魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第十話
学校から帰ると、リビングのローテーブルいっぱいに、地図が広げてあった。
駅の観光案内所で配っている、見滝原の市街図だった。杏子はその上に腹這いになって、赤いペンで何か書き込んでいる。玲佳が鞄を置く音に、顔も上げずに言った。
「ちょっとこれ見てくんない?」
玲佳は着替えもせずに、杏子の隣に膝をついた。
地図の上には、赤い線が何本も引かれていた。駅前の繁華街から、川沿いの道を通って、住宅街の外れまで。線の途中に、小さな丸がいくつも打ってある。
「マミの狩りの道筋。だいたい、こんな感じで回ってる」
「……なんで知ってる?」
「昔、ちょっとだけ組んでたからさ」
杏子は、ペンの尻で地図を叩いた。その声が、ほんの少しだけ硬かった。
キュゥべえが、君もよく知っている、と言っていたのを玲佳は思い出した。
「夕方になると、あいつはたいてい駅前のこのへんにいる。あたしがわざと見つかって、裏通りに引っ張り込む。日が沈んだら、あとはこっちのもんだ」
杏子は、路地が網の目のように入り組んだあたりに、大きく丸をつけた。
「暗いとこなら、あたしのほうが分がある。あいつは昔から、見えないとこから来るやつが苦手なんだよ」
「新しい子は?」
「新入りは、夜になると一人で使い魔を追っかけてる。何日か見てたけど、毎晩だよ。真面目なこった」
杏子は、別の色のペンで、町外れのあたりを囲んだ。
「そっちは、玲佳に頼みたい」
玲佳は地図を見下ろした。
駅前の丸と、町外れの丸。二つの間は、歩いて三十分以上離れている。
「マミって子のほうを、私がやったほうがいい」
玲佳は言った。
「その子のほうが強いんでしょ。新しい子なら、杏子一人で十分」
「だめだ」
杏子は、即座に首を振った。
「マミは、あたしがやる。あいつとは、あたしがケリつけなきゃなんないんだよ」
それ以上は言わなかった。玲佳も、踏み込まなかった。杏子が地図の上の駅前の丸を見る目が、りんごをむいていたときの目とは、まるで違っていたからだ。
しばらく黙ってから、杏子は付け足すように言った。
「新入りは、殺すなよ。痛い目見せて、この街から叩き出せりゃそれでいい」
玲佳は、杏子の横顔を見た。
「……杏子がそう言うなら」
杏子は満足そうに頷き、地図を畳みはじめた。
玲佳は、畳まれていく地図の上で、駅前の丸が紙の折り目に消えていくのを見ていた。
あの丸のところに、今夜、杏子が一人で行く。
右手の薬指の指輪を、左手の指でそっと撫でた。冷たかった。
*
ファストフード店の窓際の席で、暁美ほむらは、ワルプルギスの夜について知っていることを話した。
今日の夕方、魔女の結界の中で、巴マミと鉢合わせた。一緒に戦ったというより、同じ魔女を別々の方向から追い詰めたと言ったほうが正しい。結界が消えた後、どちらからともなく、この店に入った。
巨大な歯車に、逆さまに吊られた人形のような姿。結界を持たず、現れるだけで嵐を呼ぶ。弱点は、頭部。頭が本体だと、ほむらは言った。
マミは、途中で一度も口を挟まなかった。話が終わると、冷めかけたコーヒーを一口飲んで、息を吐いた。
「よく調べたわね。どうやって調べたのか、教えてほしいくらいだわ」
ほむらは、答えられなかった。
ワルプルギスの夜について訊かれれば、いくらでも答えられる。数え切れないほど、あれと向き合ってきた。けれど、なぜそれを知っているのかを訊かれると、言葉が喉の奥で止まる。
「……ごめんなさい」
「いいわよ、別に」
マミは、あっさりと言った。
「暁美さんが話したくなったときに、話してくれれば」
ほむらは、目を伏せた。
何度も繰り返してきた中で、マミにこんなふうに言われたことが、あっただろうか。思い出そうとして、やめた。
マミが、何気なく窓の外に目をやった。
その目が、大きく見開かれた。
「……佐倉さん?」
ほむらも、窓の外を見た。
人混みの中を、赤い髪を後ろで一つに結った少女が歩いていく。後ろ姿しか見えなかった。それでもマミは、確信したように呟いた。
「戻ってきたのね……」
ほむらは、マミの横顔を見た。
悲しんでいるようでもあった。怒っているようでもあった。どこか、喜んでいるようにも見えた。そのどれとも言い切れない、全部が一度に浮かんでは消えていくような顔だった。
佐倉杏子。この時間軸でも、あの子はこの街に戻ってきた。いつもより、少し早い。
ほむらがそう考えている間に、マミはもう席を立っていた。
「巴マミ——」
呼び止める声は、店の自動ドアに遮られた。ほむらは鞄を掴んで、後を追った。
駅前の雑踏を抜け、角を曲がり、また曲がる。金色の髪が、人の頭の向こうに見え隠れする。その先を、赤い髪がちらりと横切った気がした。
三つ目の角を曲がったところで、どちらも見えなくなった。
西の空が、赤から紫に変わりはじめていた。
*
赤い髪の背中は、一度も振り返らなかった。
巴マミは、人の波を縫ってその背中を追った。見失いそうになると、少しだけ歩みが緩む。見失わない距離を、向こうが測っている。わかっていて、マミは足を止められなかった。
繁華街の明かりが遠ざかり、通りから人が消えていく。シャッターの降りた店の並ぶ裏通りに入ったところで、赤い髪が、細い路地へ吸い込まれた。
路地の入口で、マミは立ち止まって、一度深く息を吸った。
それから、踏み込んだ。
空気を裂く音がした。
考えるより先に、身体が左へ跳んでいた。一瞬前までマミが立っていた場所を、一本の槍が真上から貫き、アスファルトを砕く。
着地と同時に、マミは変身していた。黄色いリボンが身体を包み、その手にマスケット銃が生まれる。銃口を、槍の飛んできた方角へ向けた。
路地の奥で、佐倉杏子が舌打ちした。
「相変わらず、勘だけはいいね」
地面に刺さった槍が、鎖のような音を立てて杏子の手元へ戻っていく。杏子は、それを肩に担いで笑った。
マミは、銃口を下げなかった。
「……貴女、見滝原を取りに来たの?」
「当たり前、だろっ!」
杏子が跳んだ。
槍の間合いに入られる前に、マミは引き金を引いた。魔力の弾が、杏子の胸元へまっすぐ飛ぶ。杏子はそれを、槍の柄で弾いた。その隙に、マミは次の銃を生み、また撃つ。弾かれる。撃つ。
杏子は、正面からは来なかった。路地の壁を蹴り、反対側の壁へ跳び、また蹴る。両側から迫る細い路地が、そのまま杏子の足場になっていた。上から、横から、斜め後ろから、槍の穂先が降ってくる。
マミは、一歩も下がらなかった。宙に銃を並べ、撃っては捨て、次を掴む。弾が壁を穿つたびに、コンクリートの粉が白く舞った。
槍の柄が、節ごとに外れた。鎖でつながった穂先が、鞭のようにしなって路地を横に薙ぐ。マミは身を沈めてそれをかわし、地面に這わせておいたリボンを跳ね上げた。黄色い帯が、杏子の足首に絡みつく。
「捕まえた」
「甘いっての」
杏子は、宙で身体をひねった。槍の穂先が、足首のリボンを根元から断ち切る。着地と同時に、もう一度跳んだ。
知っている動きだった。身体のひねり方も、着地のときの足の向きも、次にどちらの壁を蹴るのかも。マミは、杏子が跳ぶより先に、その行き先へ銃口を向けていた。
撃った。
杏子は、空中でそれを槍の腹で受けた。受けた弾を横へ逸らして、ビルの壁の配管の上に、軽く降り立った。
「……あたしの跳び方、まだ覚えてんだ」
「教えたのは、私だもの」
言ってから、マミは唇を噛んだ。口にするつもりのなかった言葉だった。
杏子の顔から、一瞬だけ笑みが消えた。
「だったら、あたしだって、あんたの撃ち方は全部わかってる」
杏子が、配管を蹴った。
繰り返しだった。
どちらも、まだ本気ではなかった。マミには、杏子を撃ち殺すつもりなどなかった。杏子の槍にも、急所を狙う鋭さはまだない。互いの手の内を、確かめ合っているような戦いだった。
銃を撃ちながら、マミは言った。
「無理よ、佐倉さん。この街には、もう三人の魔法少女がいるの。貴女一人じゃ、どうにもならないわ」
「だから?」
「一人で相手をするには、多すぎると言っているのよ」
杏子の動きが、一瞬止まった。
その口の端が、にやりと吊り上がった。
「……誰が、一人だって言った?」
マミが問い返すより早く、路地の上に細く見えていた空から、最後の赤みが消えた。
暗くなった。
この路地には、街灯が一本もなかった。ビルの壁に挟まれた細長い闇の中で、杏子の輪郭が、すっと溶けて見えなくなる。
目が、まだ闇に慣れていない。
「……まさか」
最初から、これを待っていたのだ。日が沈むまでの時間稼ぎだった。
マミは銃を構えたまま、魔力の気配を探った。右か。左か。杏子の魔力は、闇の中で妙にぼやけていて、掴めない。
焦るな、と自分に言い聞かせた。見えないなら、感じればいい。落ち着いて、気配を辿れば——
「これで、終いだよ」
声は、真上から降ってきた。
弾かれたように顔を上げると、二メートルほど上に、杏子がいた。
槍の切っ先を、まっすぐマミの頭に向けて。
にやりと笑いながら、落ちてくる。
*
銃声と、それを弾く金属の音が、ほむらの耳に届いた。
遠くない。ほむらは、音のするほうへ走った。
角を曲がるたびに、路地は暗くなっていった。日は、もう完全に沈んでいる。さらに一つ角を曲がったところで、闇の中に、金色の髪がぼんやりと浮かんで見えた。
マミだった。
銃を構えたまま、呆然と上を見上げている。
その姿に嫌なものを感じて、ほむらは、左腕の盾に手をかけた。中の砂時計を、止める。
世界から、音が消えた。
止まった闇の中を、ほむらは駆け寄った。マミが見上げている先に、落ちてくる途中の杏子がいた。空中で静止した槍の切っ先が、マミの額まで、あと一メートルもない。
ほむらはマミの身体を抱え、四メートルほど横へ運んだ。
それから、手を離した。
時間が、流れ出す。
杏子の槍が、さっきまでマミが立っていた地面を砕いた。
「っ!?」
杏子の目が、大きく見開かれた。
驚きは、一秒も続かなかった。杏子は地面から槍を引き抜き、振り向きざまに、突然現れたもう一人へ切っ先を向ける。
「何しやがった、テメェ!」
その切っ先の先に、ほむらはもういなかった。
杏子の、背後に立っていた。
杏子は、振り返らずに舌打ちした。
「……そうか。あんたが噂のイレギュラーってやつか。妙な手品使いやがる」
「あなたが、佐倉杏子ね」
「なんだ、どっかで会ったか?」
杏子は、肩越しにほむらを見た。
「……いや、マミの仲間なら知ってても不思議じゃないか。手の内がまるで見えないってのは、気持ち悪いね。今日のところは、降りさせてもらうよ」
杏子は、槍を振った。穂先と柄の間が鎖でつながった多節の槍が、しなって伸び、ビルの非常階段の手すりに絡みつく。
「どうせ向こうは、上手くやってくれてるだろうしな」
鎖が縮み、杏子の身体を一気に屋上まで引き上げた。赤い髪が、夜空の端に一瞬だけ見えて、消えた。
「大丈夫?」
ほむらが振り返ると、マミは地面に座り込んでいた。怪我はなさそうだった。
「ええ……私は、大丈夫。だけど」
マミは、杏子が消えた屋上を見上げていた。
「佐倉さん、一人で来たんじゃない、って言っていたわ。向こうは上手くやってくれてる、って……」
ほむらは、息を止めた。
佐倉杏子に、協力者。
何度繰り返してきた中でも、杏子が誰かと組んで見滝原に来たことは、なかった。心当たりが、一人もいない。
一人もいないはずの誰か。モールの上の階に、もう一人いた。マミが、公園でそう言っていた。
「美樹さんが、危ないわ」
マミが、立ち上がった。
「あの子、今夜も一人で使い魔を追っているはずよ」
ほむらは答えずに、もう走り出していた。