魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第二十話
目覚まし時計の音で、目が覚めた。
玲佳は、腕を伸ばして音を止めた。カーテンの隙間から、白い朝の光が差し込んでいる。
いつ眠ったのか、覚えていなかった。
枕の上に、束ねた髪が流れていた。昨夜、寝る前に新しい髪ゴムでまとめた髪だった。その結び目に、何か小さなものが引っかかっていた。
指で摘まんで、目の前にかざす。
桜の花びらだった。
公園で、空き缶を踏んで、爪先でどけた。背後から、声がした。なあ、如月。金、貸せよ。
そこから先が、なかった。
どうやって公園を出たのか。どうやってマンションまで戻ってきたのか。どうやってこのベッドに入ったのか。何一つ、思い出せなかった。
玲佳は、ベッドから降りた。
リビングに出て、冷蔵庫を開ける。ペットボトルの水とお茶が、きちんと並んで冷えていた。コンビニで買ったものだったが、袋から出して棚にしまった記憶はない。
洗面所に行った。
洗濯機の蓋が、少しだけ開いていた。中を覗くと、昨夜羽織っていった上着が、一枚だけ入っていた。湿っていた。回した覚えのない洗濯機が、回し終わった後の匂いがした。
玲佳は、上着を取り出して広げた。
どこにも、何もついていなかった。
しばらく、それを手に持って立っていた。
杏子の部屋のドアの向こうから、規則正しい寝息が聞こえた。
玲佳は上着をハンガーに掛けて、ベランダの物干しに吊るした。それから、顔を洗い、制服に着替えて、髪をほどいた。
花びらは、手のひらの上でくしゃりと小さくなっていた。玲佳はそれを、ゴミ箱に落とした。
*
手芸部の活動を早めに切り上げて、まどかはマミのマンションへ走った。
昼休みに、ほむらから聞いたのだ。杏子と、それから玲佳とも、ワルプルギスの夜まで手を組むことになった、と。昨日の夕方、もうマミの家で顔を合わせたのだという。
自分だけ、その場にいなかった。
エレベーターの中で、息を整える。整えきれないうちに、扉が開いた。
「早かったじゃない。いらっしゃい」
マミが、玄関で笑って迎えてくれた。
「お、お邪魔します」
リビングに入ると、三角形のガラスのテーブルを囲んで、三人が座っていた。
さやかと、ほむらと、白い髪の後ろ姿。
「あっ、玲佳さん! 来てたんですね!」
白い髪が、振り返った。
紅い目が、まどかを見た。
「久し……」
玲佳は、そこで一度言葉を切った。
「……二日ぶり、まどか」
さやかが、正面から玲佳を睨んでいた。玲佳は、それを横顔で受け流していた。
まどかが、玲佳とほむらの間の空いた席に座ろうとすると、ほむらが目を丸くした。
「まどか。玲佳と、知り合いだったの?」
「うん。この前、魔女に襲われそうになったとき、助けてもらったの」
まどかは、さやかのほうに向き直った。
「だからさやかちゃん、玲佳さんのこと、悪い人だなんて言わないでね」
少しだけ、目の端が熱くなっていた。上目遣いになっているのが、自分でもわかった。
さやかは、ばつの悪そうな顔で、目を逸らした。
「う……わかったよ」
まどかは、今度は身体ごと玲佳のほうを向いた。
「……まどか? 何?」
玲佳の紅い目に、戸惑いがよぎった。
まどかは、その目をまっすぐに見返した。
「玲佳さん」
一度、名前を呼んでから、話しはじめた。
「玲佳さんも、さやかちゃんと、喧嘩しないでほしいんです。もし、それが原因で、玲佳さんがどこかに行っちゃったらって思うと、わたし……」
そこまで言って、言葉が続かなくなった。まどかは、膝の上で両手を握りしめて、俯いた。
玲佳は、しばらく黙っていた。
「……まどか」
顔を上げると、玲佳の目から、戸惑いが消えていた。
「わかった。約束する」
まどかは、ぱっと笑った。
玲佳が、その笑顔から少しだけ目を逸らした。ファストフード店で見たのと、同じ仕草だった。
「じゃあ、握手してください。さやかちゃんと」
「え?」
「え?」
玲佳とさやかの声が、重なった。
まどかがもう一度お願いすると、二人は渋々立ち上がり、テーブル越しに、渋々手を握り合った。どちらも、いい顔はしていなかった。けれど、悪い顔もしていなかった。
二人の手が離れるのを見届けて、マミが小さく呟いた。
「無邪気って、怖いわね」
席に座り直した玲佳に、ほむらが、急に頭を下げた。
「玲佳。本当に、ありがとう」
「……何が?」
「まどかを、助けてくれたでしょう」
玲佳は、何か言おうとして、口を閉じた。
どうも、とも、こちらこそ、とも言わなかった。頭を上げて、とも言わなかった。ただ、どう答えていいのかわからないという顔で、ほむらの下げた頭を見ていた。
まどかは、その横顔を見ていた。
ありがとうって言われることに、慣れていないんだ。そう思った。
「ところで、如月さん。佐倉さんは?」
マミが、訊いた。
「杏子なら、もうすぐ来ると思う」
玲佳は、少しだけ首を傾げた。
「……来た」
その瞬間、インターフォンが鳴った。
「本当に、もうすぐね」
マミが、目を丸くしながら玄関へ向かった。
ほむらが、玲佳を見ていた。
「どうして、来るとわかったの?」
「耳を強くしたら、杏子の足音が聞こえたから」
玲佳は、何でもないことのように言った。
ほむらの眉が、わずかに寄った。何か訊きたそうにしていたけれど、その前に、まどかの口が動いていた。
「玲佳さんって、そんなこともできるんですね」
「そんなこと?」
「この前、助けてもらったときは、すっごく大きな弓を持ってたんですよ。玲佳さんの背より、ずっと大きい」
「弓?」
さやかが、首を捻った。
「あたしのときは、刀だったけど」
「それに、風もね」
ほむらが言った。
「玲佳。あなたの力は、いったい何なの?」
答えは、なかった。
玲佳は、ほむらのほうを向いたまま、動かなかった。紅い目が、ほむらを通り越して、どこか遠くを見ていた。瞬きも、していなかった。
「……玲佳?」
ほむらが呼んでも、返事がなかった。
まどかは、胸の奥がひやりとした。
「玲佳さん?」
呼んでも、やっぱり返事はなかった。
まどかは、考えるより先に手を伸ばしていた。玲佳の真っ白な両頬を、指で摘まんで、そっと横に引っ張る。
柔らかかった。
玲佳が、目を瞬かせた。紅い目の焦点が、ゆっくりとまどかの顔に戻ってくる。何が起きているのか、わからないという顔だった。
「玲佳さんのほっぺた、柔らかいですね」
言ってから、まどかは自分が何をしているのかに気づいた。それでも、指を離すタイミングがわからなかった。
「……まどか。やめて」
ようやくそう言った玲佳の頬が、少し赤くなっていた。摘まんでいたせいなのか、そうではないのか、まどかにはわからなかった。
「何してんだ?」
振り向くと、杏子とマミが、リビングの入口に立っていた。
*
杏子は、マミと玲佳の間の席に座って、マミが出したケーキを一口食べた。
それから、フォークを置いて、隣の玲佳に顔を向けた。
「なあ、昨日の夜、通り魔があったの知ってるか?」
「通り魔……?」
玲佳は、紅茶のカップを持った手を止めた。
「ホームルームで、先生が言ってたよね」
さやかが言った。
「他の学校の生徒が、刺されたって」
「ええ。長い刃物で、心臓を一突きだったそうよ。朝のニュースでもやっていたわ」
ほむらが、腕をまっすぐ前へ突き出してみせた。
「私も聞いたわ。如月さんのクラスでは、先生、話していなかった?」
マミが訊くと、玲佳は、少しの間黙った。
「……そう言われると、聞いた気もする。けど、朝のこと、あんまり覚えてなくて」
まどかは、玲佳の手元を見た。
紅茶のカップを包む白い指が、ほんのわずかに、震えていた。
気のせいかもしれなかった。瞬きをすると、もう震えてはいなかった。
「ならいいや」
杏子は、あっさりと言った。
「うちの近くだったみたいだからさ。ちょっと気になっただけ」
「ねえ、ほむら。長い刃物って、どんな?」
さやかが訊いた。ほむらは、少し考えてから答えた。
「槍のようなものか、刃渡りが五十センチ以上ある刃物。そう言っていたわね」
「槍、ねえ……」
さやかの目が、ちらりと動いた。
杏子ではなかった。
その隣の、白い横顔を見ていた。刀も、弓も、何でも出せる人の横顔を。
「さやかちゃん……」
まどかは、小さく名前を呼んだ。
さやかは、何も答えなかった。玲佳も、何も言わなかった。紅茶の表面に映った天井の照明だけが、小さく揺れていた。