ…!!」
運転席のミサトは完全にぶっ壊れたような引き攣った笑い声を漏らしながら、絶望のオーラを撒き散らしていた。額からは滝のように冷や汗が流れ、ハンドルを握る手は小刻みに震えている。
直属の最高上司を乗せ、その上司が死んだ魚のような虚ろな目をしているのだ。無理もない。
しかし、絶望のオーラを撒き散らしているのはミサトだけではなかった。
隣に座るミレイもまた、内心で深い絶望の淵に沈んでいたのである。
(どうしよう…空気が重すぎる…)
ミレイはシートの端に身を縮めながら、隣で微動だにしない父親の横顔をこっそりと窺った。
オレンジ色の色付き眼鏡の奥の瞳は焦点が合っておらず、肩はだらりと落ち、その背中からは哀愁という言葉では片付けられないほどの強烈な負のオーラが立ち昇っている。
原因は明白だった。他でもない、ミレイ自身の発言である。
愛しい愛しいお父様が、わざわざ自分のために八十枚にも及ぶ渾身の手紙を書き上げ、「一緒に住まないか」と勇気を出して誘ってくれたのだ。娘の快適な生活環境を第一に考えた、あの不器用な男なりの最大級の愛情表現だった。
それに対してミレイは恐れ多くも「えっ、すごくキモいよ」と、身も蓋もない暴言を吐き捨ててしまったのである。
(違うの、お父様…! 本当はあの手紙、すごく嬉しかったの! 額縁に飾って毎晩拝みたいくらい、愛を感じていたのよ! ただ私のプライドと生活環境のペースを握られたくないっていう防衛本能が、あんな可愛くない言葉を言わせちゃっただけで…っ!)
内心で猛烈な自己嫌悪に陥りながら、ミレイは膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。
ファザコンである彼女にとって、大好きな父親をここまで落ち込ませてしまったことは、使徒との戦闘で左腕をねじ切られた時以上の精神的ダメージだった。
(でもこのままこの重い空気を引きずっていくのは、お互いの精神衛生上絶対によくないよね)
ミレイは息を吸い込んだ。
自分が悪いのだから、自分から歩み寄るべきだ。そう頭では分かっている。けれどいざ隣の父親の様子を見ると、言葉をかけるタイミングが完全に見失われてしまう。
思っていた以上に予想を遥かに超えるレベルで、ゲンドウはその一言を深く引きずっていたのだ。まるで世界の終わりに直面したかのように、彼は一切の言葉を発さず、ただ暗い窓の外を見つめ続けている。
やがて重苦しい沈黙を乗せたまま、車は目的のマンションの地下駐車場へと到着した。
エンジンが切られ、静寂が降りる。
「と、到着しましたぁ! ささお二人とも、どうぞこちらへ!」
ミサトが逃げるように車を降り、裏返った声で案内を急かす。
ミレイとゲンドウも、無言のまま窮屈な助手席から身体を抜け出させた。ひんやりとした地下の空気が、少しだけ火照ったミレイの頬を冷やしていく。
ミサトがそそくさと先頭を歩き、その後ろをミレイとゲンドウが数歩の距離を空けて続く形になった。
エレベーターホールに到着し、上層階のボタンが押される。
箱の中は、やはり息が詰まるほどの沈黙に支配されていた。ミサトは階数表示のランプを穴が開くほど見つめ、ゲンドウは腕を組んだまま俯いている。ミレイは視線を泳がせながら、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
『チンッ』という軽い電子音と共に、目的の階に到着する。
扉が開いた瞬間、ミサトは「鍵を開けてきますね!」と、まるで追っ手から逃れるかのような猛スピードで廊下を駆け出していった。
静寂の夜の廊下。
虫の音と、遠くの道路を走る車の微かな走行音だけが響く中、ミレイは少しだけ前を歩く父親の大きな背中を見つめていた。
ミサトとの距離が完全に離れ、二人の間に誰も入り込めないだけの空間ができたその時だった。
「ミレイ」
唐突にゲンドウが足を止め、口を開いた。その声はひどく掠れていて、いつもの最高司令官としての威厳など微塵も感じられなかった。
ミレイも足を止め、父親の背中を見上げる。
ゲンドウはゆっくりと振り返り、真っ直ぐに娘の瞳を見つめ返してきた。街灯の薄暗い光に照らされたその顔には、隠しきれない後悔と苦悩の影が色濃く刻まれている。
「すまない」
絞り出すような、たった一言。
ミレイは少しだけ目を瞬かせた。
「…どうしたの、急に」
わざとらしくないように、少しだけ困ったような笑みを浮かべてみせる。手紙のことをまだ気にしているのだろうか。それなら「言い過ぎた」と謝る準備はできている。
だが、ゲンドウの口から紡がれた言葉は、ミレイの予想を遥かに超える重みを持っていた。
「あの手紙のことだけではない。お前に謝らなければならないことは、山のようにある」
ゲンドウは一つ一つ言葉を確かめるように、ゆっくりと語り始めた。
「十年前のことだ。私はお前を、知人の元へ預けた。まだ四歳だったお前を、見知らぬ駅のホームに置き去りにして、私は逃げるように立ち去った。毎月の仕送りだけは欠かさなかったが、それだけだ。今回の呼び出しの手紙を送るまで、私はただの一度も、お前に連絡すらしようとしなかった」
金銭面で不自由をさせたつもりはない。親としての愛情を形にして届けることを、彼は完全に放棄していた。その事実を彼は今、逃げることなく愛娘の前に突きつけている。
ミレイの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
物心ついた時から、自分のことは自分でやるのが当たり前だった。生活の質を向上させるため、家事も料理もすべて完璧にこなしてきた。寂しいと思ったことはない。そう思い込ませてきた。
けれど、心のどこかでずっと問いかけたかった言葉が、自然と唇からこぼれ落ちた。
「どうして、一度も会いに来てくれなかったの?」
責めるようなトーンではなかった。純粋な、十四歳の少女としての疑問。
ゲンドウは苦しげに顔を歪め、ぎゅっと拳を握りしめた。
「怖かったのだ」
その告白は、あまりにも弱々しいものだった。
「私はユイを失った。私の世界のすべてだった妻が目の前で消え去り、私は絶望の底に突き落とされた。そんな時、ユイの面影を色濃く残すお前の顔を見るのが、たまらなく恐ろしかったのだ。お前の瞳の中に、私を置いていったユイの姿を探してしまう自分が。そして何より…不器用な私がこれ以上関われば、お前を深く傷つけてしまうのではないかという恐怖が、どうしても拭えなかった」
自分の弱さをさらけ出し、ただ頭を下げる父親の姿。
ミレイは、静かにその言葉を受け止めていた。
大人の事情。勝手な言い分。そう切り捨てるのは簡単だが、ミレイには分かっていた。この男がどれほど妻を深く愛し、そして失ったことでどれほど深く壊れてしまっていたかを。
「…色々と事情があったんでしょ。なら仕方ないよ」
ミレイは、努めて明るい声で言った。同情でも諦めでもなく、それは事実としての受容だった。
そのミレイの態度が、逆にゲンドウの心を激しく揺さぶった。
「どうして、どうしてお前はそんな風に笑っていられるんだ?」
ゲンドウの声が震える。
「私を、恨んではいないのか? 父親らしいことを何一つしてこなかった、こんな身勝手な男を…お前は憎いと思わないのか?」
悲痛な問いかけ。
それに対し、ミレイはゆっくりと首を横に振った。
「過去は、変えられないから」
夜の静寂の中に、少女の澄んだ声が響き渡る。
「駅に置き去りにされたことも、十年間放っておかれたことも、確かに事実だよ。でも、時間は戻らないし時計の針は止まってくれない。過去を嘆いて立ち止まっていても、私の生活は一ミリも良くならないでしょ?」
ミレイは一歩、また一歩と、ゲンドウに近づいていく。
「大切なのはこれからだよ。前へ進むしかないんだから。お父様が過去を悔やんでいる暇があるなら、これからの私の生活を全力で快適にしてくれるよう努力してほしいな」
そう言って見上げたゲンドウの瞳からは、大粒の涙が溢れ落ちていた。秘密組織のトップが娘の前で、子供のようにボロボロと涙を流して泣いているのだ。
ミレイはそっと手を伸ばし、父親の頬を伝う冷たい涙を自分の小さな指先で優しく拭い去った。
「泣かないで、お父様。私は、あなたを許すよ。だからもう、自分を責めないで」
ゲンドウは大きく目を見開き、自分の頬に触れているミレイの小さな手にそっと触れた。
「ミレイ…お前も、泣いているじゃないか」
「え…?」
ゲンドウに指摘され、ミレイはハッとして自分の頬に手を当てた。
指先がしっとりと濡れている。気づかないうちに、自分の目からも大粒の涙がとめどなく溢れ出していたのだ。
クールで合理的な自分。生活の質を第一に考える計算高い自分。そんな分厚い鎧が、父親の涙と手の温もりによって、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
ずっと、寂しかった。
ずっと、お父様に褒めてほしかった。頭を撫でてほしかった。
私はただ、普通のお父様が欲しかっただけなんだ。
「っ、お父様ぁっ!」
ミレイは耐えきれずゲンドウの広い胸の中に勢いよく飛び込み、その背中に腕を回して強く抱きしめた。
「ずっと、ずっと会いたかったよぉっ!」
声を上げて泣きじゃくる娘を、ゲンドウは戸惑いながらも抱きしめ返した。
十年間の空白を埋めるように、二人は互いの温もりを確かめ合うように強く抱き合い続けた。
夜の冷たい風も、今は二人の間にある絶対的な温もりを奪うことはできなかった。
「ず、ずびぃぃぃぃぃっ…!! うわぁぁぁん、よかったねぇ、ミレイちゃぁぁん…!!」
不意に、背後から盛大な鼻をかむ音と、大号泣する声が響き渡った。
ミレイがビクッとして振り返ると、そこには部屋の鍵を開けたまま廊下に立ち尽くし、ハンカチで顔を覆いながら滝のように涙を流している葛城ミサトの姿があった。
「な、なんで葛城一尉が泣いてるの…」
「だ、だってぇ…! あんまりにも感動的な親子の再会だったからぁ…! 私まで、もらい泣きしちゃってぇ…!」
しゃくり上げながら号泣するミサトの姿があまりにも滑稽で、ミレイは思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、あはははっ」
つられるように、ゲンドウの口元にも柔らかな笑みが浮かぶ。
「ふっ、相変わらず騒がしい女だ」
先ほどまでの重苦しい絶望の空気は、もうどこにもなかった。
ミレイとゲンドウは顔を見合わせて笑い合い、そしてごく自然な動作で、お互いの手をしっかりと繋ぎ合った。
父親のゴツゴツとした大きな手と、娘の華奢で小さな手。二人は手を繋いだまま、泣き喚くミサトが待つ部屋の玄関へと、足取りも軽く歩き出した。
これで、やっと普通で平和な親子の時間が始まる。
美味しいご飯を食べて、温かいお風呂に入って、綺麗なベッドで眠る。そんなQOLが保障された、新しい生活が待っているはずだった。
「ささぁどうぞ入ってください! 散らかってますけど、遠慮せずに!」
目を赤くしたミサトが、愛想笑いを浮かべながら玄関のドアを大きく開け放つ。手を繋いだまま玄関の敷居を跨ぎ、リビングへと足を踏み入れたミレイとゲンドウ。
「なんだ、この惨状は」
繋いでいたゲンドウの手がピクリと強張り、地獄の底から響くような絶望と怒りの入り混じった声が、リビングに重く響き渡った。
ミレイは言葉を失い、目の前の光景に釘付けになっていた。
そこは、文字通りの『ゴミ屋敷』であった。
足の踏み場もないほどに散乱する、レトルトカレーの空き箱。カピカピに干びたカップ麺の容器。中身の破片が散らばったスナック菓子の袋。
そしてリビングのテーブルから床に至るまで、まるでボウリングのピンのように大量に並べられたビールの空き缶の山。
空気中には酸化した油の匂いと、アルコールの饐えた臭いがツンと漂っている。
(嘘でしょ…?)
ミレイの完璧な頭脳が、処理落ちを起こしてフリーズした。
先ほどゲンドウの誘いを断るための口実として「葛城一尉の部屋がゴミ屋敷だったとしても」と言ったのは、あくまで適当にでっち上げた仮定の話だったのだ。
まさかそれが寸分の狂いもない現実として、完璧なバイオハザード空間を形成しているとは、ミレイの予想を遥かに超える事態だった。
「葛城一尉ッ!!」
ゲンドウの怒声がゴミ屋敷の壁をビリビリと震わせた。最高司令官としてではなく、愛する娘の保護者としての本気の激怒である。
「お前はこの劣悪極まりない環境に、私の大事なミレイを住まわせるつもりだったのか!? ここは人間の住む場所ではない! ダストボックスだ! 衛生観念はどうなっている!? 娘が病気になったらどう責任を取るつもりだ!!」
「ひぃぃぃぃっ!? す、すいません! 最近忙しくて片付ける暇がなくてぇぇっ!」
怒り狂うゲンドウの説教と、土下座の勢いで平謝りするミサトの声が交差する。
そんな二人のやり取りを他所に、ミレイはピクピクと引き攣る頬を抑えながら虚ろな瞳で部屋を見渡した。
(私、これからここで暮らすの…?)
さっきまでの感動の涙は、完全に乾ききっていた。
少女の前に立ちはだかったのは、使徒よりも恐ろしく父親の愛情よりも重い、「片付け」という名の終わりの見えない超絶ハードタスクであった。
さぁて、次回もサービスサービスゥ!