魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第十九話
熱い湯が、頭の上から降り注いでいた。
玲佳は、マミの家の浴室の壁に片手をついて、目を閉じていた。
何があったのか、途中から、よく覚えていなかった。
毛虫が襟元に落ちてきて、斜面を転がって、身体の上で何かが潰れた。そこまでは覚えている。その先が、ところどころ白く抜けていた。
覚えているのは、背中から回された腕の感触だった。息ができないほど強く、羽交い締めにされていた。耳元で、杏子の声がしていた。
玲佳、落ち着け。玲佳。
気がついたときには、河川敷の草の上に座り込んでいて、杏子の腕の中にいた。さやかが、少し離れたところで青い顔をしていた。
玲佳は、シャワーの湯を止めた。
濡れた髪から、雫がぽたぽたと床に落ちていった。
借りたタオルで髪を包んでリビングに戻ると、四人の話し声が聞こえてきた。
「むしゃくしゃしてやった。後悔はしてない」
「さやか。杏子が止めてくれなかったら、どうなっていたかわかっているの?」
「しっかし驚いたよ。玲佳が、あそこまで虫が駄目だったなんてな」
杏子が、二つ目のホールケーキにフォークを突き立てながら言った。マミが、冷蔵庫の奥からもう一つ出してきたらしかった。
「それとさやか。これで二回目だからな。三回目はねえぞ」
「如月さんにも、苦手なものくらいあるわよ。人の子ですもの。……意外だったけれど」
部屋の空気は、玲佳が来たときよりずっと緩んでいた。さやかでさえ、テーブルに頬杖をついて、半分笑っていた。
玲佳が戻ってきたのに気づいて、杏子がにやりと笑った。
「いやあ、玲佳にも可愛いとこがあるんだな。まさか虫が嫌いとはね」
玲佳の肩が、ぴくりと跳ねた。
耳の奥で、別の声がした。
気持ち悪っ。こいつ、虫食ってやんの。
さすが化け物だな。
教室の床だった。誰かの上履きが、頭を押さえつけていた。口の中に、何かが押し込まれていた。周りで、笑い声が弾けていた。
いつの記憶なのか、わからなかった。
「……虫は、少し苦手なだけ」
玲佳は、どうにかそれだけ言った。自分の声が、ひどく小さく聞こえた。
「いやいや、全然少しじゃ——」
「何か言った? 偽善者」
さやかの顔が、見る間に赤くなった。
「はあぁっ!? 偽善者って何よ! だったらあんたは——」
「黙って、半人前。近所迷惑でしょ。そんなこともわからない?」
さやかが、椅子を蹴るようにして立ち上がりかけた。拳を握って、それから、その拳をゆっくりとほどいた。昨日の土手で、アスファルトに叩きつけた拳だった。
「……何よ」
歯ぎしりの音が、聞こえた気がした。
「美樹さん、落ち着いて」
「本日二回目だな、落ち着いて」
「佐倉さん、茶化さないの。……如月さんもよ。虫嫌いがばれて、からかわれたからって——」
「帰る」
玲佳は、タオルを外して立ち上がりかけた。
マミが、慌てて腰を浮かせた。杏子も、フォークを咥えたまま手を振った。
「まあまあ。もうちょいいようぜ、玲佳」
杏子の口の端に、クリームがついていた。
玲佳はしばらくそれを見てから、上げかけた腰を椅子に戻した。
「……最悪の一日」
小さく呟くと、杏子が声を上げて笑った。
それから、しばらく誰も帰らなかった。
マミが紅茶を淹れ直し、杏子は二つ目のホールケーキを黙々と切り崩していった。さやかが、その減り方に文句をつけ、杏子が言い返し、マミがまた二人をなだめた。ほむらはほとんど口を開かずに、カップの縁を指でなぞっていた。
玲佳は、濡れた髪をタオルで拭き、それからマミにドライヤーを借りた。洗面所から戻ってくると、話の輪はさっきと同じところで回り続けていた。
杏子が、空になった皿をマミのほうへ押しやった。マミは笑いながら、次の一切れを載せてやった。杏子は礼も言わずにフォークを突き立て、マミはそれを咎めもしなかった。
玲佳は、少しの間それを眺めていた。
ほんの数日前まで、杏子はマミの名前が出るだけで顔をしかめていた。マミは、あたしがやる。そう言って、地図の上の駅前に赤い丸をつけていた。
それが今は、同じテーブルで、当たり前のように皿をやりとりしている。
ケーキの力か、と玲佳は思った。
乾いた髪を指で梳きながら、玲佳はまた、話の輪を聞くともなく聞いていた。窓の外は、いつの間にか、すっかり暗くなっていた。
「あっ、やば」
さやかが、壁の時計を見て飛び上がった。八時を、少し過ぎていた。
「すみません、マミさん、お邪魔しました! また明日来ます! じゃあね、ほむら。……と、杏子」
さやかは鞄をひっつかんで、玄関から飛び出していった。玲佳の名前は、呼ばなかった。
「私も、そろそろ失礼するわ」
八時半になると、ほむらが通学鞄を手に立ち上がった。玲佳も、それにつられるように立った。
「私も帰る。杏子は?」
「あ、ちょっと待ってくれ。すぐ食い終わる」
杏子は、皿に残った最後の一切れを口に押し込んだ。両手を合わせて、目を閉じる。
「……ごちそうさまでした」
玲佳は、杏子の前の皿を見た。記憶をたどると、杏子はこの二時間で、ホールケーキを一つと半分以上、胃の中に収めていた。
杏子は、ケーキが好きなのだ。
今まで、知らなかった。
今度、作ってみよう。玲佳は、誰にも言わずにそう決めた。
「マミ。美味かった」
「ふふ、そう? よかったわ。ねえ、明日もみんなで来ない? 今度は、鹿目さんも呼んで」
「いいわね。ちょうど、明日話しておきたいことがあるの。私は来るわ」
「おう。マミのケーキが食えるなら、願ったり叶ったりだ」
「もう。おだてても、何も出ないわよ」
「お世辞じゃねえって。本心だよ。マミのケーキは最高だ」
マミが、嬉しそうに頬に手を当てた。
玲佳は、それを黙って見ていた。眉間に、ほんのわずかに力が入ったのが、自分でもわかった。
『あら、玲佳。焼餅?』
頭の中に、声が響いた。
ほむらだった。玄関のほうへ向かいながら、こちらを振り向きもしていない。からかっているのか、純粋に驚いているのか、どちらともつかない声音だった。
『……ご想像にお任せする』
玲佳は、テレパシーでそれだけ返した。
「玲佳も来るよな、明日」
杏子が、玲佳の顔を覗き込んだ。
「え? ……ええ。行く」
「鹿目さんには、私から連絡しておくわ。それじゃあ、また明日」
「気をつけて帰ってね、三人とも」
玄関で靴を履いていると、後ろから呼び止められた。
「如月さん。……少しだけ、いいかしら」
杏子とほむらは、先に廊下へ出て、エレベーターのほうへ歩いていった。
マミは、玄関の壁に片手をついて、玲佳を見ていた。さっきまでの笑顔は、なかった。
「倉庫街の夜のこと。あのとき、私がテレパシーで、あんな呼びかけ方をしなければ」
マミは一度言葉を切った。
「あなたは、あんなふうにはならなかった。……ごめんなさい」
マミは深く頭を下げた。金色の巻き髪が、肩から前へ流れ落ちた。
玲佳は少しの間、その頭のてっぺんを見下ろしていた。
あの夜のことは、途中からほとんど覚えていなかった。残っているのは、杏子が死んだと思ったことと、目を覚ましたら、杏子がそこにいたことだけだった。
「……覚えてない。だから、謝られても、よくわからない」
マミが、顔を上げた。
「でも、杏子は生きてた。それで、いい」
それだけ言って、玲佳はドアを開けた。
閉まりかけたドアの隙間から、マミが小さく息を吐くのが見えた。
*
帰り道は、川沿いを選んだ。
少し遠回りになるけれど、夜に杏子と歩くときは、景色のいいこの道を選ぶことが多かった。
杏子は、両手を頭の後ろで組んで、半歩先を歩いていた。マミの家を出てから、虫の話を一度もしていなかった。からかうなら、今がいちばんの機会のはずだった。
河川敷で後ろから回された腕の感触を、玲佳はまだ肩のあたりに覚えていた。あの腕がなければ、自分が何をしていたのか、わからない。
礼を言おうとして、口を開いた。
言葉が、喉のところで止まった。止めてくれてありがとう、と言えば、止められなければならなかった自分を、認めることになる。
玲佳は口を閉じて、空を見上げた。
空いっぱいに、星が散らばっていた。
都会の夜空ではありえない数で、天の川まで、うっすらと見える。この街の空がなぜこうなのかは、何度も調べられたのに、結局誰にもわからなかった。
どこかの誰かが、こういう空を願ったのかもしれない。玲佳は、ときどきそう思う。
川面から、湿った草の匂いが上がってきた。
「……今夜は、よく見える」
口に出すつもりのなかった声だった。
「……だな」
隣で、杏子がぽつりと言った。いつの間にか、半歩の差がなくなっていた。
「空って、こんなに綺麗だったんだな。今まで知らなかったよ。いや、知らなかったっていうか、興味なかったんだけどさ」
杏子は、足を止めた。
玲佳のほうに、身体ごと向き直る。
「こんなもんに気づけたのも、玲佳のおかげだ。……ありがとな」
杏子は、笑っていた。
星明かりに照らされて、その笑顔が、ぼんやりと光って見えた。
「杏子……」
玲佳は、目を少しだけ見開いた。
先に、言われてしまった。喉に詰まらせたままの礼を、杏子のほうが先に口にした。それも、玲佳が何もしていないことへの礼を。
自分の口元が緩んでいくのがわかった。止めようとは、思わなかった。
「こっちこそ。ありがとう」
杏子は、鼻の頭を指でこすって、また前を向いて歩き出した。何への礼なのかは、わかっているような背中だった。
*
部屋に戻ると、玲佳はベッドに仰向けに倒れ込んだ。
「……疲れた」
天井の照明が、眩しかった。右腕で、目の上を覆う。
ここ何年かで、二番目に長い一日だった。一番は、決まっている。杏子と初めて会った日だ。あの日のことは、今でも細かいところまで覚えている。たぶん、一生忘れない。
腕の下の暗がりに、今夜の星空が浮かんだ。杏子の笑った顔が浮かんだ。ありがとな、という声が浮かんだ。
思い出すたびに、胸の奥がくすぐったくなった。
「……寝よう」
起き上がって、洗面台の前に立つ。引き出しから、髪ゴムを一本取り出した。この前、どこかへ失くしてしまったので、新しく買ったものだった。
腰の下まで届く髪を、うなじのあたりで緩く一つにまとめる。寝るときと、体育のある日は、いつもこうしている。
照明を消して、ベッドにもぐり込んだ。
目を閉じた。
眠れなかった。
何度寝返りを打っても、頭の芯だけが妙に冴えていた。照明をつけて、時計を見る。銀色の長針が、十二を過ぎていた。
喉が、渇いていた。
リビングに出て、冷蔵庫を開ける。水のペットボトルは、一本も残っていなかった。杏子が、全部飲んでしまったらしい。
夜風にでも当たりたい気分だった。
玲佳は、上着を一枚羽織って、部屋を出た。
二十四時間営業のコンビニで、水とお茶を何本か買った。
「ありがとうございましたー」
眠そうな店員の声を背中に聞きながら、家への道を歩く。
右手に、公園が見えてきた。
四月の半ばで、桜はまだ散りきっていない。昼間は花見の客で賑わう公園だった。この時間になると、誰もいない。街灯の下で、白い花びらが音もなく舞っていた。
足の下で、がしゃりと音がした。
空き缶を踏んでいた。見回すと、花見の客が置いていったらしいゴミが、あちこちに散らばっている。片付けが追いついていないらしかった。
玲佳は、踏んだ缶を爪先で脇へ蹴りやった。
「なあ、如月」
背後から、声がした。
男の声だった。聞き覚えのない声。それなのに、その声は、玲佳の名前を知っていた。
「金、貸せよ」