魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第一話
暗い場所だった。
狭くて、カビの匂いがした。襖の細い隙間から、一筋だけ光が差しこんでいる。
ずっとここから外を見ていた。
もうすぐ、朝が来る。朝が来たら、ここにはいられない。それだけは、なぜかわかっていた。
死にたくない、と思った。
前は、そんなことを思ったこともなかった。
指先で、うなじの結び目に触れた。
ほどいた。髪が、音もなく背中に落ちた。
死にたくない。
その声を聞く者は、どこにもいなかった。
*
瞼の裏が白く焼けて、如月玲佳は目を開けた。
カーテンが半分開いたままになっている。二十五階の窓の向こうには空しかなく、遮るもののない朝の光が、寝台の足元まで床を伸びていた。
上体を起こすと、掛布団の下から髪が引きずり出された。腰の下まで届く白い髪が、シーツの上で幾筋にも分かれて光を撥ねる。寝る前に束ねたはずの髪は、ほどけていた。枕の下を探っても、髪ゴムは見つからなかった。
枕元の時計は六時四十分を指している。目覚ましより二十分早い。
右手を顔の前に持ち上げた。薬指に、細い銀の指輪が嵌まっている。
五本の指を開くと、指輪は付け根からふわりと浮き上がった。細い銀の輪が、掌へ落ちていくわずかな間に形を変える。掌に収まったときには、もう卵の形をしていた。鏡のように磨かれた銀のソウルジェムが、寝起きの、深い紅の目を小さく映し返す。
その下のほう、三分の一ほどが黒く濁っていた。
「……昨日」
思い出そうとして、何も出てこなかった。
学校から帰ったところまでは覚えている。玄関で靴を脱ぎ、鞄をソファに置いた。その先がない。魔女を狩りに出たような気もするし、ずっとこの部屋にいたような気もする。どちらの手触りも、同じくらい薄かった。
ソウルジェムを親指で傾ける。濁りは底に溜まった泥のように、少しも揺れない。
狩りに出たなら、グリーフシードを持ち帰っている。手に入れたその場で浄化するのが、いつものやり方だ。濁りが残っているのなら、出ていない。
「出てない、はず」
声にすると、それが正しいように聞こえた。この濁りは、部屋と自分の身体に張った結界の維持に食われた分だろう。いつもより少し多い。少しだけだ。
寝室を出ると、リビングにはまだ夜の冷たさが残っていた。一人で暮らすには広すぎる部屋で、四つある個室のうち、玲佳が毎日開けるのは寝室と書斎の二つだけだった。
壁際の飾り棚は、越してきたときから置いてあるアンティークだ。上から二段目の引き出しを開けると、黒い小さな卵の上下から、針が一本ずつ突き出たようなものが、紺の布の上に七つ並んでいた。
一つを摘まみ、ソウルジェムに近づける。濁りが煙のように吸い出されて、グリーフシードの中へ流れ込んでいった。数秒で、ソウルジェムは曇りのない銀に戻る。鏡面に、今度は天井の照明がくっきりと映った。
使い終えたグリーフシードは、窓際の小皿に置いておく。放っておけば、あれが勝手に片付けに来る。
ソウルジェムを指輪に戻したところで、ローテーブルの上のものが目に入った。
住所と会社の名前が縦に並んだ紙が一枚。上から四つに、赤いペンで印がついている。これは覚えていた。五つ目の名前には、まだ何もついていない。
その隣に、本が一冊伏せてあった。
表紙の擦り切れた、北欧の古い詩の本だ。玲佳のものだった。何度も読み返して、どのページに何が書いてあるかも大体は頭に入っている。
伏せた覚えだけが、なかった。
拾い上げると、開いていたのは神々の終わりを語る歌の、終わり近くのページだった。炎の剣を携えた巨人が、南から来る。
玲佳はしばらくその一行を眺めてから、何も挟まずに本を閉じ、鞄に入れた。
*
制服に着替え、髪は束ねずに家を出た。束ねるのは寝るときと、体育のある日だけだ。今日の時間割に体育はない。
E棟のエントランスを抜けると、駅へ向かう人の流れに混ざる。すれ違った会社員が、二、三歩行き過ぎてから振り返った。信号待ちの小学生が、隣の子の袖を引いてこちらを指さした。
白い髪と、白すぎる肌と、血を透かしたような深い紅の目。見られることには慣れていた。そうする以外のやり方を、玲佳は知らなかった。
身体に薄く張った結界は、魔力の気配を外へ漏らさない。
自分の身体を、天の国に見立てる。地上のどんな目も、天の国の内側を覗くことはできない。そういう古い信仰を、薄い膜にして纏っている。住んでいる部屋にも、同じものを張ってあった。魔女の嗅ぎ回る気配も、魔法少女の鋭い感覚も、膜の内側には届かない。
届くのは、人の五感だけだった。目と、耳と、鼻と、肌と、舌。
だから、人の目までは遮ってくれない。
見滝原中学校の校舎は、壁のほとんどがガラスでできている。三年の教室も例外ではなく、朝の光が机の列を斜めに切っていた。
最後列の端の席に座り、鞄から本を出す。さっきのページを避けて、適当なところを開いた。
教室の前のほうで、女子が数人固まって話していた。
「二年に転校生来たんだって」
「この時期に?」
「すっごい美人らしいよ。黒髪で、髪こんなに長くて」
「東京から来たって聞いた」
「ずっと入院してたらしいよ。見滝原病院に」
ページをめくろうとした指が、止まった。
病院の名前のどこに引っかかったのか、自分でもわからなかった。指先に、紙の角がわずかに食い込んでいる。玲佳はページをめくった。
「あの人とどっちが美人かな」
誰かが言い、誰かが小声でたしなめた。扉のそばの席の、茶色い髪の小柄な子が、ちらりとこちらを見てすぐに目を伏せた。
転校生の話は、一時間目のチャイムが鳴るまで途切れなかった。学年が違っても、転校生が来れば一日はその話題で持つ。この学校ではいつもそうだった。
一時間目は数学だった。
教師が黒板に証明を書いていく。三行目で、結論までの道筋は見えていた。中学の三年間で習うことは、もうひととおり頭に入っている。授業は、答えの分かっている問題を他人が解いていくのを眺める時間だった。
玲佳の机の上には、閉じたままのノートが一冊置いてあるだけだった。ペンは、筆箱から出してもいなかった。黒板を眺めながら、玲佳は鞄の中の本のことを考えていた。
伏せられたページ。炎の剣。
自分で読んで、自分で伏せて、それを忘れた。そう考えるのが一番簡単で、一番それらしい。昨日の記憶がないのも、同じ理由で説明がつく。疲れていたのだろう。
授業の終わりまで、玲佳は一度も手を挙げなかった。ノートも、最後まで開かなかった。指されれば答えるし、答えは合っている。それで、教師のほうももう何も言わなくなっていた。
*
放課後、駅へ向かう途中で、右手の薬指が熱を持った。
取り壊しを待つ古い商店街の、シャッターの降りた裏通りだった。錆びた看板の下で、空気が歪んでいる。
玲佳は、人目のないことを確かめてから、その歪みに踏み込んだ。
足元のアスファルトが、黄ばんだ紙の床に変わった。天井から、古い手紙のようなものが何千枚も垂れ下がって、風もないのにかさかさと鳴っている。その奥に、魔女がいた。何枚もの紙を重ねて人の形にしたような、背の高い影。顔のあるべきところに、墨で塗り潰した丸が一つだけ描いてあった。
紙を折って作った小鳥のような使い魔が、足元から湧き出して、群れになって押し寄せてくる。
玲佳は、変身した。白い布のローブが、紙の匂いのする空気の中で揺れた。首元で、銀の十字架が小さく跳ねた。
右手を開く。
指の間から、一振りの剣が滑り出てきた。飾り気のない、まっすぐな刃。ある騎士が、最期に岩へ叩きつけて折ろうとしても、岩のほうが割れたという。決して折れない聖剣、デュランダル。
群れが足首に届く前に、玲佳は一歩だけ前へ出た。
剣を、横に一度だけ払った。
押し寄せていた紙の小鳥が、刃の軌跡に沿って、まとめて千切れ飛んだ。
魔女が、身をよじった。垂れ下がっていた紙が一斉に剥がれ、刃のように硬くなって、四方から玲佳めがけて降り注いでくる。
玲佳は、動かなかった。
降ってくる紙の軌道は、剥がれた瞬間に全部見えていた。当たるものだけを、剣の腹で弾く。三枚。それ以外は、どれも玲佳の身体の横を、髪一本の距離で通り過ぎていった。
紙の雨が止んだ。
魔女の胴の真ん中に、一本の線が走っていた。いつ斬られたのか、魔女自身にもわからなかったのだろう。墨の丸が、ゆっくりと傾いた。
紙の床が、燃え尽きた灰のように崩れていく。シャッターの降りた裏通りが戻ってきて、足元に、黒い卵が一つ転がっていた。
玲佳はそれを拾い上げて、鞄の内ポケットに落とした。
変身を解いて、駅のほうへ歩き出した。
*
玲佳は、駅前のショッピングモールに寄った。
見滝原で一番大きなモールで、三階の書店は市内のどこよりも棚が深い。平日の夕方でも、フードコートのある一階は制服姿の中高生で埋まっていた。
神話と宗教の棚を端から端まで見て、洋書の棚と文庫の棚も見て、最後に店員に訊いた。探している本は、原書も、英訳も、邦訳も置いていなかった。取り寄せには二週間かかるという。
玲佳の魔法は、神話や伝承に語られる武具を写し取る力だった。書物に記された形と力を、そのまま手の中に呼び出す。本物ではない。写しにすぎない。それでも、記述が詳しいほど、写しは本物に近づいていく。一行でも多く知っていれば、それだけ刃は鋭くなる。
だから、そういう本ばかり読んできた。いつからそうしているのかは、思い出せなかった。
「無い……。ここならあると思ったんだけど」
注文票は書かなかった。二週間後の自分がこの本をまだ読みたいと思っているのか、わからなかった。
書店の向かいはCDショップで、店先に試聴機が並んでいる。
その一台の前に、見滝原中の制服を着た子が立っていた。桃色の髪を耳の上で小さく二つに結び、ヘッドホンを両手で押さえて目を閉じている。隣では、青い髪を短く切った子が、棚のCDを一枚ずつ抜いては戻していた。
二年生だろう、と玲佳は思った。どちらの顔にも見覚えはない。
通り過ぎようとして、足が半歩遅れた。
夜の、湿った草の匂いがした。モールの中に、そんなものがあるはずはない。瞬きをすると、匂いはもうどこにもなかった。
桃色の髪の子が、不意に目を開けた。ヘッドホンを外し、何かを探すように左右を見回す。誰かに名前を呼ばれた人の顔だった。けれど、その子のそばで口を開いている者は一人もいない。
青い髪の子が声をかけ、桃色の髪の子は首を振った。ヘッドホンを試聴機に戻して店を出ると、フロアの奥の階段へ歩いていく。上の階へ続くその階段には、途中に黄色いテープが渡され、看板が立てかけてあった。改装工事中。関係者以外立ち入り禁止。
青い髪の子が、慌ててその後を追った。
玲佳は、二人がテープの前で立ち止まるところまでは見なかった。下りのエスカレーターに乗り、手すりに片手を預ける。
一階の端にあるコンビニで、夕食になりそうなものを適当に買って帰るつもりだった。
その自動ドアの手前まで来たところで、耳の奥に何かが引っかかった。
玲佳は足を止め、意識を聴覚に寄せた。フードコートの喧騒、店内に流れる音楽、子どもの泣き声、レジの電子音。それらを一枚ずつ剥がしていくと、その下に、風船が割れたような乾いた音が残っていた。
ぱん、と。
少し間を置いて、もう一度。
周りの誰も、顔を上げなかった。聞こえた者がいたとしても、どこかで子どもの風船が割れたとしか思わないだろう。
風船は、同じ場所で同じ間を置いて二度は割れない。
銃声だ、と玲佳は思った。音は、吹き抜けのはるか上から降りてきていた。三階の、テープの張られた階段の、さらにその先から。
自動ドアが開いて、冷えた空気が足元に流れ出してくる。
玲佳は、その前から動かなかった。