魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第十六話
日曜の午後の大通りは、人で溢れていた。
玲佳は、その流れに混ざって歩きながら、自分の身体に張っていた結界を解いた。
薄い膜が、肌の表面から剥がれ落ちていくような感覚があった。魔力の気配を外へ漏らさないための結界。これのおかげで、今まで誰にも気づかれずに済んできた。
けれど、もう顔も名前も知られている。隠れる意味はなかった。遠くから魔力の気配を嗅ぎ分けられる魔法少女など、そう何人もいるものでもない。
杏子にも、同じものを張ってやりたかった。他人に掛けられる種類の結界ではないと、何度試してもわかるだけだった。
上着のポケットで、スマホが震えた。
画面を見ると、杏子からだった。
ゲーセン行ってくる。カレー、うまかった。
杏子らしい、短い文面だった。玲佳は、その文字をしばらく眺めていた。
それから、スマホをポケットに戻した。
結界を保つのに、思っていた以上に魔力を使っていた。一昨日の夜には、グリーフシードを一つ使い切っている。蓄えはまだあったが、減らしたぶんは補っておきたかった。
大通りの角を曲がろうとしたとき、ソウルジェムが熱を持った。
魔女の気配だった。すぐ近い。
一本入った路地の奥で、空気がねじれていた。玲佳は人目のないことを確かめてから変身し、ねじれの中へ踏み込んだ。
結界の中には、灰色の高層ビルが林のように並んでいた。
ビルとビルの間に、白い糸が何重にも張り渡されている。足元を見下ろしても、底が見えなかった。
見覚えがあった。
前に一度、この魔女とやり合ったことがある。そのときは、止めを刺す前に逃げられた。
ひときわ高いビルの屋上に、大蜘蛛の巨体がいた。何十もの赤い目が、同じ方角を見ている。
玲佳は、その視線の先を追った。
向かいのビルの屋上で、蜘蛛の巣に誰かが絡め取られていた。
小柄な少女だった。桃色の髪を、耳の上で小さく二つに結んでいる。
モールのCDショップで、試聴機の前に立っていた子だった。
あの日の夜、改装中のフロアで、キュゥべえを胸に抱いて座り込んでいた子でもあった。
大蜘蛛の脚が、少女の立つビルの縁にかかった。顎の鋏が、ゆっくりと開いていく。
玲佳は、右手を前に伸ばした。
虚空から、弓が生まれた。自分の背丈の倍を優に超える、巨大な弓だった。シヴァ神の弓。ハラダヌ。古代インドの叙事詩で、八つの車輪を持つ車に載せられ、何千人もの男たちに引かれてきたという。その重さだけで、普通の人間なら押し潰される。
魔力で強化した腕で、それを構える。矢も、弓に見合うだけの長さがあった。
矢筈を弦に番えた。腕の力だけでは、到底引ける弦ではない。魔力を流し込み、無理やり引き絞る。弦が軋んで、落雷のような唸りを上げた。
狙いは、蜘蛛の頭。
放った。
矢は空気を裂いてまっすぐに飛び、大蜘蛛の頭を跡形もなく砕いた。
頭を失った巨体が、絶叫しながら向かいのビルへ跳び退く。屋上の上で脚をばたつかせ、転げ回った。
玲佳は、二本目を番えた。
腹の真ん中を狙ったが、転げ回る巨体に、狙いがわずかに逸れた。矢は腹を大きく抉り取り、その下のビルの屋上ごと吹き飛ばした。足場を失った大蜘蛛が、底の見えない暗がりへ落ちていく。
玲佳は弓を下ろして、向かいのビルを見た。
蜘蛛の巣は、主を失ってほどけていた。桃色の髪の少女は、屋上の真ん中にぺたんと座り込んでいた。
結界が崩れた。
灰色のビル群が溶け、代わりに、薄汚れたコンクリートの壁が現れる。割れた窓から、午後の光が斜めに差し込んでいた。どこかの廃ビルの、がらんとした一室だった。結界の中で、座標がずれたらしい。
床を見回した。グリーフシードは、どこにも落ちていなかった。
底のない暗がりに落としたのは、失敗だった。
玲佳は変身を解き、部屋を出ようとした。
「あのっ」
背中に、声がかかった。
「助けてくれて、ありがとうございました!」
振り返ると、さっきの少女が、立ち上がって深々と頭を下げていた。
近くで見ると、思っていたよりも小さかった。大きな目が、まっすぐにこちらを見上げている。怯えた様子はなかった。
魔法少女ではない。指に指輪がない。魔力の気配もない。
それなら、用はなかった。
玲佳は、黙って背を向けた。
「ま、待ってください! お礼がしたいんです!」
「いい」
足を止めずに、出口へ向かう。
後ろで、ぱたぱたと足音がした。
右手を、掴まれた。
細い指だった。温かかった。振りほどこうと思えば、いくらでも振りほどけた。
玲佳は、顔だけを振り返らせた。
少女は、玲佳の手をしっかりと握って、見上げていた。自分で自分のしたことに驚いているような顔で、それでも手を離そうとしなかった。
夜の、湿った草の匂いがした。
廃ビルの中に、そんなものがあるはずはなかった。
「……はぁ」
玲佳は、長いため息をついた。
「わかった」
少女の顔が、ぱっと明るくなった。
その笑顔を、玲佳はまっすぐに見ていられなかった。目を逸らして、窓の外を見た。
「……で、どうする」
「えっとですね」
少女は、玲佳の手を引いて歩き出した。玲佳も、引かれるままに歩いた。
不快では、なかった。
何か、ずっと昔に失くしたものの形に、少しだけ似ている気がした。何を失くしたのかは、思い出せなかった。
*
駅前のファストフード店の、窓際の席だった。
トレイの上で、ポテトがゆっくりと冷めていく。まどかは、ジュースのストローを咥えたまま、向かいに座る人の顔を盗み見た。
如月玲佳。
店に入る前に、お互いに名前だけは名乗り合った。まどかが先に名乗ると、玲佳は少し間を置いてから、如月玲佳、と短く答えた。昨日の夜、キュゥべえの口から聞いた名前だった。三年生の、雪のように白い髪の先輩。廊下の窓越しに、一度だけ見たことのある横顔。
その人が、今、目の前でコーヒーの紙カップを両手で包んでいた。
近くで見ると、本当に白かった。髪も、肌も、伏せた睫毛の先まで。
窓から差し込む午後の光が、肩にかかった長い髪を透かしていた。光の当たったところだけが、ほんのりと金色を帯びて見える。紙カップを包む指は細くて長く、爪の先まで形が整っていた。
その白さの中で、目だけが深い紅色をしていた。透きとおった石の奥に、小さな火が灯っているような色だった。
顔立ちは、整いすぎているくらいだった。小さな顔の中に、細く通った鼻筋と、薄く形のいい唇が、少しの狂いもなく収まっている。顎の線はほっそりとしているのに、頬にはまだ、大人になりきらない柔らかさが残っていた。表情は、ほとんど動かない。そのせいで、絵の中の人を見ているような気持ちになる。ときどき伏せられる睫毛の影だけが、この人がちゃんと息をしていることを教えてくれた。
手芸部の部室で、まだ誰も針を通していない真っさらな布を広げたときのことを、まどかはなぜか思い出した。触れたら汚してしまいそうで、しばらく手を伸ばせなかった、あの白。
綺麗、と思った。
思っただけのつもりが、唇が小さく動いていた。声になっていなかったことを祈りながら、まどかは慌ててストローを咥え直した。
連れてきたのは自分なのに、何を話せばいいのか、少しもわからなかった。
どうしよう。何か、言わなきゃ。
「……鹿目まどか、だっけ」
玲佳のほうが、先に口を開いた。低くて、平らな声だった。
「は、はい」
「あなたは、知ってるでしょ? 私が、あなたたちの敵だってことぐらい」
まどかは、ストローから口を離した。
目を逸らしそうになって、逸らさなかった。まっすぐに、紅い目を見返した。
「それは、そうかもしれません。でも、悪い人じゃないって、思ったんです」
「なんで?」
「だって、玲佳さん、魔女からわたしを助けてくれたじゃないですか。それに」
まどかは少しだけ笑った。
「本当に悪い人だったら、敵だと思ってる相手にいきなり手を引っ張られたら、振りほどくと思うんです。あの場で、わたしをどうにかすることだってできたはずです。でも玲佳さんは、何もしないで、ここまでついてきてくれました」
玲佳の眉が、わずかに寄った。
「それだけで?」
「はい」
「たったそれだけの理由で、私が悪い人じゃないと?」
「はい。そう思います」
玲佳は、紙カップをテーブルに置いた。
その声が、少しだけ尖った。
「なら、もし私が、あなたを油断させてから殺すつもりだったら? それでもあなたは、私を悪い人じゃないって言える?」
まどかは、言葉に詰まった。
「それは……」
玲佳が、鼻で小さく笑った。
「ほら。そうは言えないでしょ?」
そう言った玲佳の顔が、なぜか、少しも勝ち誇って見えなかった。
悪い人だと思ってほしがっている。
そんなふうに見えた。悪い人だと思ってくれないと、困るみたいに。
「で、でも……!」
まどかは、テーブルに身を乗り出していた。思っていたより大きな声が出た。
周りの席の視線が、一斉にこちらに集まった。まどかは、顔が熱くなるのを感じて、ゆっくりと椅子に座り直した。
そのとき、玲佳の肩を、誰かの手がとんとんと叩いた。
「ねえ、そこのお嬢ちゃんたち」
二十歳くらいの男の人だった。派手なシャツを着て、髪を固めている。男の人は、玲佳の左肩に手を置いて、慣れた調子で笑った。
「お茶してるとこ悪いんだけどさ。これから、俺らと遊ばない?」
その後ろから、もう一人、額に汗を浮かべた男の人が回り込んできて、まどかの隣に立った。
「ねえ、君、名前、なんていうの?」
「え、あの……」
「教えてよ。ねえってば」
男の人の顔が、近づいてくる。肩に、湿った手が載った。まどかは、身体を縮めた。声が出なかった。
「……何?」
玲佳が、自分の肩の上の手を見もせずに言った。
それから、その手を払いのけた。軽く払ったように見えたのに、男の人の身体が半歩よろけた。
「彼女から、離れて」
声は、大きくなかった。
それなのに、店の中の空気が、一瞬で冷えた気がした。まどかの隣の男の人が、ひっと小さく声を上げて、何歩も後ずさった。
派手なシャツの男の人も、顔色を変えていた。
「あー……悪い、邪魔したわ。こいつの分も謝っとく」
男の人は、まどかのほうに頭を下げた。
「い、いえ。大丈夫です」
男の人は、もう一人の上着の襟を掴んで、店を出ていった。扉の前で一度だけ、玲佳のほうを振り返った。
まどかは、大きく息を吐いた。
「また、助けられちゃいました。ありがとうございます」
照れ笑いを浮かべると、玲佳は、ため息をついた。
「……あなたは、ちゃんと断れるようにならないと」
その言い方が、なんだか、怒っているというより、心配しているように聞こえた。
「やっぱり、悪い人じゃなかったです」
まどかは、にっこりと笑った。
「それと、あの、まどかって呼んでもらえたら、嬉しいなって」
玲佳は、額に指を当てた。
「……わかってないみたいだから、もう一回言うけど。もし私が、あなたを——まどかを、油断させて殺すつもりだったら、どうする?」
「たとえそうでも」
まどかは、胸を張った。
「玲佳さんは、わたしを助けてくれました。ちゃんと断れるようにならないとって、アドバイスまでしてくれました。だから、もう、わたしは玲佳さんを悪い人だなんて思いません」
玲佳は、何も言い返さなかった。
額に指を当てたまま、目を閉じて、長いため息をついた。今日だけで、何度目のため息だろう、とまどかは思った。
やがて、玲佳は目を開けた。
紅い目が、まどかを見た。さっきまでより、ほんの少しだけ、柔らかかった。
「……好きにして。まどか」