魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第二話
黄色いテープをくぐった先で、空気が一段冷たくなった。
「ちょっと、まどか。ここ立ち入り禁止だって」
後ろから、さやかが声をひそめて言う。鹿目まどかは返事をする代わりに、手すりに片手を置いたまま上を見上げた。
四階から先は、照明が半分しか点いていなかった。養生シートに覆われた壁と、剥き出しの配管。塗料と埃の匂いが、階段の上から降りてくる。
『助けて』
また聞こえた。耳ではなく、頭の内側に直接落ちてくる声だった。試聴機の前でヘッドホンの音楽を押しのけてきたのと、同じ声。
「聞こえない? 誰か、助けてって」
「聞こえないって。ねえ、戻ろうよ」
さやかの言うことが正しいのは、まどかにもわかっていた。それなのに、足はもう次の段を踏んでいた。呼ばれているのは自分だと、理由もなく確信できてしまったからだ。
五階の踊り場を過ぎたとき、頭上で金属の外れる音がした。天井の点検口から、白いものが落ちてくる。
まどかは両腕を伸ばして、それを受け止めた。
柔らかく、温かかった。猫ほどの大きさの白い獣で、長い耳の先から金色の輪を下げている。後ろ脚の毛が裂けて、そこから赤いものが滲んでいた。
『……助けて』
腕の中で、獣は口を動かさずにそう言った。
足音がした。
配管の影から、黒い髪の少女が歩み出てくる。今朝、教室の前に立って名前を名乗った転校生だった。暁美ほむら。ただ、今朝の制服とは違う、見たことのない服を着ている。白い上着に、灰色の襟とスカート。左腕には、円い盾のようなものが嵌まっていた。
「その生き物から離れて」
静かな声だった。休み時間に保健室まで案内したときに聞いたのと同じ、温度のない声。
「だ、だめだよ。この子、怪我してるもん」
「あなたには関係ない」
ほむらが一歩近づき、まどかは一歩下がる。背中が壁に当たった。腕の中の獣が、小さく震えている。
その瞬間、横から白い霧が噴き出した。
「まどか、こっち!」
消火器を抱えたさやかが、中身が尽きるまでレバーを握り込んでいた。
霧の向こうでほむらが咳き込む。さやかは空になった消火器を放り捨て、まどかの手首を掴んで走り出した。
「何なのあいつ! 転校生ってだけでも十分変なのに、今度はコスプレで通り魔?」
「わかんない。わかんないけど、この子、助けなきゃ」
廊下の角を曲がったところで、床が波打った。
足の裏から、平衡が抜けていく。壁紙が本のページのようにめくれ上がり、その下から、クレヨンで塗りたくったような薔薇の垣根が現れた。天井が遠のき、代わりに、紙を切り抜いたような空が貼りつく。振り返ると、今しがた曲がってきたはずの角がなかった。
「……え、非常口は? どこよ、ここ」
さやかの声が上擦っている。答えられる者はいなかった。
垣根の陰で、何かが揺れた。綿を丸めたような白い頭に、黒々とした髭。細い脚で、身の丈ほどもある鋏を開いては閉じている。一つではなかった。垣根のあちこちから、同じものが次々と顔を出す。
鋏の鳴る音に混じって、歌のようなものが聞こえた。
「キレイナオハナ、ミツケタヨ」
見た目だけなら、滑稽な絵本の挿絵だった。それなのに、身体の奥のほうが、あれに近づくなと叫んでいる。膝から力が抜けていく。気づけば、まどかはさやかの手を、指の骨が軋むほど強く握り返していた。
「ねえ、これ夢だよね。夢って言ってよ、まどか」
さやかの手も、同じくらい冷たかった。
綿の頭たちが、輪を狭めてくる。鋏の音が揃っていく。
腕の中の小さな重みを、まどかは胸に押しつけた。この子まで怖がらせるかもしれない、と考える余裕はなかった。
「いやだよ……わたし、いやだよ!」
叫んだ声が、紙の空に吸い込まれていく。
鋏が振り上げられた。
その刃が降りてくるより先に、足元で金色の光が弾けた。
*
自動ドアが三度開いて閉じるまで、玲佳はその前に立っていた。
コンビニには入らなかった。エスカレーターを逆に上り、三階で降りる。CDショップの前を通り過ぎて、フロアの奥の階段へ向かった。
黄色いテープは、片端が柱から外れて床に垂れていた。立てかけてあった看板も倒れている。誰かがくぐるときに、肩でも引っかけたのだろう。
玲佳はテープを跨いだ。
四階から上は、床に埃が積もっていた。照明の落ちた廊下に、足跡が続いている。小さな靴の跡が、二人分。片方は迷いなくまっすぐに、もう片方はその後ろを、ときどき横に逸れながら。見滝原中の指定靴の、踵の模様だった。
試聴機の前にいた二人だ。
それはいい。玲佳が足を止めたのは、足跡がそれしかないことだった。
銃を撃った誰かは、この廊下を通っていない。
別の階段から上がったのだろう。そう考えることにして、玲佳は先へ進んだ。
五階まで上ったところで、右手の薬指がじわりと熱を持った。
見下ろすと、銀の指輪が内側から淡く光っている。魔女の気配だった。それも、すぐ近く。
銃声と、魔女。銃を持ち込んで魔女のいる場所へ踏み込む人間は、魔法少女以外にいない。少なくとも一人は、この上にいる。
それなら、自分が手を出す必要はない。
わかっていて、足が止まらなかった。
普段なら背を向けている。そのために、わざわざ身体に結界まで張って気配を消しているのだ。見知らぬ魔法少女の狩りを覗きに行く理由など、一つもない。
「……私にも焼きが回った?」
口の中で呟いて、玲佳は口の端だけで笑った。十四で耄碌するには、いくらなんでも早すぎる。
廊下の先がひらけて、吹き抜けに面した広い空間に出た。
空気が、ねじれたものを無理にほどいた後のように、まだ微かに震えていた。結界が消えたばかりなのだ。玲佳は柱の陰で足を止め、呼吸を浅くした。
床に、桃色の髪の子が座り込んでいた。胸に白い獣を抱いている。キュゥべえだった。その肩に、青い髪の子が手を置いている。二人の指に、指輪はない。魔法少女ではなかった。
少し離れて、金色の髪を縦に巻いた少女が立っていた。変身している。手には、細長いマスケット銃。年は、自分と同じくらいだろうか。どこかで見た顔のような気もしたが、学校の人間の顔を覚えている自信は、玲佳にはなかった。
その向かいに、黒い髪を長く伸ばした少女。こちらも変身していた。
二人の間の空気だけが、張りつめている。
「魔女は逃げたわ。追うなら今のうちよ。今回は譲ってあげる」
金色の髪の少女が言った。柔らかい口調で、少しも柔らかくない声だった。
「私が用があるのは——」
「見逃してあげる、と言っているの。お互い、余計な揉め事は避けたいでしょう?」
黒い髪の少女は、しばらく何も言わなかった。やがて、桃色の髪の子を一度だけ見てから、踵を返した。
出口へ向かう途中、その視線が、玲佳の潜む柱のほうを掠めた。
気づかれたのか。ただ出口の方角を確かめただけなのか。判別がつく前に、黒い髪は廊下の暗がりに消えていた。
玲佳は重心をわずかに後ろへ移した。靴底の下で、コンクリートの欠片が、ごく小さく鳴った。
金色の髪の少女は、こちらを振り向きもしなかった。
「……貴女もよ」
玲佳は答えなかった。
言われなくても、そのつもりだった。足音を殺して廊下を戻り、階段を下りる。三階まで来ると、床に垂れていたテープの端を拾い上げ、柱の釘に掛け直した。
*
足音が完全に聞こえなくなってから、まどかはようやく息を吐いた。
「ふう……」
吐いた息が、震えていた。さやかも隣で、壁に背中を預けて、ずるずると座り込む。
紙の空も、薔薇の垣根も、どこにもなかった。埃っぽい改装中のフロアに、半分だけ点いた照明。自分たちがさっきまでいた場所が、嘘のように見えた。
金色の髪の人が、まどかの前に膝をついた。腕の中の白い獣に、そっと掌をかざす。温かい黄色の光が滲み出して、裂けた後ろ脚の毛並みを、少しずつ元の白に戻していった。
「あの……」
まどかは、さっきから気になっていたことを口にした。
「さっき、向こうに何か言ってましたよね。誰か、いたんですか?」
金色の髪の人は、一瞬だけ廊下の暗がりのほうへ目を向けた。
「……いいえ。気のせいだったみたい」
そう言って、柔らかく笑う。今度は、声も柔らかかった。
「私は巴マミ。貴女たちと同じ、見滝原中の三年生よ」
「三年生……」
さやかが、まどかと顔を見合わせた。同じ学校の先輩が、あんな銃を持って、あんな場所で戦っていた。
腕の中で、白い獣がぱちりと目を開けた。
「ありがとう、マミ。助かったよ」
確かに、その獣が喋っていた。まどかもさやかも、それに驚くだけの力はもう残っていなかった。
白い獣はまどかの腕からするりと抜け出し、二人の前にちょこんと座り直す。赤い目が、まっすぐにこちらを見上げた。
「僕の名前はキュゥべえ。君たちにお願いがあって来たんだ」
尻尾が、一度だけゆっくりと揺れた。
「僕と契約して、魔法少女になってよ!」