魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第十五話
矢印が、画面の下から次々と湧き上がってくる。
杏子は、それに合わせて足元のパネルを踏んだ。右、左、上、同時に二つ。速い曲だった。ドラムの音が腹に響き、スピーカーから流れる女性ボーカルの高い声が、ゲームセンターの喧騒を突き抜けていく。
身体は、勝手に動いていた。考えなくても、足が次の矢印の場所を知っている。
曲が終わった。
画面に、最高ランクの文字が躍った。全国ランキングの順位が表示される。自分の最高記録を、少しだけ更新していた。
いつもなら、拳を握っているところだった。
「……乗らねえな」
杏子は、パネルの上に突っ立ったまま、画面の数字をぼんやりと眺めた。
別にいい。杏子は何も悪くない。
……ごめん。
昨夜の玲佳の声が、頭の中で繰り返されていた。言いたかったことは、何一つ言えなかった。朝起きたら、玲佳はもう出かけていた。テーブルの上に、カレーの鍋と、「温めて食べて」と書いた紙が置いてあった。
「……くそっ」
思わず、口から漏れた。
「悪態なんかついて、どうしたのかしら?」
背後から、声がした。
杏子は、弾かれたように振り返った。身体が、勝手に構えを取っていた。
長い黒髪に、紫の瞳の少女が立っていた。一昨日の夜、路地裏で背後に回り込んできた、あのイレギュラーだった。
その隣に、金色の髪を縦に巻いた少女がいた。
「——マミ」
声が、低くなった。身体の奥から、ざらついたものが滲み出してくるのが自分でもわかった。
「何しに来やがった」
「そんなに睨まないでちょうだい。私たちは——」
「共闘を申し込みに来たの」
マミの言葉を、黒髪の少女が遮った。
「期間は、約二週間後。ワルプルギスの夜がこの街に来る日まで」
「ワルプルギスの夜、ね」
杏子は、鼻で笑った。
「で、共闘? 一昨日あたしに頭を割られかけた奴が、今さら仲良くしようってのかよ」
「報酬は、私たちが持っているグリーフシードの半分。それから、この街の一部」
黒髪の少女は、杏子の言葉を聞き流して続けた。
「それと、あなたと一緒に行動している、あの白い魔法少女。彼女には、私たちからは手を出さない。それも保証するわ」
「手を出さない、ね」
自分でも驚くほど、声が尖った。
「その前に、一つ訊かせろよ。あんたらのとこの青い新入り。あいつ、そんなに強えのか」
ほむらとマミが、顔を見合わせた。
「玲佳は、骨を十本以上折って帰ってきた。二か月は動けねえって言われた。あの玲佳がだぞ。契約したばっかの奴相手に、なんであそこまで——」
「違うわ」
マミが、静かに遮った。
「美樹さんは、あの子にほとんど触れてもいない。……あの子を壊したのは、あの子自身よ」
「……は?」
マミは一度目を伏せてから、あの夜のことを話した。
新入りが白い魔法少女に斬りかかって、足を払われて倒れたこと。そこでマミがテレパシーで呼びかけたこと。その途端に、白い魔法少女の動きが止まったこと。それから、何かに取り憑かれたように叫び出して、辺り一帯を吹き飛ばしたこと。
「たぶん、あの子は、貴女が死んだと思ったのよ。貴女と戦っていたはずの私が、あそこにいたから」
マミは、唇を噛んだ。
「私の呼びかけ方が、軽率だったわ」
杏子は、何も言えなかった。
あたしが途中で引き上げたから、じゃなかった。
あたしが死んだと思って、玲佳は、ああなった。
ソファの上で、骨の折れた身体で、それでも治療を断った玲佳の顔が浮かんだ。あの夜、玄関から戻ってきた自分を見たときの、あの長い息。
「あの子は、あなたのことになると、ああなる」
ほむらが、淡々と言った。
「あなたが一人で戦えば戦うほど、あの子が同じことをする理由が増える。私たちと組めば、その理由が一つ減るわ」
杏子は、ほむらを睨んだ。
腹の立つ言い方だった。腹が立つのは、それが正しいからだった。
視線を床に落として、考える。
ワルプルギスの夜。噂に聞いたことはある。一人で相手にできるような代物じゃない。グリーフシードの半分と、縄張りの一部。釣り合うのかどうか、正直わからない。約束した報酬を、こいつらが本当に払う保証もない。油断させるための罠かもしれない。
ただ、自分が死んだと思っただけで、玲佳はあそこまで壊れる。
なら、死ぬかもしれない戦いを、一人で続けるわけにはいかなかった。
それに、マミは。
杏子は、黙って唇を噛んでいるマミの顔を、横目で見た。
自分の非を、わざわざ口に出して認める奴だった。昔から、そうだった。あの甘ちゃんが、人を騙すような真似を平気でできるとは、どうしても思えなかった。
「……前払いだ」
杏子は、顔を上げた。
「わかったわ」
黒髪の少女は、まるで答えを最初から知っていたかのように、即座に頷いた。肩に掛けていた鞄のファスナーを開け、口を杏子のほうへ向ける。
中に、グリーフシードがぎっしりと詰まっていた。
「ほお……」
杏子は、思わず声を漏らした。隣で、マミが少しだけ苦い顔をしていた。
「これで、どうかしら?」
「……わかった。じゃ、これからよろしくな」
杏子は、黒髪の少女に手を差し出した。少女はそれを見下ろし、ほんのわずかに眉を上げた。
「普通、逆じゃない?」
「細かいこと気にすんなよ」
少女は小さく息を吐いて、杏子の手を握った。細くて、冷たい手だった。
「暁美ほむらよ」
「佐倉杏子。……って、知ってんだっけな」
手を離すと、今度はマミが、杏子の前に手を差し出していた。
さっきまでの硬い顔ではなかった。昔、何度も見た顔で、にこりと笑っていた。
「これからよろしくね、佐倉さん」
杏子は、その手をしばらく見ていた。
それから、叩きつけるように握った。
ぱん、と乾いた音が、ゲームセンターの騒音の中に響いた。
「……ああ。よろしく、マミ」
握った手は、昔と同じくらい温かかった。
「言っとくけど」
杏子は手を離して、頭を掻いた。
「あたしはいいけど、玲佳のほうは知らねえぞ」
マミが、首を傾げた。
「どこかで、聞いたことがあるような……」
マミは顎に指を当てて、しばらく唸っていた。それから、はっと顔を上げた。
「思い出したわ。隣のクラスに、如月玲佳っていう子がいるの。色々と噂のある子よ」
「へえ。どんな?」
「すごい美人だとか。模試で、全教科満点を取って一位だったとか。私が聞いた限りでは、ね。本当かどうかは知らないけれど」
「美人ってのは、わかる」
杏子は、思わず頷いていた。
「けど、その、もし? ってのは、そんなにすごいもんなのか?」
「そうね。言い方は悪いけれど、全国で一位となると、普通じゃないわ」
「ふうん……」
玲佳が、学校でどんな顔をしているのか、杏子は知らなかった。朝、制服を着て出ていく背中しか見たことがない。
「ま、それはいいや。玲佳のことは、そっちで説得してくれよ。あたしからは、言いづらいし」
「どうして?」
「色々、世話になりすぎてるからさ。これ以上、面倒なこと持ち込みたくないんだよ」
マミが、目を丸くした。
「貴女が……珍しいわね」
「うっせえ。悪いかよ」
「いいえ。いいことよ」
マミは、くすりと笑った。
杏子は、ふと、黒髪の少女のほうを見た。ほむらは、さっきから何も言っていなかった。どこか遠くを見るような目で、ゲーム機の画面の光を眺めている。
「暁美さん? どうしたの?」
マミが声をかけると、ほむらは一度瞬きをして、こちらに目を戻した。
「……いいえ。なんでもないわ」
*
黄色いテープの向こうに、何もない土地が広がっていた。
まどかは、手の中のメモと、目の前の景色を見比べた。倉庫街の外れ。ここで、間違いなかった。
倉庫が、何棟も建っていたはずの場所だった。今は、土が剥き出しになった平らな地面が、ずっと向こうまで続いているだけだった。ところどころに、ねじ曲がった鉄骨の切れ端が転がっている。
二日前の夜、この辺りを竜巻が襲ったのだという。テレビでは、朝からずっとその話ばかりだった。ただ、その夜の見滝原は風もなく晴れていて、竜巻を見たという人は一人もいない。夜は人の来ない場所だったから、怪我をした人も、亡くなった人もいなかった。
ネットでは、宇宙人の仕業だとか、爆弾テロだとか、好き勝手な噂が飛び交っている。
まどかは、そのどれも信じていなかった。
これが何なのか、知っていたから。
テープの前には、野次馬が人垣を作っていた。テープの内側では、警察官が何人も、地面にしゃがみ込んで何かを調べている。道の脇には、屋根にアンテナを立てたテレビ局の車が停まっていて、カメラを担いだ人が熱心に撮影していた。
「……凄いなあ」
人の頭の隙間から、まどかは更地を眺めて呟いた。
怖い、よりも先に、その言葉が出た。一人の魔法少女が、これをやったのだ。さやかちゃんと戦った、あの白い髪の先輩が。
どんな人なんだろう。
廊下の窓越しに見た横顔と、目の前の何もない地面とが、どうしても頭の中でつながらなかった。
しばらく眺めてから、まどかは現場を離れた。まっすぐ家に帰る気にもなれず、駅前のショッピングモールをぶらついた。気がつくと、足は三階の奥の、あの階段に向かっていた。
改装中のフロアは、あの日と同じように薄暗かった。
キュゥべえを抱えて、ほむらに銃を向けられて、さやかと逃げて、結界に呑まれて。そして、マミに助けられた場所。
あの頃は、キュゥべえを撃ったほむらのことを、ひどいと思っていた。今なら、少しだけわかる気がする。
もし、病院でほむらがマミを助けてくれなかったら。屋上で、本当のことを教えてくれなかったら。
自分は、とっくに契約していたかもしれない。
廊下の奥で、硬い足音がした。壁の一部が、懐中電灯の光で丸く照らされる。
「あ……」
警備員の巡回だった。このフロアに、夜な夜な人が入り込むようになったとかで、一週間ほど前から見回りが来るようになったのだと、さやかが言っていた。
まどかは、柱の陰に身を縮めて、足音が通り過ぎるのを待った。それから、音を立てないように、そっと階段を下りた。
モールを出たときには、日が傾きはじめていた。
表通りから一本入ると、見滝原の街は急に表情を変える。整った歩道の脇に、細い路地が木の枝のように分かれて、その奥は昼間でも薄暗かった。
その路地の少し奥で、何かが光った。
まどかは、足を止めた。
地面に、黒いものが落ちていた。卵の形をしていて、針のようなものが上下に突き出している。
見覚えがあった。
『まどか! それは孵化しかけているグリーフシードだ!』
頭の中に、キュゥべえの声が飛び込んできた。
「え、キュゥべ——」
足元が、消えた。
気がつくと、まどかはビルの屋上に立っていた。
見渡すかぎり、灰色の高層ビルが林のように並んでいた。ビルとビルの間には、白い糸が何重にも張り巡らされている。蜘蛛の巣だった。百や二百では、きかなかった。
その中で、ひときわ高いビルのてっぺんに、何かがいた。
赤い目が、何十も並んでいた。長い脚が、何本も生えている。頭の先には、大きな鋏のようなものが一対。膨れ上がった腹からも、さらに脚が伸びていた。
蜘蛛だった。見上げるほど、大きな。
その赤い目が、一斉にまどかのほうを向いた。
「ひっ……」
足元を見た。屋上の縁の向こうに、地面が見えなかった。落ちたら、どうなるのか。その光景が、頭の中に勝手に浮かんだ。
足が、竦んで動かない。
「ほ、ほむらちゃんに、電話……」
ポケットから携帯を取り出す。指が震えて、ボタンがうまく押せない。何度押しても、違う画面が開く。画面の隅に、圏外の文字が出ていることにも、まどかは気づかなかった。
蜘蛛が、動き出した。
糸を伝って、ビルからビルへ。ゆっくりと、確実に、近づいてくる。
「まどか! 契約するんだ!」
足元で、キュゥべえが叫んだ。
まどかの喉は、干上がっていた。声を出そうとしても、何も出てこない。死にたくない、という言葉だけが、頭の中で何度も響いていた。
でも、契約は、しちゃだめだ。
昨日の夜、自分で自分に約束したばかりだった。川べりで、ほむらちゃんにも頼まれた。何があっても、契約しないで。
まどかは、震える唇を、きつく結んだ。
「今すぐ契約を!」
長い毛に覆われた脚が、まどかの立つビルの縁を踏んだ。
耳を塞ぎたくなるような声で、蜘蛛が鳴いた。
まどかは後ずさった。背中が、何か柔らかいものに当たる。粘ついた糸が、肩に、腕に、脚に絡みついた。振りほどこうとすればするほど、身体が動かなくなっていく。
「早く契——」
キュゥべえの声が、途中で潰れた。蜘蛛の脚の先が、白い小さな身体を踏みつけていた。
蜘蛛の顎の鋏が、大きく開いた。
まどかの腰を、横から挟み込む角度で。
「誰か……誰か、助けてぇっ!」
鋏が、閉じる——
その寸前に、蜘蛛の頭が弾け飛んだ。
まどかの背後から、何かが飛んできたのだ。見えなかった。ただ、空気が裂ける音がして、次の瞬間には、蜘蛛の頭がなくなっていた。
蜘蛛は、頭のない身体をよじって絶叫し、向かいのビルへ跳び退いた。屋上の上で、何本もの脚をばたつかせて転げ回る。
落雷のような音が、空気を揺らした。
二発目の何かが、蜘蛛の膨れた腹を抉り取った。勢いは止まらず、足元のビルの屋上まで砕いた。足場を失った蜘蛛の巨体が、見えなくなるほど下へ落ちていった。
まどかは、何かが飛んできた方角を振り返った。
そこには。