魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第十二話
どうやって帰り着いたのか、覚えていなかった。
気がつくと、玲佳はリビングのソファに横たわっていた。部屋の明かりは点いていない。閉めたカーテンの隙間から、街の光が一筋だけ、天井に細く伸びていた。
指先を動かそうとした。
「……っ」
電流のような痛みが、肘から肩へ駆け上がった。
骨に罅が入っている、くらいに思っていた。違った。折れている。一本や二本ではない。腕を持ち上げようとしても、途中で力が抜けて落ちた。筋が、どこかで切れている。脚も、背中も、同じだった。
今まで歩けていたのが、不思議なくらいだった。
上半身を起こそうとして、腹に力を込めた。
「——っ!」
視界が白く弾けた。全身を、焼けた針で縫われたような痛みが貫いた。
玲佳はソファに沈み込み、浅い息を繰り返した。
治せない。
身体を強くする魔法なら、誰にも負けない自信があった。その代わりのように、治す魔法はほとんど使えない。擦り傷くらいなら塞がる。けれど、骨が折れれば、それを繋ぐのに何週間もかかる。だから、これまで一度も、大きな傷を負わないように戦ってきた。
今夜、その全部を、自分で壊した。
杏子の顔が、浮かんだ。
「杏子……」
奥歯が、かちかちと鳴った。止めようとしても、止まらなかった。
玲佳は、口の中で何かを呟いた。何を言ったのか、自分でもわからなかった。誰に向けた言葉なのかも、わからなかった。
目を閉じた。瞼の間から、熱いものが溢れて、ソファの布に染みていった。
意識が、暗いほうへ沈んでいった。
*
小さな女の子が、殴られていた。
殴っているのは、大人の男だった。父親だ、と思った。父親だったと、記憶している人だった。その手に、角材が握られている。振り下ろされるたびに、女の子の身体が床の上で跳ねた。
女の子の髪は、白かった。目は、赤かった。
誰だ。
自分と同じ髪をして、自分と同じ目をしたこの子は、誰だ。
場面が変わった。
教室だった。女の子が、何人もの子どもに囲まれている。突き飛ばされ、髪を引っ張られ、背中を蹴られている。
「ウサギはウサギ小屋にでも入ってろよ、白ウサギ!」
教室中が、どっと笑った。先生の机には、誰も座っていなかった。
こんな記憶は、ない。
私の家は、何の問題もない、幸せな家だった。そう、覚えている。
また、場面が変わった。
病院の診察室だった。女の子が、丸椅子にちょこんと座っている。壁の時計の針は、八時三十分を指していた。
白衣の医者が、隣に立つ母親に何か話していた。医者の口は動いているのに、肝心の言葉だけが、ざらついた雑音に塗り潰されて聞こえない。
「お子さんには、 の兆候がありますね」
「え……? この子が、 ?」
雑音が膨れ上がって、診察室が掻き消えた。
暗い部屋で、男が怒鳴っていた。
「お前が だと? ふざけるな!」
「ご、ごめんなさい……」
「謝って済むかよ!」
蹴り飛ばされた女の子の指が、ありえない方向に曲がっていた。白い腕にも、脚にも、数え切れないほどの痣が浮かんでいた。
「痛い……やめて……」
「この出来損ないが!」
「うるさいわね。静かにさせてよ」
女の声が、どこか遠くから言った。
「押し入れにでも入れておけばいいじゃない」
頬を張られ、女の子は押し入れの中へ押し込まれた。襖が閉まる。真っ暗になる。
「出して! お願い、ちゃんとごめんなさいするから!」
襖は、開かなかった。
女の子は、叫ぶのをやめた。
暗闇の中で、膝を抱えて、じっと襖を見ていた。その目の奥で、何か黒いものが煮え立っていた。
みんな、死んじゃえ。
みんな、殺されちゃえ。
絶対に、許さない。
女の子から溢れ出してくるものに、玲佳は思わず目を背けた。見なければいけない気がした。知らなければいけない気がした。それでも、顔を上げられなかった。
押し入れの暗がりに、白いものが座っていた。
女の子と同じ白い身体に、同じ赤い目をした、小さな獣。
「僕と契約して、魔法少女になってよ」
「……なんでも、叶えてくれる?」
「どんな願いでも、一つだけ。その代わり、君は魔女と戦うことになる」
「なる。魔法少女に、なる」
「君の願いは?」
女の子の口が、開いた。
その言葉が聞こえる前に、また雑音が走った。
白い病室だった。
白いベッドの上に、白い女の子が横たわっていた。部屋の白さに溶けてしまいそうなほど、白かった。
女の子は、震えていた。
笑っていた。
死んだのだ。あの二人は、死んだのだ。自分の願いで。自分の力で。
女の子は、身体を折り曲げて笑い続けた。人の声とは思えない、ひび割れた笑い声だった。
違う。
これは、私じゃない。
私は、親を恨んでなんかいない。殺したいなんて、一度も思ったことがない。私の願いは、こんなものじゃなかった。
本当に?
どこからか、声がした。
本当に、違う?
これは、私じゃない。これは、ただの夢だ。
本当に?
本当に、夢?
*
屋上の手すりに鎖を解かせて、杏子はそのまま隣のビルの屋上へ跳んだ。
もう一つ。さらにもう一つ。路地から十分に離れたところで、ようやく足を止めた。給水塔の陰に腰を下ろして、槍を消す。
息は、少しも上がっていなかった。それが、かえって腹立たしかった。
「……くそ」
降りさせてもらう、と言った。自分の口で。
マミは、あたしがやる。あいつとは、あたしがケリをつける。玲佳の前で、あれだけはっきり言っておいて、このざまだった。あの黒い髪のイレギュラーが何をしたのかは、わからない。わからないものに、背中を取られた。それだけで、退いた。
賢い判断だった。わかっている。それでも、奥歯が軋んだ。
目を閉じると、落ちていく途中で見た顔が浮かんだ。
槍の切っ先の、すぐ下。マミは、銃を構えたまま、こちらを見上げていた。
怯えた目ではなかった。怒っている目でもなかった。
知っている目だった。
昔、マミの部屋で、紅茶のカップ越しにこちらを見ていた目。佐倉さんは、筋がいいわ。そう言って笑っていた頃の。それから、最後に別れた夜、雨の中で、何も言わずにこちらを見送っていた目。
あれと、同じだった。
「……やめろよ。今さら」
誰にともなく呟いて、杏子は膝を抱え直した。
ふと、町外れのほうに目をやった。
玲佳は、今頃あっちだ。新入りの相手を頼んだ。殺すなよ、とだけ言った。
玲佳は、たぶん、言われたとおりにする。そういう奴だ。ただ、手加減というものを、あいつがどこまで知っているのかは、わからなかった。あの事務所の有様を、杏子は見ている。
それに、新入りのほうも、ろくに戦い方を知らないはずだった。痛い目を見せる、のつもりが、どこまで行くか。
新入りのことは、何日か見ていた。夜ごと一人で、使い魔まで律儀に追いかけていた。グリーフシードを落とさない相手に、わざわざ魔力を削って。誰かを守るためだと、顔に書いてあった。
見ていて、苛立った。
理由は、わかっていた。昔の自分を見ているようだったからだ。マミの隣で、同じ顔をして、同じように使い魔を追いかけていた頃の。
あの顔が、いつかどうなるのか。杏子は、知っていた。
だから、叩き出してやりたかった。痛い目を見て、こんな街から出ていけばいい。そう思っていたはずなのに、今は、あの新入りが無事でいるかどうかが、少しだけ気になっていた。
どちらのことを心配しているのか、自分でもよくわからなかった。
杏子は、ポケットを探った。プレッツェルの箱は、空だった。
帰る前に、コンビニに寄った。
菓子を何種類か、適当にかごに放り込む。レジに並んでから、玲佳の好きそうなものが何も入っていないことに気づいて、棚に戻った。何が好きなのか、まだ知らなかった。結局、自分が好きなものを、二つずつにした。
玲佳の家までの道を、わざと遠回りして歩いた。
負けて帰るのは、初めてではない。ただ、負けて帰る先に誰かがいるのは、初めてだった。どんな顔で、ただいまと言えばいいのか、わからなかった。
エレベーターの扉が開く。廊下を歩いて、合鍵を差し込んだ。
ドアを開けると、部屋は暗かった。
玄関の床に、何か黒いものが点々と落ちていた。
血だった。
コンビニの袋が、手から落ちた。
*
目を開けた。
全身が、汗で濡れていた。服も髪も、肌に貼りついている。心臓が、壊れそうなほど速く打っていた。
声が、聞こえた。
聞こえるはずのない声だった。
「おい、玲佳! 大丈夫か!?」
杏子が、ソファの脇に膝をついて、玲佳の顔を覗き込んでいた。
「な、んで……」
「なんでって、帰ってきたら、あんたがすげえうなされてたから」
杏子は玲佳の身体に掛かっていた毛布をめくって、顔をしかめた。
「うわ、汗だく……」
その手が、止まった。
毛布の下の、白いシャツの脇腹に、赤黒い染みが広がっていた。
「おい、これ……血じゃねえか。玄関にも落ちてたぞ。どこ切った?」
杏子が、シャツの裾をめくった。脇腹に、肉が内側から裂けたような傷が一筋、走っていた。乾きかけた縁の内側から、まだじわりと赤いものが滲み出している。
杏子が、一瞬だけ眉を寄せた。めくったシャツの裾を、指でつまんで裏返す。白い布には、穴ひとつ開いていなかった。
杏子の目が、布と傷口とを、一度だけ見比べた。それから、すぐに傷口へ戻った。
「止まってねえじゃん……」
杏子は、ソファの背に掛けてあったタオルを掴んで、傷口に押し当てた。玲佳が小さく呻くと、押さえる手の力が一瞬緩み、それから、もう一度、さっきより強く押さえつけた。
「我慢しろ。押さえとかねえと、止まんねえから」
杏子の肩の上に、キュゥべえが乗っていた。赤い目で、玲佳の身体を見下ろしている。
「骨折が十か所以上。筋肉の断裂に、靭帯の損傷。玲佳の回復力なら、早くても二か月はかかるだろうね」
「はあ!? 二か月って……」
杏子の顔から、血の気が引いた。
「……悪い。あたしが、途中で引き上げたりしたから」
杏子が、生きていた。
怪我も、していなかった。目の前で、自分のことのように顔を歪めていた。
玲佳は、長く息を吐いた。肺が軋むのもかまわずに、最後まで吐き出した。
「待ってな。すぐ治してやるから」
杏子の身体が、赤い光に包まれた。変身した杏子が、玲佳の胸にそっと掌を当てる。
「いい」
玲佳は、小さな声で言った。
「……は?」
「いいから」
「何言ってんだよ、二か月だぞ!?」
「杏子は、魔女でも狩ってて」
声が、掠れた。
「私のために、魔法を使わないで」
杏子の掌が、胸の上で止まった。
魔法は、とことん自分のためだけに使う。他人のためになんか、二度と使わない。ホテルの天井に手を伸ばしながら、杏子はそう言っていた。
その決まりを、自分のために破らせるわけにはいかなかった。
「……なんだよ」
杏子は、俯いた。前髪に隠れて、顔が見えなかった。
「なんで、嫌がるんだよ……」
杏子は変身を解くと、押さえていたタオルを玲佳の手に押しつけて、立ち上がった。背を向けて、玄関へ向かう。ドアが開いて、閉まる音がした。
部屋に、キュゥべえだけが残った。
「どうして断ったんだい?」
キュゥべえは、首を傾げた。
「君の魔法じゃ、回復は見込めない。わかっているだろう?」
「わかってる」
「なら、合理的な判断じゃないね。感情というのは、本当に理解しがたいよ」
「理解しなくていい」
「まあ、その感情こそが、僕たちのエネルギー源なんだけどね」
キュゥべえはそう言うと、少しだけ開いていた窓の隙間から、夜の中へ出ていった。
一人になると、さっきの夢が戻ってきた。
角材。白ウサギ。塗り潰された言葉。押し入れ。笑い声。
思い出すだけで、喉の奥が酸っぱくなった。
夢にしては、生々しすぎた。痛みも、匂いも、押し入れの暗さも、全部に手触りがあった。
玲佳は、子どもの頃のことを思い出そうとした。
家族がいた。幸せだった。あの日、箪笥の中に隠れた。家族が殺された。
順番に並べていくと、どこにも綻びはない。綻びはないのに、どこかがおかしかった。どこがおかしいのかは、わからなかった。
あれは、記憶なのか。
それなら、今覚えていることは、何なのか。
考えれば考えるほど、足元の床が抜けていくような気がした。玲佳は、そこで考えるのをやめた。
視線を、感じた。
ねっとりとした、肌に絡みついてくるような視線だった。
首を動かせる範囲で、部屋の中を見回した。誰もいない。カーテンも、閉めたときと変わらない。視線だけが、消えなかった。
玲佳は目を閉じて、耳を澄ませた。
身体を強くする魔法を、耳に集める。冷蔵庫の唸り。エレベーターの駆動音。二十五階下の通りを走る車。さらに遠く、夜の街のどこかを、誰かが走っている足音。
杏子の足音だった。
部屋の中には、何の音もなかった。息遣いも、衣擦れも。
目を開けた。
視線は、もう消えていた。