魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第十八話
壁の時計が、十七時三十分を指していた。
三角形のガラスのテーブルを、四人で囲んでいた。暁美ほむら、佐倉杏子、美樹さやか。それから、巴マミ。鹿目まどかは、家の用事で来られないと連絡があった。
テーブルの上には、紅茶のカップと、ケーキの皿が並んでいた。ケーキは、もうない。杏子が、最初の十分で自分の分と、残りの半分を平らげていた。
誰も、口をきいていなかった。
杏子とマミの間の席が、一つだけ空いていた。
「来ないわね」
ほむらが、時計と空いた席を見比べて言った。
「ごめんなさい、暁美さん。もしかしたら、来てもらえないかもしれないの」
マミは、膝の上で指を組んだ。
「昼に誘ったとき、少し、言い方を間違えてしまって」
「……あなたが話をつけたんじゃなかったの?」
「そのつもりだったのだけれど」
「ふん」
さやかが、腕を組んで鼻を鳴らした。
「あんな自己チュー女、来ないほうがいいに決まって——」
最後まで、言えなかった。
テーブルが、がたんと揺れた。紅茶の表面に、細かい波紋が広がる。
杏子が、立ち上がっていた。その手に、いつの間にか赤い槍が握られている。穂先が、さやかの喉元の数センチ手前で止まっていた。
「調子乗んなよ、新入り」
低い声だった。部屋の空気が、一瞬で冷えた。
さやかの顔から、一瞬、血の気が引いた。けれど、その目はすぐに、杏子を睨み返していた。
「……なによ。本当のことでしょ」
さやかが、椅子を蹴るようにして立ち上がった。指の指輪が、青く光りかける。
「美樹さん!」
マミは、テーブル越しに手を伸ばして、さやかの手首を掴んだ。その間に、ほむらが、杏子の槍の柄に指を掛けていた。
「佐倉さん、落ち着いて」
「さやか、謝りなさい」
マミとほむらが、ほとんど同時に言った。
さやかは、掴まれた手首を振りほどこうとして、マミの顔を見て、やめた。指輪の光が、ゆっくりと消えていった。
杏子は、しばらくさやかを睨みつけていた。それから、大きく舌打ちをして、槍を消した。椅子に、どさりと腰を下ろす。苛立ちは、少しも収まっていないようだった。
「……なんで、あたしが」
さやかは、唇を尖らせてそっぽを向いた。
「はあ。美樹さやか、あなたは——」
ほむらが何か言いかけたとき、インターフォンが鳴った。
マミは、弾かれたように立ち上がった。
玄関の画面を覗く。白い髪が、映っていた。
胸の奥で、固く結んでいた何かが、ふっとほどけた。
「……いらっしゃい」
ドアを開けると、如月玲佳が立っていた。制服姿で、学校の鞄を提げている。玲佳は、小さく会釈をして、部屋の中へ入ってきた。
さやかが、その顔を正面から睨みつけた。玲佳はその視線を、まるで気づかないかのように受け流して、杏子の隣の空いた席に腰を下ろした。
「ちょっと待っていてね」
マミは台所へ行き、冷蔵庫を開けた。杏子に全部食べられないよう、一切れだけ、奥に隠しておいたのだ。
皿に載せて、フォークと一緒に玲佳の前に置いた。
「はい、どうぞ」
玲佳は、皿の上のケーキを少しの間見下ろしていた。それから、小さく手を合わせた。フォークで端を切り分け、口に運ぶ。
「……美味しい」
声が、こぼれたようだった。
言ってから、玲佳は自分でも少し驚いたような顔をした。もう一口、切り分ける。
マミは、頬が緩むのを止められなかった。
「ふふ。そう言ってもらえると、私も嬉しいわ」
マミは、自分の紅茶のカップを両手で包んだ。
「それと、如月さん。私のことは、マミでいいわ」
玲佳は、フォークを持つ手を止めて、マミを見上げた。紅い目が、何かを確かめるように、少しの間マミの顔の上にとどまった。
「……わかった。マミ」
短い返事だった。それでも、昼に屋上で向けられた刃物のような目とは、違う目だった。
ほんの一瞬、部屋の中の張りつめた空気が、柔らかくなった気がした。
「揃ったことだし、本題に入りましょうか」
ほむらが言った。全員の目が集まるのを待ってから、続ける。
「今まで、さやかはマミに稽古をつけてもらっていたわね。でも、マミは遠距離の戦い方でしょう。剣で戦うさやかに、近距離の動きを教えるには限界があると思うの」
「ええ。私が教えられるのは、どちらにも共通する基礎くらいね」
「そんなこと——」
さやかは言いかけて、口をつぐんだ。
「……やっぱ、なんでもない」
「だから、同じ近距離で戦う人に頼みたいの」
ほむらは、杏子を見た。
「佐倉杏子。お願いできるかしら」
「は? あたしが?」
杏子は、目を丸くした。それから、ちらりと隣の玲佳を見た。自分ではなく玲佳が選ばれると思っていたのだと、マミにはわかった。
「……ま、別に構わないけどさ」
*
橋の下の河川敷に、夕日が斜めに差し込んでいた。
川沿いの草の上で、杏子とさやかが向かい合っていた。二人とも、変身している。少し離れたところで、マミも変身して立っていた。何かあったときに、すぐ止められるように。
ほむらは、土手の斜面に腰を下ろして、それを眺めていた。
隣には、如月玲佳が座っていた。
「まずはお手並み拝見といくか」
杏子は、槍を片手で構え、もう片方の手でポケットから菓子を出して口に放り込んだ。
「殺す気で来な。じゃないと死ぬよ、トーシロ」
「トーシロって言うな!」
さやかがサーベルを構え、突っ込んでいった。刃と槍がぶつかる甲高い音が、橋の下に響く。マミが、食い入るようにそれを見守っていた。
「……少し、いい?」
戦いから目を離さずに、玲佳が言った。
ほむらは、隣の横顔を見た。
「ほむら、でいいわ」
「来る途中で、マミから聞いた。ワルプルギスの夜のことを話したのは、あなただって」
「ええ。そうよ」
「それで、あなたの力について、仮説を立ててみた」
ほむらは、表情を変えなかった。変えないように、気をつけた。
「聞かせて」
「まず、一つ目」
玲佳は、川面を見たまま、淡々と言った。
「あなたは、ワルプルギスの夜が来ることを、確かなこととして話している。予想じゃなくて、決まったことみたいに。それができるなら、候補は二つ。未来が見えるか、時間を操れるか」
ほむらの肩が、わずかに動いた。
「それから、あの夜のあなたの力。私は最初、瞬間移動だと思った。でも、違う。未来が見えて、そのうえ瞬間移動までできるなら、あの夜、あなたはもっと早く動けたはず。私があの子に刀を振り上げるより前に。あなたは、そうしなかった。そうできなかった」
玲佳は、一度だけ瞬きをした。
「だから、時間。止めた時間の中で、あなただけが動いた。それなら、あの夜のことに全部説明がつく」
ほむらは、しばらく何も言えなかった。
たった一度、それもこの子自身が我を失っていた夜に見ただけの力から、この子はそこまで辿り着いたのか。
正確だった。
「……ええ。そのとおりよ」
ほむらは、小さく息を吐いた。
「見事ね。あれだけの手がかりで、そこまで」
素直に、感心していた。同時に、背筋を冷たいものが撫でていった。この子を敵に回したら、どうなるのか。考えたくなかった。
「ここからは、私の想像」
玲佳は、ようやくほむらのほうを向いた。紅い目が、まっすぐにほむらを見た。
「キュゥべえは、あなたと契約した覚えがないって言ってた。あいつは、嘘はつかない。なのに、あなたは魔法少女で、まだ来ていない魔女のことを知っている。時間を操れる魔法少女が、それを全部満たすには——」
ほむらは、息を止めた。
「もしかして、あなたは——」
玲佳の言葉が、途切れた。
紅い目が、大きく見開かれた。
玲佳の喉から、甲高い悲鳴がほとばしった。河川敷じゅうに響き渡るほどの声だった。
杏子とさやかが、槍とサーベルを交えたまま、同時にこちらを振り返った。
「如月さん!?」
「おい、玲佳! ほむらに何かされたのか!?」
「何もしていないわ!」
ほむらは、思わず声を張り上げていた。
杏子は、さやかのサーベルを槍の一振りで弾き飛ばすと、斜面を一気に駆け上がってきた。玲佳は、斜面の上で身をよじり、両手で自分の腕を叩き続けていた。
「む、虫っ、虫が服の中に……! 来ないで、来ないでっ!」
河川敷が、しんと静まり返った。
玲佳の制服の袖口から、小さな黄金虫が一匹、ぶうんと羽音を立てて飛び立っていった。
ほむらは、口元を手で押さえた。見ると、マミも同じように口元を覆って、肩を震わせていた。杏子は、槍を握りしめて、ぽかんと口を開けていた。さやかに至っては、草の上に転がって腹を抱えていた。
「……へ、平気か?」
杏子が、恐る恐る玲佳の顔を覗き込んだ。
「あ……」
玲佳は、そこでようやく、自分が今何をしたのかに気づいたらしかった。両腕で頭を抱えて、顔を膝の間に埋める。
耳まで、真っ赤だった。もともとが白いぶん、隠しようがなかった。
草の上で笑い転げていたさやかが、ふと笑うのをやめた。
足元の草むらに手を伸ばす。何かを二つ、摘まみ上げた。緑色の、毛の生えた、ぐにゃりとしたもの。
毛虫だった。
さやかの目が、きらりと光った。
「……さやか」
ほむらが気づいたときには、もう遅かった。
「くらえぇっ! さやかちゃんアターック!」
「おいっ、テメェ!」
「美樹さん、やめなさい!」
二匹の毛虫は、夕日の中で見事な放物線を描いた。
そして、頭を抱えてうずくまる玲佳の、制服の襟元の隙間に、吸い込まれるように落ちていった。
「……え」
玲佳の声が、聞こえた。
次の瞬間、絶叫が上がった。
玲佳の身体が、土手の斜面を転がり落ちていった。一回転、二回転。草の上を転がるたびに、制服の下で何かが、ぷちりと潰れる小さな音がした。
玲佳は、斜面の下で、うつ伏せになって止まった。
動かなかった。
「ふう。日頃の恨みが晴れて、すっきりしたわ」
さやかが、額の汗を拭うふりをした。
誰も、笑わなかった。
「……あは」
うつ伏せの玲佳から、声が漏れた。
「あは、はは、あはははは、はははははは」
笑い声だった。しかし、どこか、決定的に何かが違っていた。音の高さが、揃っていない。息継ぎの位置が、おかしい。
ほむらは、無意識に左腕の盾に手をかけていた。
玲佳が、ゆらりと立ち上がった。
その顔を見て、ほむらは息を呑んだ。
唇の両端が、頬の半ばまで吊り上がっていた。笑っていた。紅い目が、夕日よりも、どんな血よりも深い色で、ぎらぎらと光っていた。今まで何百という魔女と向き合ってきたが、そのどれとも違う、もっと冷たくて、もっと底のない光だった。
その目が、さやかを見た。
「——殺す」