魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第十三話
どこへ行くつもりもなかった。
マンションを飛び出した杏子は、夜の通りを当てもなく歩いていた。終電の過ぎた駅前は、居酒屋の明かりだけがしぶとく灯っている。酔った大人の笑い声が、やけに耳についた。
「……なんなんだよ」
私のために、魔法を使わないで。
あんな身体で、あんな声で、何を言ってるんだ。二か月だぞ。二か月も、あのソファの上で呻いてるつもりか。
杏子は、足元の空き缶を蹴飛ばした。缶は乾いた音を立てて転がり、電柱にぶつかって止まった。
わかっていた。玲佳が何を気にしているのかは。
魔法は、とことん自分のためだけに使う。ホテルで、自分でそう言った。玲佳は、それを覚えていたのだ。覚えていて、守らせようとしている。あんな怪我をしてまで。
馬鹿じゃねえの、と思った。
そう毒づいてから、その馬鹿に、自分がどれだけのものをもらったのかを考えた。寝る場所。財布。スマホ。服。朝の「おはよう」と、夜の「おやすみ」。
それから、カレー。
気がつくと、杏子は二十四時間営業のスーパーの前に立っていた。
自動ドアをくぐると、蛍光灯の白い光の下で、深夜の店内はがらんとしていた。杏子はカゴを一つ取り、野菜の売り場へ向かった。
人参。じゃがいも。玉ねぎ。
玲佳が台所で使っていたものを、一つずつ思い出しながらカゴに入れていく。肉の売り場で、少し迷ってから挽肉のパックを取った。玲佳が使っていたのは、たしかこれだった。
カレーのルウの箱を手に取って裏の作り方を読んでみたが、読んでも、よくわからなかった。
「……こういうの、慣れないね」
レジへ向かう途中の棚に、料理の本が並んでいた。いちばん薄くて、写真の多いものを一冊、カゴに放り込んだ。
会計を待つ間、杏子は自分の指に嵌まった、赤い指輪を見下ろしていた。
玲佳が起きている間は、治させてくれない。
なら、起きていなければいい。
その方法を、杏子は一つだけ知っていた。あの日から一度も使っていない魔法だった。家族がいなくなったあの日に、自分で封じた。二度と使わないと決めた。
それでも、あれなら。
これは、玲佳のためじゃない。
杏子は、自分に言い聞かせた。あたしが困るからだ。寝る場所がなくなったら困る。飯が食えなくなったら困る。だから、これはあたしのためだ。
そういうことにしておけば、決まりは破っていない。
マンションに戻ったのは、午前二時を過ぎた頃だった。
玄関のドアを開けると、リビングの暗がりの中で、玲佳がソファから首だけをこちらに向けた。まだ起きていた。
玲佳の目が、杏子の手にぶら下がったスーパーの袋を見た。何を買ってきたのか、見当もつかないという顔だった。
「た……ただいま」
声が、少し裏返った。
玲佳は、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。
「……おかえり」
杏子は、顔を見られないように、足早にキッチンへ入った。
冷蔵庫を開け、買ってきたものを押し込む。扉の陰で、杏子は変身した。槍は出さない。赤い光が、足元から静かに身体を包んだ。
ソファのほうへ、意識を向ける。
指先から、魔力を細く伸ばす。あの日から、一度も通していない道だった。錆びついた扉を無理やり押し開けるような手応えがあった。
玲佳の目の前に、霧を置く。眠りへ誘う、薄い幻を。
ソファの上で、玲佳の頭がことりと傾いた。
杏子は、足音を殺してソファに近づいた。
玲佳は、目を閉じていた。規則正しい寝息が聞こえる。杏子は、その顔の前でそっと手を振ってみた。反応はなかった。
「……よし」
膝をつき、玲佳の胸に両手を当てる。
赤い光が、掌から玲佳の身体へ流れ込んでいった。
玲佳が、眉を寄せて小さく呻いた。骨を繋ぎ、切れた筋を寄せ合わせるときの、ちくちくとした痛み。その痛みで目を覚まさないように、杏子は眠りの幻を重ね続けた。
治す魔法と、眠らせる魔法。慣れない魔法を二つ同時に動かすのは、思っていたよりずっときつかった。額に、汗が噴き出す。封じていたほうの魔法が、何度も途切れそうになる。
胸元のソウルジェムが、みるみるうちに濁っていった。
杏子は片手を離し、ポケットからグリーフシードを取り出した。ソウルジェムに押し当て、濁りを吸わせる。すぐにまた、両手を玲佳の胸に戻した。
何十分、そうしていたのかわからない。
最後の骨が繋がった手応えがあった。杏子は、ゆっくりと手を離した。玲佳は、穏やかな寝息を立てていた。
「……終わった、のか」
呟いた途端に、全身の力が抜けた。
杏子は、L字型のソファのもう一方の端に倒れ込んだ。変身を解く余力もなかった。毛布を掛けようと思ったが、手が上がらなかった。
目を閉じる直前に、玲佳の寝顔が見えた。
あの日から、誰かのために魔法を使ったのは、これが初めてだった。
違う、と杏子は思った。これは、あたしのためだ。
そう思ったまま、眠りに落ちた。
*
目を覚ますと、窓の外は暗かった。
玲佳は、ゆっくりと上半身を起こした。
起こせた。
痛みが、なかった。腕を持ち上げる。指を握って、開く。脚を曲げて、伸ばす。どこも、軋まなかった。
時計を見ると、夜の八時を回っていた。丸一日近く、眠っていたらしい。
「……まさか」
そんなことができるのは、一人しかいない。
すぐそばで、穏やかな寝息がしていた。首を巡らせると、ソファの反対の端で、杏子が丸くなって眠っていた。変身したままだった。毛布も掛けていない。疲れ果てた子どものような顔をしていた。
玲佳は立ち上がり、自分の足元に落ちていた毛布を拾って、杏子の肩にそっと掛けた。
杏子は、小さく唸って、毛布の端を握った。
身体を洗わなければ、と思った。昨夜の汗が、まだ肌に貼りついていた。
脱衣所で服を脱いで洗濯機に放り込むと、洗面台の鏡に、自分の姿が映った。
細い身体だった。けれど、骨が浮いているわけではない。腕にも、脚にも、腹にも、薄くしなやかな筋肉が過不足なく沿っている。余分なものは一切ないのに、足りないものもない。動くために要るものだけで、きちんと形づくられた体躯。戦い続けるうちに、身体のほうが勝手にそうなっていった。
白い肌だった。
昨夜の夢の中で、角材で殴られ、押し入れに押し込まれていた女の子と、同じ色の肌。
玲佳は、鏡から目を逸らした。
浴室の壁のパネルに触れて、シャワーの温度を一度上げる。湯が、頭の上から降ってきた。
髪を洗う。シャンプーを掌にたっぷりと取って、根元から毛先まで、指で梳くように泡を通していく。腰の下まで届く髪は、洗うのに時間がかかった。それでも、この髪にだけは手を抜いたことがない。持っているものの中で、ただ一つ、大切にしているものだった。
湯船に身体を沈めると、湯の熱が、骨の奥まで染みていった。
昨夜のことを、順番に思い返した。
遊びすぎた。あの青い子を相手に、もっと早く片をつけることはできた。それを長引かせて、隙を突かれかけた。挙句の果てに、あの声一つで、何もかもわからなくなった。
杏子は、生きていた。傷一つ負っていなかった。
自分は、何を見て、何を早合点したのか。
玲佳は、湯の中で膝を抱えた。
黒い髪の少女のことを考えた。
暁美ほむら。キュゥべえが、イレギュラーだと言っていた子。
あの子は、何の前触れもなく、目の前に現れた。そして、あの青い子を抱えて、次の瞬間にはもういなかった。
瞬間移動。あるいは、時間を止めたのか。
時間を止めるなどという魔法が、あるのだろうか。瞬間移動のほうが、まだ考えやすい。少なくとも、自分以外の誰かを一緒に運べることはわかった。
それから、もう一つ。
二年生に来た転校生の話を、教室で聞いた。すごい美人で、黒髪で、髪がこんなに長くて。あの黒い髪の少女の、腰まである黒髪を思い出す。
青い子のほうは、モールのCDショップで見かけた。見滝原中の制服を着ていた。
二人とも、同じ学校にいる。
「……クソったれ」
吐き捨てるように呟いて、玲佳は壁のパネルに目をやった。湯の温度の下に、時刻が表示されていた。
二十時、三十分。
八時三十分。
診察室の、壁の時計。
塗り潰された医者の言葉。角材。押し入れ。
こめかみを、太い針で刺されたような痛みが走った。
玲佳は額を押さえた。背中を、冷たいものが這い上がってくる。
視線だった。
昨夜と同じ、ねっとりと絡みつくような視線。いや、昨夜よりも近い。すぐそばから、覗き込まれている。肌の表面ではなく、そのもっと奥。自分でも知らない場所まで、見透かされている。
痛みが、頭を割った。
身体中の筋肉が、勝手に跳ねた。湯が揺れ、縁から溢れる。目の焦点が合わない。視界が、白と黒に点滅する。
何かが、入ってこようとしていた。
自分を押しのけて、自分の中に、自分ではない何かが。
「……や、めて」
声が、掠れた。
「見ない、で……」
喉が引き攣る。息が吸えない。玲佳は、ありったけの力を振り絞った。
「私を、見ないでっ!」
叫んだ瞬間、すべてが引いた。
痛みも、痙攣も、視線も。まるで最初から何もなかったかのように。
玲佳は、湯船の縁にしがみついて、荒い息を繰り返した。
「か、はっ……」
今のは、何だったのか。
考えようとして、やめた。考えても、何も出てこないことだけはわかっていた。
代わりに、杏子のことを考えた。
魔法は、とことん自分のためだけに使う。他人のためになんか、二度と使わない。
ホテルの天井に手を伸ばして、杏子はそう言った。その決まりを守らせたくて、治療を断った。それなのに、杏子はそれを破った。自分のために。
自分が取り乱したりしなければ、杏子は、決まりを破らずに済んだ。
自分には、杏子のような決まりが何もない。信じて貫いているものが、何もない。そんな人間が、杏子の貫いてきたものを、折らせてしまった。
浴室の小さな窓の向こうに、丸い月が浮かんでいた。雲一つない夜空に、煌々と白く光っている。
「……私は、どうすればいい?」
月は、何も答えなかった。