魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第十一話
町外れのCDショップで、さやかは二枚のCDを見比べていた。
「やっぱベートーヴェンかなあ。でも、バッハのオルガンもいいって言ってたし……」
どちらも、恭介が前に好きだと言っていた演奏家のものだった。あの日以来、恭介の手は動くようになった。指が弦を押さえられるようになったと、看護師さんがこっそり教えてくれた。退院したら、また弾いてくれるだろうか。そのとき、どっちを聴きたいと言うだろう。
右手の薬指が、ちりっと熱を持った。
さやかは、CDを棚に戻した。
ソウルジェムの反応を辿って、路地裏の奥へ入っていく。商店街の明かりが届かなくなったあたりで、空気が歪んでいる場所を見つけた。
変身する。青いマントが肩に広がり、手に護拳のついたサーベルが生まれる。さやかはそれで、空間の歪みを縦に切り裂いた。
中は、青かった。
壁一面に、テレビの画面のようなものが浮かんでいる。見覚えがあった。仁美たちが倉庫で操られていた、あの夜の結界と同じだった。
画面の間を、羽の生えた人形のような使い魔が一体、ふわふわと漂っている。球体の関節をかくかくと揺らし、へらへらと笑っていた。
あの魔女の、使い魔だ。
「あいつの子分か。ま、初心者のあたしには、ちょうどいい相手だよね」
さやかはマントを翻して、その場で一回転した。足元に、サーベルが何本も突き立つ。その一本を引き抜き、使い魔めがけて投げつけた。
外れた。
二本目。ひらりと避けられた。三本目、四本目も、使い魔はけたけたと笑いながら宙を舞ってかわしていく。
「ちょっと、なんで当たんないのよ!」
五本目、六本目、七本目を、立て続けに投げた。そのうちの一本が、使い魔の羽をかすめそうになる。
「いける——」
その瞬間、頭上から、回転しながら何かが落ちてきた。
西洋の剣だった。それはさやかのサーベルを真横から叩き折り、地面に深々と突き刺さった。
「……へっ?」
さやかは、剣が飛んできた方角を見上げた。
宙に、一人の少女が立っていた。
足の下には、何もなかった。浮かんだ画面の一枚の上、何もない空間に、まるでそこに見えない床でもあるように、当たり前の顔で立っていた。
白かった。
最初に目に入ったのは、それだけだった。結界の青い光の中で、その少女のいるところだけが、切り抜かれたように白い。
髪は、腰の下まで届いていた。結界の中を流れる風に、長い髪がゆっくりと持ち上がり、ほどけ、また落ちていく。一本一本が細い光の糸のようで、画面の青を受けて、毛先だけが淡く透けていた。
肌は、雪よりも白かった。白すぎて、血が通っているようには見えない。陶器の人形だと言われたら、信じてしまったかもしれない。
その白の中に、目があった。
深い、紅だった。血を透かしたような色の、ガーネットを嵌め込んだような瞳。その二つの紅だけが、この少女が生きていることを告げていた。
顔立ちには、まだ幼さが残っていた。頬の線も、顎の形も、大人になりきる手前で止まっている。それなのに、いや、だからこそなのか、その顔は、この世のものではないように見えた。完成する前の彫像を、完成させずにおいたほうが美しいと誰かが決めたような。
さやかは、息をするのを忘れていた。
恭介の弾くヴァイオリンが、一番高い音に届いた瞬間。音が消える寸前の、あの張りつめた静けさ。それを、目で見ているような気がした。
綺麗だ、と思った。
自分のサーベルを叩き折った相手だということも、一瞬、頭から抜け落ちていた。
服も、白かった。
魔法少女の衣装と呼ぶには、あまりにも飾り気がない。白い布を一枚まとっただけのような、フードのないローブ。マミのリボンも、転校生の盾も、自分のマントもない。魔術師のような、どこか祭服のような服だった。
飾りと呼べるものは、胸の真ん中の模様だけだった。細い線で描かれた円の中に、五角形が一つ。その内側に、見たことのない文字が一つ刻まれていた。縦に引いた一本の線の、上と下に、互い違いの向きで小さな鉤がついたような形だった。
首元からは、細い鎖が下がっていた。その先で、銀色の十字架が揺れていた。鏡のように磨かれていて、結界の青をそのまま映し返している。
あれが、あいつのソウルジェムなのだろうか。
見とれている間に、使い魔がけらけらと笑いながら、路地の奥へ逃げていく。
「あっ、待っ——」
さやかが一歩踏み出したとき、白い少女が、ひょいと指先を下へ向けた。
嫌な予感がして、さやかは反射的に一歩下がった。一瞬前までさやかが立っていた地面に、二本目の剣が音を立てて突き刺さった。
その間に、使い魔は消えていた。結界も、潮が引くように消えていく。路地裏の汚れた壁と、切れかけた街灯が戻ってきた。
白い少女は、ふわりと地面に降り立った。手を開いたり閉じたりして、何かの調子を確かめている。
「ちょっと! あんたのせいで、使い魔が逃げちゃったじゃない!」
「……だから?」
「だから、って……あれ、放っといたら誰かが殺されるのよ!?」
「別にいい。使い魔なんか狩るだけ無駄だし、魔力がもったいない」
「な……」
さやかは、言葉を失った。
「襲われる人を、見殺しにするっていうの?」
「そう」
即答だった。
少女は、退屈そうに路地の奥を見ていた。さやかのほうを見てさえいなかった。
いつの間にか、その右手に、黒漆の鞘に納まった一振りの刀が握られていた。
さやかと少女の間は、十メートル。遮るものは、何もない。
さやかは、地面を蹴った。
*
速い。
正面から突っ込んでくる青い少女を見て、玲佳は思った。契約して日が浅いにしては、悪くない速さだった。
振り下ろされたサーベルを、上半身をひねるだけでかわす。
勢いを殺しきれずに、青い少女は玲佳の横を駆け抜けた。すぐに振り返り、また斬りかかってくる。
横薙ぎ。鞘で受け流す。刃と鞘が擦れて、火花が散った。
袈裟斬り。半身を引いて、かわす。
突き。鞘の先で、切っ先を逸らす。
刀は抜かなかった。抜く必要がなかった。玲佳は、ほとんどその場から動かずに、打ち込まれるすべてを捌きながら、相手を見ていた。
踏み込みの癖。剣を振るときの肩の開き。呼吸の間。
戦う前に、まず相手を分解する。どこが強く、どこが弱いか。どう崩せば、どこが空くか。
契約したばかりの頃の玲佳は、強くなかった。縄張りを奪いに来る魔法少女は、何人もいた。その全部を退けて、生き延びるには、考えるしかなかった。一つの戦いで覚えたことを、次の戦いに使う。それを、何度も繰り返してきた。
分析は、すぐに終わった。
脅威ではない。
頭上から振り下ろされた一撃を鞘で受け止め、強く押し返した。
「おわっ!?」
青い少女の身体が、後ろへ仰け反った。
その胸の真ん中に、玲佳は蹴りを叩き込んだ。
鈍い音がした。青い少女の身体が、弾かれたように後ろへ吹き飛ぶ。十メートルほど先のビルの壁に背中から激突して、地面に転がった。
「が……っ、は……」
少女は、血を吐いた。
あばらは、ほとんど折れているはずだった。普通の人間なら、あれで終わっている。
ところが、少女の身体を、青い光が包みはじめた。音符のような模様が浮かび、傷口に吸い込まれていく。治していた。それも、玲佳が見たこともないほどの速さで。
少女は、サーベルを杖のようにして、よろめきながら立ち上がった。
「誰が……あんたみたいな奴に……」
玲佳は、眉をひそめた。
回復に特化した魔法少女らしい。ならば、痛めつけても、すぐに起き上がってくる。殺さずに叩き出すには、少し面倒な相手だった。
それなら、心を折ればいい。
玲佳は、鞘に手をかけた。
腰を落とし、両脚に力を溜める。踏み込んだ。
十メートルを一息に詰め、刀を抜き放つ。源頼光が土蜘蛛を斬ったと伝わる刀、蜘蛛切。その刃が、青い少女の肩口へ走る。
少女は、それを本能で察したらしかった。いつもより太く重いサーベルを生み出して、刃を受け止める。勢いを殺しきれずに、身体ごと数メートル後ろへ滑った。
玲佳は、止まらなかった。
二の太刀、三の太刀。上から、横から、下から。一撃ごとに、少女のサーベルが軋み、腕が跳ね上がる。反撃の隙など、どこにも与えなかった。
それでも、少女は倒れなかった。
崩す手は、三つ見えていた。
どれも、選ばなかった。
この子が次に何をしてくるのか、もう少しだけ見ていたかった。
「負けない……負けるもんかぁっ!」
上からの一撃を、少女はサーベルでまともに受けた。
サーベルが、真っ二つに折れた。衝撃で、少女の身体が大きく揺れる。
少女は、なおも前に出た。
折れたサーベルを捨て、新しいサーベルを生み出しながら、玲佳の懐に潜り込んでくる。その切っ先が、玲佳の腹を狙っていた。
玲佳は、大きく後ろへ身を引いた。切っ先は届かなかった。ただ、無理に身体をひねったせいで、足元がぐらついた。
「はあああぁぁっ!」
崩れた体勢に、少女が突っ込んでくる。
かわせない。そう判断した瞬間、玲佳は自分から後ろへ倒れ込んだ。刺突が、頭の上を通り過ぎる。倒れながら、少女の足首に自分の足を掛けた。
「がっ!?」
少女の身体が宙で半回転し、後頭部からアスファルトに叩きつけられた。
玲佳は、すぐに身を起こした。倒れた少女に向かって、刀を振り上げる。峰を返すつもりだった。これで、しばらくは起き上がれない。
その腕が、止まった。
『そこまでよ。佐倉さんのお仲間さん?』
頭の中に、直接声が響いた。
知らない声だった。落ち着いた、大人びた声。
佐倉さん。杏子のことだ。
この声の主は、杏子を知っている。杏子の仲間が、ここにいると知っている。
今夜、杏子は一人でマミという魔法少女のところへ行った。そのマミの仲間が、ここに来ている。杏子と戦っているはずの相手が、ここにいる。
なら、杏子は。
考えるより先に、答えが出ていた。
杏子と戦っていた相手が、無事にここへ来られる理由は、一つしかない。
「あ……ああ……」
また、だ。
また、守れなかった。守ると決めたのに。あの箪笥の中と同じだ。自分だけが生き残って、大切な人が、また。
音もなく、目の前に黒い髪の少女が現れた。
今、この瞬間まで、そこには誰もいなかった。黒い髪の少女は、紫の瞳でまっすぐに玲佳を見て、口を開いた。
「佐倉杏子は——」
言うな。
その先を、言うな。
喉が裂けるほど、叫んでいた。手の中の刀が、いつの間にか別のものに変わっていた。身の丈ほどもある、大剣。竜を殺した英雄の剣、グラム。
それを、黒い髪の少女めがけて、力任せに振り下ろした。
*
大剣がアスファルトを割る音を、ほむらは止まった世界の外で聞いた。
時間を止めたのは、白い少女が剣を振り上げた瞬間だった。倒れていた美樹さやかを担いで、ビルの角の向こうまで運ぶ。そこで、時間を戻した。
さっきまで自分たちがいた場所に、巨大な剣が叩きつけられていた。地面が、すり鉢状に抉れている。
「あえっ!? え、ここ、どこ?」
腕の中で、さやかが目を白黒させた。
「私が運んだのよ。感謝しなさい」
「……なにそれ。ムカつく言い方」
さやかは言い返しかけて、途中で口を閉じた。その目が、ほむらの肩越しに、ビルの角の向こうへ吸い寄せられていた。
ほむらはさやかを地面に降ろし、ビルの角から、向こうを覗いた。
路地の反対側の出口に、マミが立ち尽くしているのが見えた。テレパシーで呼びかけた張本人だった。マミの顔から、血の気が引いていた。
白い少女を中心に、風が生まれていた。
最初は、つむじ風のようなものだった。それが、見る間に膨れ上がっていく。白いローブが、ちぎれそうなほどにはためいた。少女は、獣のような声を上げて、血走った目で辺りを見回していた。
少女の背中に、何かの気配が広がっていた。
翼の気配だった。輪郭を結ばないまま、雪のように白い何かが、少女の背から左右へ、途方もなく大きく伸びている。そこにあるのはわかるのに、目で捉えようとすると、形が崩れて風に紛れた。
『暁美さん、あれ……』
マミが、テレパシーで呼びかけてきた。ほむらは答えなかった。答えられなかった。
何度繰り返してきた時間の中でも、あんな魔法少女は見たことがない。
風が、壁を削りはじめた。
ビルの外壁のタイルが、一枚、また一枚と剥がれて、宙に吸い込まれていく。アスファルトがめくれ上がり、砕けて、舞い上がる。街灯の柱が根元から折れて、紙切れのように飛んでいった。
ほむらは、さやかの腕を掴んで、さらに後ろへ下がった。マミにも、下がるよう合図を送る。
轟音がした。
路地の両側にあった倉庫が、屋根から順に崩れて、瓦礫ごと空へ巻き上げられていく。積み木の家を、子どもが手で払いのけるように。
この辺りが、夜になると人の来ない倉庫街でよかった、とほむらは思った。すぐに、それが何の慰めにもならないことに気づいた。
風が止んだのは、それから一分ほど経ってからだった。
*
気がつくと、周りに何もなかった。
建物も、街灯も、アスファルトも。自分を中心に、半径五十メートルほどが、ただの剥き出しの地面になっていた。月の光が、それを白く照らしている。
黒い髪の少女は、いなかった。青い少女も、いなかった。
全身が、軋んでいた。骨という骨が、内側から悲鳴を上げている。何をしたのか、よく覚えていなかった。ただ、身体の中を、自分のものではない途方もない何かが通り抜けていった感触だけが残っていた。
首元に、手をやった。
ロザリオの形をしたソウルジェムが、指先に触れた。持ち上げて、見る。
真っ黒だった。
鏡のような銀の輝きは、どこにもなかった。
玲佳は、震える手で、空間の裂け目からグリーフシードを取り出した。ソウルジェムに近づけると、黒いものがどろりと吸い出されていく。グリーフシードは、たちまち真っ黒に膨れ上がった。玲佳はそれを、遠くへ放り投げた。
ソウルジェムに、わずかに銀が戻った。
杏子。
名前を呼ぼうとして、声が出なかった。
玲佳は、足を引きずって歩きはじめた。どこへ向かっているのか、自分でもわからなかった。ただ、止まったら、もう二度と動けなくなる気がした。