魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第十七話
紙袋の中で、買ったばかりのCDが揺れていた。
ワルキューレの騎行。金曜の夜、使い魔のせいで買いそびれた一枚だった。勇ましい曲だから、脚のリハビリをしている恭介の励みになるかもしれない。そう思って選んだ。
さやかは、見滝原を二つに分けて流れる川の土手に腰を下ろした。
西の空が、橙色に染まりはじめていた。あと三十分もすれば、日は沈みきるだろう。春の風が、斜面の若い草を揺らして、さらさらと鳴らしていた。
昼過ぎに、マミから電話があった。
佐倉杏子と、手を組むことになった。その杏子と一緒にいる、あの上級生とも、たぶん組むことになる。三年の、如月玲佳というらしい。ワルプルギスの夜を越えるまで。
頭では、わかっていた。
あんな化け物みたいな魔女と戦うなら、一人でも多く仲間がいたほうがいい。あの上級生が強いのは、身をもって知っている。組めるなら、それが一番いい。
わかっていても、納得はできなかった。
使い魔なんか狩るだけ無駄。
襲われる人を、見殺しにするのかと訊いたら、そうだと即答した。あの声を、さやかは一日だって忘れたことがなかった。
それに、あの夜。
佐倉杏子が死んだと思い込んだだけで、あの上級生は、倉庫街を一つ丸ごと消し飛ばした。自分の身体が壊れるのも構わずに。マミは、そう言っていた。
あいつは、どこかがおかしい。
何かとんでもなく危ないものを、腹の中に抱えている。
さやかは、膝を抱えた。
一番腹が立つのは、別のことだった。
初めてあいつを見上げたとき、綺麗だ、と思ってしまった。自分のサーベルを叩き折った相手なのに。一瞬だけ、息をするのも忘れた。
そのことを思い出すたびに、自分に腹が立った。
背後を、きいきいと細い音が通り過ぎていった。
振り返ると、白髪の老人が、車椅子の車輪を両手で回しながら、土手の上の道をゆっくりと進んでいくところだった。
恭介の手は治ったけれど、脚はまだ動かず、今も車椅子の上だ。
「キュゥべえも、もうちょっとサービスしてくれてもよかったのにさ……」
呟いてから、さやかは首を振った。
恭介のことは、後でいい。ワルプルギスの夜を越えなければ、何も始まらない。気持ちを伝えるのは、その後で遅くない。
「……よしっ!」
さやかは、勢いをつけて立ち上がった。
明日は、マミに稽古をつけてもらう日だ。今夜は早く寝て、身体を休めておかなければ。
土手を上がって、アスファルトの道に出た。
顔を上げた。
十五メートルほど先を、二つの背中が並んで歩いていた。
腰の下まで届く、真っ白な髪。
その隣で、桃色の髪が、小さく二つに結ばれて揺れていた。
頭に、血が上った。
さっきまで凪いでいた胸の中が、一瞬で沸騰した。心臓が、どくんと大きく跳ねる。考えるより先に、声が出ていた。
「ちょっと、上級生! 待ちなさいよ!」
白い髪が、ゆっくりと振り返った。隣の桃色の髪も、続いて振り返る。
「さ、さやかちゃん!?」
まどかが、目を丸くしていた。
「あんた、まどかに何してたのよ!」
「さやかちゃん、あのね——」
「まどかには訊いてない! そいつに訊いてんの!」
息が、荒くなっていた。
上級生は、何も答えなかった。紅い目で、ただ静かにさやかを見ている。その目が、あの夜と同じように、さやかを少しも見ていないような気がした。
数秒待っても、口を開かなかった。
さやかは、変身した。青いマントが翻り、手にサーベルが生まれる。
「さやかちゃん、だめ! ちゃんと話せば、玲佳さんがいい人だって、さやかちゃんにもわかるから!」
「まどか、騙されちゃだめ!」
さやかは、地面を蹴った。
一秒もかからずに、間合いを詰めた。白い身体を、頭から両断するつもりで、サーベルを振り下ろす。
刃が届く直前、あいつの右手が動いた。
手の甲が、サーベルの腹を軽く叩いた。それだけで、刃の軌道が斜めに逸れた。変身すらしていない、ただの手の甲だった。
次の瞬間、足元が消えた。
軽く、足を払われていた。自分の突進の勢いで、さやかの身体は宙で半回転し、アスファルトの上に叩きつけられた。五メートルほど転がって、ようやく止まった。
腕も脚も、擦り傷だらけだった。
「さやかちゃん!」
まどかが駆け寄ってきて、手を差し出した。
さやかは、その手を見なかった。まどかの肩越しに、白い背中を睨みつけていた。
上級生は、振り返りもせずに歩き去っていくところだった。
「……くそっ!」
さやかは、拳をアスファルトに叩きつけた。路面に細いひびが走り、拳の皮が破けて血が滲んだ。
ひびの入ったアスファルトと、血の滲んだ拳を見下ろして、さやかは長く息を吐いた。
青い光が、身体中の擦り傷を塞いでいく。拳の傷も、跡形もなく消えた。
さやかは、まどかの差し出したままの手を、ようやく取った。
「……ありがと、まどか」
立ち上がって、まどかの顔を見た。心配そうに眉を下げている、いつもの親友の顔だった。
それを見ていると、胸の中で煮えていたものが、少しずつ冷めていった。
「もっと稽古して、もっと強くならなくちゃね」
笑って言ったつもりだった。
目の端が、熱かった。
*
モニターの青白い光だけが、暗い部屋を照らしていた。
ほむらは、キーボードの上で指を止めた。画面には、見滝原総合病院の患者記録の検索画面が開いている。この程度のデータを盗み見ることは、ほむらにとって難しいことではなかった。
如月、玲佳。
漢字の組み合わせを変えて、何度も打ち込んだ。読み仮名でも試した。入院した時期を広げ、診療科を外してもみた。
何も出てこなかった。
如月という苗字は、そう多くない。一件も引っかからないのは、かえって不自然だった。
ほむらは、椅子の背にもたれて目を閉じた。
あの名前を聞いたのは、どこの時間軸だったか。
病室のベッドの上で目を覚ます。ほむらの時間は、いつもそこから始まる。その何度目かの、消灯後の廊下だった。ナースステーションの前を通りかかったとき、中で看護師が二人、声をひそめて話していた。
昔、うちの病棟に、如月って子がいたでしょう。あの事件の。
聞き取れたのは、それだけだった。そのときは、気にも留めなかった。
あの事件、とは何だったのか。記録が一件も残っていないのは、なぜなのか。
誰かが、意図して消したのだろうか。
「……馬鹿らしい」
ほむらは、首を振った。
考えすぎだった。記録の管理の仕方が違うだけかもしれない。古い記録は、別の場所に移されているのかもしれない。
どのみち、明日には本人と顔を合わせる。
ほむらは、モニターの電源を落とした。部屋が、完全な暗闇に沈んだ。
*
鍋の中で、クリームシチューがことことと煮えていた。
巴マミは、木べらで鍋の底を撫でながら、自分の口元が緩んでいることに気づいた。気づいて、もう一度緩めた。
明日だ。
佐倉さんが、戻ってくる。それに、あの白い子も。仲間が、二人増えるかもしれない。
冷蔵庫の中には、明日のためのスポンジがもう焼いて冷ましてある。佐倉さんは、昔から苺のショートケーキが好きだった。和解の印というほど大げさなものではないけれど、何か、目に見える形で迎えたかった。
「楽しみね」
誰もいない台所で、マミは声に出して言った。
窓の外で、少し欠けた月が、白く光っていた。
翌日の昼休み、マミは、自分の教室ではない教室の前に立っていた。
隣のクラスだった。毎日、廊下で前を通り過ぎている扉だった。中に入ったことは、一度もない。
深く息を吸う。心臓の音が、耳の奥でうるさかった。
鹿目さんたちと初めて会ったときより、緊張している。一度は敵として向き合った相手だからだろうか。共闘できるかどうかが、自分にかかっているからだろうか。自分でも、よくわからなかった。
もう一度、息を吸って、吐いた。
それから、ガラスの扉を開けた。
「このクラスに、如月さんはいるかしら?」
教室の中が、ざわめいた。
隣のクラスの巴マミが来た、というだけでも、ちょっとした騒ぎだった。ただ、ざわめきの本当の理由は、マミが呼んだ名前のほうにあるようだった。
「あ、あの……」
扉のすぐそばの席に座っていた、茶色い髪の小柄な子が、おずおずとマミを見上げた。
「如月さんなら……あそこに」
指さした先は、窓から一番遠い列の、最後尾だった。
そこに、白い少女が座っていた。
机の上に分厚い本を広げて、ページに目を落としている。背表紙に、アルファベットで小さく書名があった。Edda。
マミは礼を言って、その席まで歩いていった。
足音に、少女が顔を上げた。本を閉じる。ぱたん、と乾いた音がした。
噂は、聞いていた。すごい美人だという噂。
噂のほうが、控えめだった。
白い睫毛の下から、紅い目がまっすぐにマミを見上げていた。底の知れない、深い色だった。見つめ返しているうちに、足元がゆっくりとその色の中へ沈んでいくような気がして、マミは小さく瞬きをした。
「如月さん。よかったら、屋上で一緒にお昼を食べない?」
少女の目が、わずかに細められた。
何を言っているのか、という目だった。それから、その目がすっと冷えていった。
「……少し、話したいことがあるの」
マミが付け足すと、少女は黙って立ち上がった。
屋上には、春の風が吹いていた。
マミは長いベンチの端に腰を下ろして、膝の上で弁当の包みを解いた。如月玲佳は、同じベンチの反対の端に座った。二人の間には、ちょうど一人分の隙間が空いていた。
何かあれば、すぐに動ける距離だった。わざとそうしたのだと、マミにはわかった。
風の音だけが、しばらく続いた。
「……どういうつもり?」
玲佳のほうが、先に口を開いた。声には、隠す気のない警戒が滲んでいた。
「先に言っておくと、佐倉さんには、もう話してあるわ」
佐倉さん、と言った瞬間に、玲佳の眉間に皺が寄った。
取りつく島がない、とマミは思った。無理もない。一度は刃を向け合った相手の仲間から、いきなり昼食に誘われたのだから。
「話というのはね」
マミは、ワルプルギスの夜のことを話した。
二週間ほど後に、この街に現れること。現れれば、街一つが瓦礫になること。一人や二人で太刀打ちできる相手ではないこと。報酬として、グリーフシードの半分と、街の一部を分けること。
玲佳は、一度も口を挟まなかった。弁当にも手をつけず、ただ黙って、マミの話を聞いていた。一言ずつ、値踏みするように。
「それで、私たちと、ワルプルギスの夜を倒すまで手を組んでほしいの」
玲佳は、しばらく黙っていた。
それから、短く訊いた。
「その話、どこから?」
マミは、言葉に詰まった。
自分が、ほむらに訊いたのと同じ問いだった。そして、ほむらが答えなかった問いでもあった。自分が知らないことを、答えられるはずがなかった。
「それは……」
沈黙が、落ちた。
玲佳が、立ち上がった。
交渉は、それで終わりだという意味だった。
「待って!」
呼び止めても、玲佳は振り返らなかった。白い背中が、屋上の扉のほうへ遠ざかっていく。
「佐倉さんが——」
玲佳の足が、止まった。
ゆっくりと、振り返る。
「杏子が、なんだって?」
紅い目が、マミを射抜いていた。
研ぎすまされた刃物の切っ先を、喉元に突きつけられたような気がした。腕の産毛が、ざわりと逆立った。
卑怯な言い方だった。マミには、それがわかっていた。
この子が佐倉さんを何より大事にしていることは、あの夜に思い知った。自分の呼びかけ一つで、この子がどうなったかを見ている。それを知っていて、その名前を出した。
「……佐倉さんは、了承してくれたわ」
マミは、目を逸らさずに言った。
「今日の五時半に、私の家に来てちょうだい。来られるなら、だけれど」
住所を告げた。
玲佳は、何も答えなかった。背を向けて、今度こそ屋上の扉の向こうへ消えた。重い扉が、音を立てて閉まった。
屋上に、マミ一人が残った。
「……はあ」
小さなため息は、吹き抜ける春の風に紛れて、すぐに消えた。