魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第十四話
戸棚を開けて、暁美ほむらは動きを止めた。
いつもなら、そこには黄色い箱が隙間なく積んである。チョコレート味、チーズ味、フルーツ味。それが、一箱も残っていなかった。
「……なくなってる」
時計の針は、午前一時を回っていた。
料理をする、という選択肢が一瞬だけ頭をよぎったが、開けてみた冷蔵庫には、水のペットボトルが三本並んでいるだけだった。
「材料もないわね」
ほむらは、冷蔵庫を閉めた。
財布を上着のポケットに押し込み、部屋を出る。どうせ眠れそうにないなら、歩いていたほうがいい。
深夜の通りを歩きながら、ほむらは考えていた。
今夜の、白い魔法少女のこと。
あれは、佐倉杏子と組んでいた。杏子は巴マミを、白い魔法少女は美樹さやかを。二手に分かれて、同じ時刻に襲う。自分とマミが駅前にいなければ、マミは路地裏で杏子の槍に貫かれていた。さやかは、あの白い少女の刀の下で終わっていた。
見滝原の魔法少女は、自分一人になっていたはずだ。
そうなれば、まどかは。
ほむらは、歩く速さを上げた。
この街に魔法少女が何人いるのか、杏子たちに教えた者がいる。考えるまでもなかった。インキュベーター以外に、そんなことをする理由のある者はいない。魔法少女が減り、追い詰められた街で、まどかの前に立つ。何度も見てきたやり方だった。
わからないことも、ある。
佐倉杏子は、誰かと組むのを嫌う。何度繰り返しても、そうだった。それに、あの白い少女。一人であれだけの力を振るえるなら、杏子と組む理由などないように見える。
それなのに、あの子は、杏子が死んだと思い込んだだけで、あれほど壊れた。
路地を曲がると、二十四時間営業のスーパーの明かりが見えた。
さやかの言葉が、耳の奥に残っていた。
あたし、あいつを許せない。いくらなんでも、ひどすぎる。
ビルの陰で膝を抱えて、さやかはそう言った。無理もない、とほむらは思う。それでも、ワルプルギスの夜を越えるには、戦える者が一人でも多く要る。
佐倉杏子を、こちらに引き入れる。
杏子が動けば、あの白い魔法少女もついてくるかもしれない。
店に入り、菓子の棚の前で、黄色い箱を十ほどまとめてカゴに入れた。レジの店員が、箱の数とほむらの顔を見比べて、何か言いたそうにしていた。ほむらは気にせず会計を済ませた。
ビニール袋を提げて店を出たところで、足が止まった。
通りの向こうの横断歩道を、赤い髪の少女が渡っていた。
佐倉杏子だった。
片手に、スーパーの袋を提げている。ほむらが今出てきたのと、同じ店の袋だった。袋の口から、人参の葉と、薄い本の角がはみ出していた。
「……っ」
ほむらは、横断歩道へ向かって走り出した。
歩行者用の信号が、点滅を始めていた。杏子も、それに気づいたらしく、小走りになる。ほむらが白線に足をかけたとき、信号は赤に変わった。
車が、目の前を流れはじめた。車の列の切れ間に、赤い髪が、向こうの角を曲がって消えていくのが見えた。
ほむらは、追うのをやめた。
「……まあ、いいわ」
時間を止めて追うほどのことではない。居場所を探る手は、ほかにもある。
接触するなら、日曜日がいい。マミにも、話しておかなければならない。
ほむらは袋を提げ直して、来た道を戻りはじめた。
人参と、佐倉杏子。
佐倉杏子と、料理の本。
どうにも似合わない取り合わせだった。
*
駅前のファストフード店の、窓際の席だった。
誘ってきたのは、さやかのほうだった。土曜の昼に電話がかかってきて、ちょっと遊ぼうよ、と言われた。いつもの、明るい声だった。
けれど、向かいに座ったさやかは、さっきからほとんど喋っていなかった。
「さやかちゃん、眠いの?」
「んー? ちょっとね」
さやかは、紙コップのストローを噛みながら、あくびを噛み殺した。目の下に、薄く影ができていた。いつもはきちんと整えている前髪が、少しだけ跳ねている。
ここのところ毎晩、使い魔を狩っているのだと、さやかは前に言っていた。昨日の夜は、それだけではなかったらしい。
「昨日さ。ほかの魔法少女と、やり合ったんだよね」
さやかは窓の外を見たまま言った。
「白い髪の。……戦ってるときは、必死で気づかなかったんだけどさ。帰ってから思い出した。たぶん、三年の上級生。廊下で何回か見たことある。あんな髪、ほかにいないし」
まどかは、ポテトに伸ばしかけた手を止めた。
「……大丈夫だったの?」
「大丈夫、大丈夫。怪我は、自分で治したし」
さやかはあっけらかんと笑ってみせた。
「いやあ、強いのなんのって。こっちが本気で斬りかかってんのにさ、向こうは鞘から剣も抜かないの。全部、鞘で受け流されちゃって。最後は、ひょいって足払いかけられて、ころーんって」
身振りを交えて、さやかは面白おかしく話した。
まどかは、笑えなかった。
さやかの口は笑っていた。けれど、目は笑っていなかった。話しながら、テーブルの上で、紙ナプキンを指先で細かく千切っていた。
「マミさんとほむらが来てくれなかったら、たぶん、殺されてた」
紙の切れ端が、トレイの上に小さく積もっていく。
「あいつ、あたしのこと、全然見てなかった。相手にもしてなかった。……遊ばれてたんだよ、あたし」
最後の一言だけ、声が低かった。
まどかは、何か言わなければと思った。けれど、何を言えばいいのか、わからなかった。
「まどか」
さやかがようやくこちらを向いた。
「あいつとは、関わっちゃダメだよ。廊下で見かけても、目、合わせちゃダメ。何考えてるかわかんないし、平気で人を斬れる奴だから」
「……うん」
「約束ね」
さやかは、まどかの小指に自分の小指を引っかけて、勝手に揺すった。
それから、手を離して、ぎゅっと拳を握った。
「あたしはさ。あんな魔法少女には、絶対ならない」
窓ガラスに、さやかの横顔が映っていた。
「誰かを守るために、魔法を使う。困ってる人を助けて、悪い魔女をやっつける。正義の魔法少女になるんだ。恭介の手を治したみたいにさ」
言い切ったさやかの声は、まっすぐだった。まっすぐすぎて、どこかで張りつめた糸のように聞こえた。
まどかは、頷いた。
頷きながら、トレイの上に積もった、白い紙くずの山を見ていた。
*
さやかと駅前で別れたのは、夕方の五時を少し過ぎた頃だった。
一人で川沿いの道を歩き出したところで、名前を呼ばれた。
「まどか」
振り返ると、暁美ほむらが立っていた。制服ではなく、黒いカーディガンに、膝丈のスカートだった。私服のほむらを見るのは、初めてだった。
「ほむらちゃん。どうしたの?」
「少し、時間をもらえるかしら」
屋上のときと同じ言い方だった。それなのに、今日のほむらの声は、少しだけ迷っているように聞こえた。
まどかは、土手の向こうに見える小さな売店を指さした。
「じゃあ、あそこでソフトクリーム食べよ。わたし、おごるよ」
「私は、別に——」
「いいからいいから」
ほむらの袖を引いて、まどかは歩き出した。ほむらは、引かれるままについてきた。
川べりのベンチに、並んで座った。
ほむらは、手渡されたソフトクリームを、どう扱えばいいのかわからないものでも持つように、じっと見下ろしていた。それから、端のほうを小さく舐めた。
「……甘いわ」
「ソフトクリームだもん」
まどかが笑うと、ほむらは少しだけ目を伏せた。
川面を、夕日が橙色に染めていた。土手の上を、自転車の高校生が二人、笑いながら通り過ぎていく。
「昨日の夜のこと、聞いた?」
ほむらが、前を向いたまま言った。
「うん。マミさんが、危なかったって。さやかちゃんも」
「巴マミは、無事よ。美樹さやかも」
ほむらは、そこで一度、言葉を切った。
「あなたのおかげよ」
「え?」
「病院の魔女のときも、昨日の夜も。巴マミと私が、同じ場所にいられたのは、あなたが間に立ってくれたから。あなたがいなければ、あの人は、きっと一人で戦っていた」
ほむらは、手の中のソフトクリームを見下ろした。溶けはじめた白いものが、コーンの縁を伝って、指のほうへ落ちていこうとしていた。
「……ありがとう、まどか」
まどかは、言葉が出てこなかった。
ほむらの口から、そんな言葉を聞くとは思っていなかった。屋上で作戦を頼まれたときも、ほむらは礼を言わなかった。そういう人なのだと思っていた。
「わ、わたし、何もしてないよ。ほむらちゃんとマミさんを、一緒にお茶に誘っただけで」
「それが、できなかったのよ」
ほむらは、小さく言った。
「私には、ずっと」
ずっと、という言い方が、少しだけ引っかかった。転校してきてから、まだ二週間も経っていないのに。
訊き返す前に、ほむらがこちらを向いた。
「まどか。一つだけ、約束してほしいの」
紫色の目が、まどかの顔をまっすぐに見ていた。
「何があっても、キュゥべえと契約しないで」
「……うん。屋上でも、聞いたよ」
「もう一度、言わせて」
ほむらの声は、静かだった。けれど、膝の上に置かれたもう片方の手が、スカートの布をきつく握りしめていた。
「誰かが死にそうになっても。巴マミが、美樹さやかが、目の前で死にそうになっても。……私が、死にそうになっても」
「ほむらちゃんが、死にそうでも?」
「ええ」
ほむらは、目を逸らさなかった。
「そのときは、私を見捨てて。お願い」
川の音が、急に大きく聞こえた。
まどかは、何も言えなかった。ほむらの言葉が、冗談でも、大げさでもないことだけはわかった。何度も同じことを頼んで、それでも何度も届かなかった人の顔をしている。なぜそう思うのかは、自分でもわからなかった。
「……すぐには、うんって言えないよ」
やっと、それだけ言えた。
「みんなが死にそうなときに、見てるだけなんて」
「それでいいわ。今は」
ほむらは、ふっと息を吐いた。
「忘れないでいてくれれば、それでいい」
ほむらは、川面のほうへ目を戻した。夕日が、その横顔の輪郭を細く縁取っていた。
「そのために、私がいるの。あなたが、何も選ばなくて済むように」
小さな声だった。けれど、一語一語を、確かめるように置いていく言い方だった。
「あなたは、私が守る」
まどかは、ほむらの横顔を見つめた。
自分と同じ歳の女の子の口から出たとは思えないほど、その言葉は重かった。ずっと前から決めていたことを、もう一度、自分に言い聞かせているような声だった。
ソフトクリームが、とうとうほむらの指に垂れた。ほむらは、慌てたように手を引いた。その仕草がおかしくて、まどかは思わず笑ってしまった。
ほむらは、困ったような顔で指先を見ていた。それから、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
夕日が、二人の影を、川べりの草の上に長く伸ばしていた。
*
土曜の夜、十時。
まどかは、明かりを消した部屋で、ベッドに仰向けになっていた。薄桃色のパジャマの袖を、指先で意味もなくいじる。
今日一日、さやかは口数が少なかった。
昼間、ファストフード店で聞いた話が、まだ頭の中に残っていた。マミとほむらが駆けつけなければ、殺されていたかもしれない。笑いながらそう話したさやかの目は、少しも笑っていなかった。
「どんな人なんだろう。さやかちゃんが戦った魔法少女って……」
思ったことが、そのまま口から出ていた。
枕元のぬいぐるみの隙間で、白い影が身じろぎした。
「玲佳のことかい?」
まどかは驚かなかった。キュゥべえがそこにいるのは、わかっていた。
「れいか?」
「如月玲佳。君の学校の三年生だよ。もともと、この街に住んでいる」
「如月、玲佳……」
まどかは、上半身を起こした。
三年生の、如月玲佳。
名前には、聞き覚えがなかった。昼間、さやかが言っていた、白い髪の上級生のことだった。まどかも、廊下の窓から一度だけ見かけたことがある。髪が、雪のように白かった。すれ違った誰もが振り返っていた。あのときは、ただ、きれいな人だな、と思っただけだった。
「玲佳と、玲佳と一緒にいる杏子は、さやかとは比べものにならないくらい強い」
キュゥべえは、いつもと同じ調子で続けた。
「昨日、さやかが生きて帰れたのは、ほとんど奇跡だよ。マミとほむらが来なかったら、確実に殺されていた。二人はこの街に住んでいるんだから、さやかはまた襲われるかもしれない。次も、マミたちが間に合うとは限らない。二人がかりで来られたら、マミだって勝てないだろうね」
まどかは、膝の上で手を握りしめた。
「でも、君は違う」
キュゥべえの赤い目が、暗がりの中で、まどかをまっすぐに見上げていた。
「君には、とてつもない素質がある。これまでのどの魔法少女よりも、たぶん、これから先のどの魔法少女よりもね。僕と契約すれば、あの二人を同時に相手にしたって、簡単に退けられる」
部屋の中が、しんとした。
さやかの、目の笑っていない笑顔が浮かんだ。自分が契約すれば、さやかはもう、あんな顔をしなくて済むのかもしれない。
それから、屋上で聞いたほむらの声が浮かんだ。
ソウルジェムは、魂そのもの。濁りきったら、魔女になる。
夕方の川べりで聞いた声も、浮かんだ。私が死にそうになっても、契約しないで。
マミの掌の上の、蜂蜜色のソウルジェム。さやかの指の、青い指輪。
まどかは、ゆっくりと首を振った。
「それでも、わたしは契約しないよ」
キュゥべえは、しばらく黙っていた。
「……わかった。気が変わったら、いつでも呼んで。待ってるからね」
ぬいぐるみの隙間から、白い影が消えた。
まどかは、もう一度ベッドに倒れ込んで、天井を見上げた。
今日は、約束の多い日だった。
昼には、さやかと小指を絡めた。あの人とは、関わらない。
夕方には、ほむらに頼まれた。何があっても、契約しないで。うん、とは言えなかったけれど、忘れないでいようと思った。
それから、ついさっき自分で自分に約束した。
小指を目の前にかざしてみる。暗がりの中で、それはただの細い指にしか見えなかった。
白い髪の、三年生。
あの人が、さやかちゃんを。
廊下の窓越しに見た横顔は、誰かを傷つけるような人には、見えなかった。
*
いい匂いで、目が覚めた。
杏子は、ソファの上で大きく伸びをした。身体に掛かっている毛布は、自分で掛けた覚えのないものだった。
玲佳を治して、力尽きて倒れ込んだのだった。変身も解かずに。今は、普段の服に戻っている。いつ解けたのかも覚えていない。
ソファの反対の端に、目をやった。
玲佳が寝ていたはずの場所は、空だった。
キッチンのほうから、とんとんと包丁の音がする。それから、この匂い。
「……あ」
カレーだった。
自分が買ってきた人参と、じゃがいもと、玉ねぎと、挽肉。作るつもりで買ってきたのに、すっかり忘れていた。
杏子は、ソファに寝転んだまま、小さく笑った。それから、その笑いを引っ込めた。
マミとは、あたしがケリをつける。
そう言ったのは、自分だった。玲佳は、自分がマミのほうへ行くと言ってくれた。それを断って、一人で行って、途中で引き上げた。その間に、玲佳は骨を何本も折っていた。
謝るべきなのだろう。
ただ、玲佳はきっと、謝らせてくれない。そういう奴だった。その甘さに、いつまでも寄りかかっているわけにはいかない。
杏子は、ホットパンツのポケットからスマホを取り出した。
画面をつけて開いた写真のフォルダには、一枚しか入っていない。
携帯ショップで、ペア契約というものをしたときの写真だった。店員が何を勘違いしたのか、記念にどうぞと言って、二人並ばせて撮った。画面の中で、杏子と玲佳は、どちらも引きつったような笑顔を浮かべていた。
杏子は、その写真をしばらく眺めていた。
このスマホも、玲佳が買った。着ている服も。ポケットの財布も。寝る場所も、毎日の飯も。朝の「おはよう」も、夜の「おやすみ」も。
数え上げたら、きりがなかった。
それなのに、自分はまだ、礼の一つもまともに言えていない。
なんで、あんなに優しいんだろう。
なんで、あたしなんかを、あんなに大事にするんだろう。
なんで——
「……らしくねえ」
杏子は画面を消して、スマホをポケットに戻した。
キッチンから、玲佳がトレイを持って出てきた。湯気の立つ皿が二つ、載っている。
「起きた?」
「ん。……いい匂いで」
杏子はソファから跳ね起きて、ダイニングテーブルへ小走りに向かった。玲佳が皿を並べ終えるのと同時に、椅子に腰を下ろす。
向かい合って、手を合わせた。
「いただきます」
杏子は、胸の前で手を組んで、短く目を閉じた。それから、スプーンを取った。
一口目を飲み込んだところで、玲佳がぽつりと言った。
「材料、多すぎ。明日は三食カレー」
「……文句あんのかよ」
「ない」
玲佳は、それだけ言って、自分の皿に目を戻した。
杏子は、二口、三口とスプーンを動かした。味は、ほとんどわからなかった。言わなければならないことが、喉の奥に引っかかっていた。
じゃがいもを、ごくりと飲み込む。
「……なあ、玲佳」
「ん。何?」
「悪かった」
玲佳は、スプーンを止めて首を傾げた。
「何が?」
「何がって、その、だから……」
「別にいい」
杏子が言葉を探しているうちに、玲佳が先に言った。
「杏子が何を謝ろうとしてるのかはわからないけど、杏子は何も悪くない」
杏子の喉で、言葉が詰まった。
しばらく、スプーンが皿に当たる音だけがした。
「……もう忘れたのかよ」
口から出たのは、思っていたよりもきつい声だった。
「前にも言ったよな。なんでもかんでも、自分のせいにすんなって」
玲佳が、目を伏せた。
「……ごめん」
違う。
杏子は、心の中で自分を殴りつけた。
違うだろ。言いたいのは、こんなことじゃないだろ。ありがとうとか、無事でよかったとか、もっと、そういう。
次の言葉が、どうしても出てこなかった。
杏子は、それをごまかすように、皿のカレーを掻き込んだ。