魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第二十一話
マンションの前で、皆と別れた。
「じゃあな!」
「さようなら」
ほむらは、まどかを家まで送っていくと言った。まどかは遠慮したが、ほむらは譲らなかった。魔法少女が一人ついていれば、通り魔が相手でも心配はいらない。
二人の背中が角を曲がるのを、玲佳は見送った。
「玲佳。帰ろうぜ」
杏子に呼ばれて、玲佳は歩き出した。
夕日が、街の輪郭を橙色に縁取っていた。図書館の脇の、欅の並木道を抜ける。足元で、二人分の影が長く伸びていた。
「杏子。今日は、どうだった?」
「ん? 稽古か? さやかはまだまだだな。筋はいいけど、突っ込みすぎる」
「そっちじゃなくて」
杏子が、首を傾げた。
玲佳は、少し考えてから言い直した。
「ごめん、言い方が悪かった。昼間は、何してた?」
「ああ、そっちか。風見野まで、狩りに行ってた。しばらく空けてたからさ、魔女が溜まってて大漁だったよ」
杏子は、ショートパンツのポケットに手を突っ込んだ。
「そうだ。これ、玲佳の分」
差し出された掌の上に、グリーフシードが二つ載っていた。
玲佳は、目を細めた。
「……なんで。杏子が取ってきたのに」
「いいから。ほら」
杏子は、玲佳の左手を掴んで開かせると、その上に二つのグリーフシードを押しつけて、指を上から握り込ませた。
「感謝の気持ちってやつだよ。口で言うだけじゃ、なんか、足りない気がしてさ」
杏子は、斜め下のアスファルトを見ながら言った。
「あと、さ。家に、あたしが初めて作った料理があるんだ。……食ってくれるか?」
玲佳は、目を見開いた。
グリーフシードを分けてくれたことにも、驚いていた。けれど、それ以上に。
料理。杏子が。
台所の棚に、見慣れない薄い料理の本が一冊増えていたのを、玲佳は思い出した。
杏子が、変わっていく。
それがいいことなのか、そうでないのか、玲佳にはわからなかった。前は、少し怖かった。杏子が、自分の知らない杏子になっていくようで。
今は、嬉しいと思った。
「もちろん」
玲佳は、笑った。自分にできるかぎりの笑顔で。
「杏子の手料理なら、きっと何よりも美味しい。いくらでも食べられる」
「はは……」
杏子は、人差し指で頬を掻いた。
「そこまで期待されると、なんか怖くなってくるな」
夕日が、杏子の赤い髪を、いっそう赤く照らしていた。
*
テーブルの上に、大きな鉢が一つ、置かれていた。
中身は、煮物だった。じゃがいもと、人参と、玉ねぎと、肉。カレーの材料の残りを使ったのだろう。鍋の底で焦げたらしく、ところどころ黒い。
杏子は、向かいの椅子に座って、膝の上で拳を握っていた。自分の箸には、手をつけていなかった。
玲佳は、黙々と箸を動かした。
じゃがいもを口に運ぶ。人参を運ぶ。肉を運ぶ。一口ごとに、杏子の肩が小さく跳ねた。
鉢の中身が、少しずつ減っていく。
最後の一切れを飲み込んで、玲佳は箸を置いた。
「ごちそうさま」
「……ど、どうだった? あたしの料理」
杏子の声が、わずかに震えていた。
「やっぱり、杏子の料理は最高だった。文句なんて、ない」
「はあぁ……よかったぁ……」
杏子は、椅子の背もたれにぐったりと身体を預けた。それから、勢いよく起き上がって、両手を合わせた。
「じゃ、あたしも。いただきます」
胸の前で手を組んで、短く目を閉じる。それから、自分の皿によそった煮物に箸を伸ばした。
玲佳は、止めようとして、手を伸ばしかけた。
間に合わなかった。
杏子は、じゃがいもを一つ、口に放り込んだ。
噛んだ。
杏子の顔から、表情が消えていった。
「……なんだよ、これ」
箸を持つ手が、テーブルの上に落ちた。
しょっぱかった。醤油の量を、間違えたのだろう。焦げた苦さが、その後から追いかけてくる。玲佳は、それを最後の一切れまで、ずっと舌の上で知っていた。
「もう一回訊くぞ、玲佳」
杏子は、俯いたまま言った。
「あたしの料理、どうだった?」
玲佳は、目を泳がせた。
何と答えればいいのか。どう答えれば、杏子をこれ以上傷つけずに済むのか。考えて、考えて、二秒が、永遠のように長かった。
「……美味し、かった」
「嘘はやめてくれよ!」
杏子が、顔を上げた。
怒っていた。怒っているのに、泣きそうな顔だった。
「あんたに、嘘つかせてんのが、あたしは嫌なんだよ……」
最後のほうは、声にならなかった。
玲佳は、しばらく杏子の顔を見ていた。
それから、静かに口を開いた。
「杏子」
「……なんだよ」
「杏子の料理は、味はちょっとあれだった」
杏子の肩が、びくりと揺れた。
「でも、気持ちは伝わってきた。だから、美味しいって思った。それは、嘘じゃない」
杏子は、黙っていた。
顔に、まだ、でも、と書いてあった。
玲佳は、テーブルの上に置かれた杏子の手を見た。人差し指の先に、小さな火傷の跡があった。
「杏子。全部終わったら」
玲佳は、言った。
「ワルプルギスの夜が終わったら、一緒に料理を作らない? とびきり美味しいのを」
「——っ」
杏子が、目を見開いた。
固まったように、動かなかった。十秒、二十秒。玲佳は、黙って待った。
やがて、杏子の顔から、さっきまでの悲しそうな色が、少しずつ剥がれ落ちていった。
「……そうだな」
杏子は、鼻の頭を指でこすった。
「約束だぞ」
「約束する」
玲佳は、鍋のほうに目をやった。
「杏子。まだ、残ってる?」
「え? まあ、半分くらい。……まだ食うのか?」
「食べ物は、粗末にできないでしょ」
杏子は、ぽかんと口を開けた。
それから、声を上げて笑った。自分の口癖を、そっくり返されたのだと、気づいたらしかった。
*
風呂から上がると、杏子はタオルを頭に被ったまま、ソファに身体を投げ出した。
髪を拭くのは、面倒だった。放っておけば、そのうち乾く。ずっとそうしてきた。
「杏子」
玲佳が、ソファの後ろに立っていた。手に、木の櫛を一本持っていた。
「座って」
「は?」
「髪。絡まってる」
杏子は、タオルの下から自分の髪を一房つまんでみた。
赤い毛先が、指の間でもつれていた。言われてみれば、しばらく櫛なんて通していない。
「いいって、別に。どうせ結ぶし」
「いいから」
玲佳は、杏子の返事を待たなかった。ソファの背越しに、寝転がっている杏子の肩を軽く叩いた。杏子は、しぶしぶ身体を起こして、ソファに座り直した。玲佳は、その後ろに立って、杏子の頭に手を伸ばした。
「動かないで」
タオルが、頭から外された。
櫛の歯が、毛先に触れた。
一番下から、少しずつだった。
絡まったところに当たると、玲佳は櫛を止めた。指先で結び目をほぐして、それから、もう一度櫛を通す。無理に引くことは、一度もなかった。
「痛かったら、言って」
「……痛くねえよ」
本当に、痛くなかった。
櫛を入れる場所が、毛先から、少しずつ上へ移ってくる。耳の後ろ。うなじ。頭のてっぺん。玲佳の指が、ときどき地肌をかすめた。冷たい指だった。その冷たさが、湯上がりの熱の残る頭に、心地よかった。
日曜の朝だった、と杏子は思い出した。
教会へ行く前に、母さんが、こうして髪を梳かしてくれた。台所の椅子に座らされて、じっとしてなさいと言われて。妹が、隣で順番を待っていた。
いつから、誰にも髪を触らせなくなったのだろう。
思い出そうとして、やめた。
櫛の音だけが、部屋の中で小さく鳴っていた。
瞼が、重くなってきた。頭が少しずつ後ろへ傾いて、ソファの背の向こうに立つ玲佳の身体に、こつんと当たった。玲佳は何も言わずに、櫛を動かし続けた。
いつの間にか、眠りに落ちていた。
最後に覚えているのは、梳き終えた髪を、玲佳の指が一度だけ、根元から毛先までそっと撫でていった感触だった。
*
クローゼットから出した服を、暁美ほむらはスーツケースに詰めていった。
着替えを数日分。それから、向こうで目立たないための上着を一枚。荷物は、多くなくていい。本当に運ぶべきものは、盾の中に入る。
スーツケースの蓋を閉めて、ほむらは息をついた。
紫色のスーツケースだった。ソウルジェムとまったく同じ色をしている。店で見つけたときは、しばらくその前から動けなかった。
「……三日後、ね」
壁のカレンダーに、赤い丸がついていた。
ワルプルギスの夜に備えて、武器を揃えに行く。行き先は、海の向こうだった。学校には、それらしい理由をつけて話を通してある。費用の算段も、ついていた。
心残りは、一つだけだった。
行く前に、話しておかなければならないことがある。
ソウルジェムが、何なのか。魔法少女が、最後にどうなるのか。
まどかには、もう話した。マミと、さやかと、杏子には、まだ話していない。ワルプルギスの夜に全員で挑むなら、何も知らせずに戦わせるわけにはいかなかった。
それを話したとき、何が起きるかを、ほむらは知っていた。
何度も、見てきた。
取り乱す者がいる。武器を向ける者がいる。自分の手で、自分の、あるいは仲間のソウルジェムを砕こうとする者がいる。
それを、その場で止められる誰かが要る。
力で止められるだけの強さがあって、自分自身は、真実を聞いても崩れない誰か。
ほむらは、ベッドの縁に腰を下ろして、一人ずつ思い浮かべた。
マミは、だめだ。あの人が一番、耐えられない。さやかも、同じだ。杏子は、崩れはしないかもしれない。ただ、マミが本気で暴れたとき、それを押さえ込めるだけの力があるかどうか。
残るのは、一人だった。
如月玲佳。
杏子のことになると、脆い。一度、この目でそれを見ている。けれど、杏子が絡まないかぎり、あの子の芯は硬い。そして、恐ろしく頭が切れる。
河川敷で、あの子は言いかけた。
もしかして、あなたは。
あの続きは、ほむらが何者で、なぜここにいるのかを、半分以上わかった上での言葉だった。
「明日、話しましょう」
ほむらは、誰もいない部屋で、小さく呟いた。
あの子になら、任せられる。
*
杏子の寝息を確かめてから、玲佳は部屋を出た。
黒い上着を羽織った。夜に出かけるときにだけ着る上着だった。制服よりも、闇に紛れる。
指輪が熱を持ったのは、川向こうの工場地帯に入ったあたりだった。
魔女の気配だった。それから、もう一つ。
魔法少女の気配。
見滝原の魔法少女なら、玲佳は全員の気配を知っていた。マミでも、さやかでも、ほむらでもない。杏子でもない。
知らない気配だった。
結界に踏み込んだときには、魔女はもう死にかけていた。
崩れかけた結界の真ん中に、少女が一人、立っていた。短く切った髪。手に、鎖のついた鎌を提げていた。足元で、魔女の身体が黒い泥のように溶けていく。
少女が、振り向いた。
「……あんたが、見滝原の白いのか」
少女は、鎌を肩に担いで笑った。
「噂は聞いてるよ。この街、あたしがもらうから。魔女も多いし、グリーフシードも取り放題なんだろ」
玲佳は、答えなかった。
変身した。白い布のローブが、崩れかけた結界の風にはためいた。
少女が、鎌を振った。鎖が、音を立てて伸びた。
鎌の刃が届く前に、玲佳の指先から、一本の紐が走った。
細い紐だった。絹のリボンのように柔らかく、蜘蛛の糸のように細い。
猫の足音と、女の髭と、山の根と、熊の腱と、魚の息と、鳥の唾。この世にないものばかりを撚り合わせて作られ、神々でさえ手を焼いた大狼を縛り上げたという紐。
グレイプニル。
紐は、鎖を絡め取り、鎌を少女の手からもぎ取った。返す勢いで、少女の腕に、胴に、脚に巻きついた。
少女は、地面に転がった。
もがいた。紐は、少しも緩まなかった。もがけばもがくほど、細い紐が肌に食い込んでいった。
「なっ……なんだよ、これ!」
玲佳は、転がった少女のそばまで歩いていった。
見下ろした。
「この街から、出ていって」
静かに言った。
「二度と、来ないで」
少女は、玲佳を見上げた。
怯えていた目が、ふっと、歪んだ。
笑ったのだった。
「……知ってるよ。あんた、佐倉杏子とつるんでるんだろ」
玲佳の指先が、止まった。
「あいつ、風見野で、さんざん恨み買ってんだ。人の縄張りで食い散らかして、平気な顔してさ。あんたをどうにかできなくても、あいつなら——」
言葉の続きは、なかった。
玲佳の右手に、短い刃が生まれていた。
それが、少女の胸に沈んでいた。
考えた覚えはなかった。迷った覚えも、なかった。杏子の名前が、この子の口から出た。その次の瞬間には、刃が届いていた。
少女が、咳き込んだ。
胸を貫かれているのに、少女の目は、まだ玲佳を見ていた。唇が、何かを言おうとして震えていた。
玲佳の目が、少女の首元に吸い寄せられた。鎖骨のあいだで、濁りかけた緑色の宝石が、鈍く光っていた。
ソウルジェム。
なぜだか、それを砕かなければいけない気がした。胸を刺しただけでは、終わらない。どうしてそう思うのかは、わからなかった。わからないのに、手が伸びていた。
刃を抜いた。宝石を、掌の中に握り込んだ。
力を込めた。
硬いものが、掌の中で、ぱきりと砕けた。
少女の目から、光が消えた。
紐の中で、身体から力が抜けていった。
結界が、崩れた。
黒い泥も、鎖の鎌も、紐に縛られた少女の身体も。崩れていく結界の欠片と一緒に、光の中へ溶けて、消えていった。
結界の中で死んだものは、結界と一緒に消える。
あとには、夜の工場地帯の、錆びたフェンスと、湿ったアスファルトだけが残っていた。
足元に、グリーフシードが一つ、転がっていた。
玲佳は、それを拾い上げた。
自分の手を、見下ろした。
指先は、少しも震えていなかった。
杏子のためなら、どんな人間でも。
いつかの夜明けに、窓ガラスの中の誰かが、そう言っていた。
あれは、自分の声だったのだろうか。
玲佳は、変身を解いた。黒い上着のポケットに両手を入れて、夜の中を歩き出した。
帰る前に、寄るところが、もう一つあった。
*
夜中に、目が覚めた。
いつの間にか、自分の布団の中にいた。ソファで眠ってしまったはずだった。
喉が、渇いていた。杏子は、布団から這い出して、リビングへ水を飲みに出た。
玲佳の部屋のドアが、少しだけ開いていた。
隙間から、中が見えた。ベッドは、空だった。掛け布団が、きちんと畳まれたままになっていた。
壁の時計は、二時を回っていた。
杏子は、コップの水を飲み干して、ソファに腰を下ろした。
待っているつもりはなかった。ただ、なんとなく、部屋に戻る気になれなかった。
玄関の鍵の回る音で、目を開けた。
いつの間にか、ソファで眠っていたらしい。窓の外が、うっすらと白みはじめていた。
玲佳が、入ってきた。
制服ではなかった。黒っぽい、見たことのない上着を着ていた。白い髪から、夜の雨の匂いがした。
杏子に気づいて、玲佳は、玄関で足を止めた。
「……起きてた?」
「目が覚めちまってさ」
玲佳の目が、いつもと違っていた。
紅い目の奥が、冷えて、尖っていた。杏子のほうを向いているのに、杏子の向こうの何かを見ているような目だった。
瞬き一つのあいだだけだった。もう一度見たときには、その目は、いつもの玲佳の目に戻っていた。
玲佳の上着のポケットから、茶色い封筒の角がのぞいていた。
厚かった。指一本分くらいの厚みが、ポケットの布を内側から押し上げていた。
杏子は、それを見た。
玲佳も、杏子がそれを見たことに、気づいたはずだった。
どこ行ってたんだ、とは、訊かなかった。
訊けば、玲佳は答えるのかもしれなかった。答えないのかもしれなかった。どちらにしても、自分が訊ける立場じゃない、と杏子は思った。
自分だって、ずっと、盗んで食ってきた。店の棚から。誰かの家の台所から。それを、玲佳は一度も咎めなかった。
「……寝る。杏子も、もう少し寝て」
「おう」
玲佳の部屋のドアが、静かに閉まった。
杏子は、ソファに仰向けになって、白んでいく天井を見上げた。
封筒の角の、あの厚みと、あの冷えた紅い目が、目の裏に残っていた。