魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第二十二話
玲佳、あなたに大事な話があるの。
放課後、ほむらにそう呼び出されて、玲佳はほむらの部屋にいた。
がらんとした部屋だった。家具らしい家具が、ほとんどない。白い壁と白い床が広がっていて、住まいというより、どこかの建物のロビーのように見えた。
その中で、二つのものだけが異様だった。
壁際の宙に、紙が何枚も浮かんでいた。写真や、図や、びっしりと書き込まれた文字。糸で吊られているわけでもないのに、ゆっくりと漂いながら、決まった場所にとどまっている。
それから、天井から吊り下がった、大きな振り子の時計。振り子の先が、鎌の刃の形をしていた。
玲佳は、半円形の長椅子に腰を下ろして、浮かんだ紙の一枚を見上げた。
見たこともない、異形の姿が写っていた。巨大な歯車の下に、逆さまに吊られた人形のようなもの。
「……これは」
「ワルプルギスの夜の資料よ」
ほむらが缶コーヒーを二本持って戻ってきた。一本を、玲佳の前に置く。
「これが……」
玲佳は写真から目を離さずに言った。
「やっぱり、あなたは——」
「ええ」
ほむらは玲佳の隣に座った。
「負けたわ。何度も」
声は低かった。低いのに、少しも力がこもっていなかった。
玲佳はほむらの横顔を見た。
「……ほむら。あなたは、何回繰り返してきた?」
ほむらがわずかに目を見開いた。
「そこまで、わかるのね」
「あなたの力が時間を操るものだってわかってからは、後は芋づる式だった。止めるだけじゃない。戻れる。戻って、やり直せる」
「……そう」
ほむらは宙に浮かんだ資料を見上げた。
「もう、わからないわ。何回目なのか。両親の顔も、どこに住んでいたのかも、はっきりとは思い出せない」
独り言なのか、返事なのか、わからないくらいの小さな声だった。
玲佳は黙ってそれを聞いていた。それから、言った。
「もう一つ。あなたの目的は、ワルプルギスの夜を倒すことだけじゃない。ほかにある。それも、まどかに関わること」
ほむらは、ゆっくりと玲佳のほうに顔を向けた。
その目に、何か硬いものが宿っていた。
「話が早くて、助かるわ」
ほむらは、開けもしないままの缶をテーブルに置いた。
「今日来てもらったのは、その話をするため。……でも、まずはこれから話させて。ソウルジェムが何なのか。魔法少女が、最後にどうなるのか」
ほむらは、話しはじめた。
魔法少女の指に嵌まった、美しい宝石の正体を。奇跡を願った少女たちが、最後にどこへ行き着くのかを。
頭が、痛んだ。
話が始まってすぐだった。こめかみの奥を、太い釘で内側から打たれているような痛みだった。割れるような痛みと、締めつけられるような痛みが、交互に押し寄せてくる。
玲佳は、奥歯を噛みしめた。
ソウルジェムは、魂そのもの。身体から百メートル以上離れれば、身体は動かなくなる。
知っている。
濁りきったソウルジェムは、グリーフシードに変わる。魔法少女は、魔女になる。
知っている。
どうしてか、わからなかった。いつ、どこで知ったのか、何一つ思い出せない。それなのに、ほむらの口から出る言葉が、一つ残らず、すでに自分の中にあったもののように、すうっと染み込んでいく。
気を抜けば、意識ごと持っていかれそうだった。玲佳は膝の上で拳を握りしめて、痛みに耐えた。
「……玲佳?」
遠くで、声がした。
「玲佳!」
肩を掴まれて、揺さぶられた。
頭の痛みが、潮が引くように消えていった。目の前に、ほむらの顔があった。
「……っ、はぁ、はぁ……」
玲佳は自分が息を止めていたことに気づいた。
「……ほむら。どうか、した?」
「それは、こちらの台詞よ。ひどく苦しそうだったわ」
「ただの、頭痛。最近、たまにこういうのがある」
玲佳は額に手を当てたまま、しばらく黙っていた。
「……ほむら」
「何?」
「今の話。前に、どこかで聞いたことがある気がする」
ほむらの目が、わずかに見開かれた。
「誰から?」
「わからない」
玲佳は、首を振った。
「いつ聞いたのかも、誰から聞いたのかも、思い出せない。でも、知ってた。あなたが言う前から、次に何を言うのか、わかってた」
ほむらはしばらく玲佳の顔を見つめていた。
何か言いかけて、口を閉じた。それから、ほとんど聞き取れないくらいの声で呟いた。
「……そんな子は、今まで一人もいなかったわ」
ほむらの目が、玲佳の指に向いた。玲佳の右手の薬指の、銀の指輪に。
指輪は、曇り一つなく、鏡のように光っていた。ほむらは、何も言わなかった。
「……ほむら。ほかの時間で、私は、どうしていた?」
ほむらは、少しのあいだ黙っていた。
「いなかったわ。どの時間にも。あなたに会ったのは、今回が初めてよ」
玲佳は黙って、自分のソウルジェムに目を落とした。
自分はずっとこの街にいた。両親が死んだ夜も、病院の白い天井を見上げていた日々も。ほむらがこの街に来るより、ずっと前から。
それなら、ほかの時間の自分は、ほむらと出会う前に、いなくなっていたことになる。
暴力団の事務所の、赤い床を思い出した。膝をついたまま、動かなかった。近づいてくる牙の奥の暗がりを、ただ見ていた。これで終わるのなら、と思っていた。
あの夜、杏子の槍が来なければ。
ほかの時間の杏子は、間に合わなかったのかもしれない。
玲佳は、そのソウルジェムを、左手でそっと包んだ。
「ほむら。話は、それで全部?」
「いいえ。でも、その前に」
ほむらがポケットからハンカチを取り出して、差し出した。
玲佳はそれを見下ろした。何のためのものなのか、わからなかった。
「拭きなさい。涙が出ているわ」
玲佳は自分の頬に指で触れた。
濡れていた。
「……なんで」
ハンカチを受け取って、頬を拭いた。顎の先まで伝っていた雫を拭った。拭いても、拭いても、次から次へと溢れてきた。止め方が、わからなかった。悲しいわけでも、苦しいわけでもないのに。
ほむらは黙って隣に座っていた。
しばらくして、涙が止まった。
「落ち着いた?」
玲佳は、小さく頷いた。
「玲佳に、頼みがあるの」
「頼み?」
「あなたがさっき言いかけた、まどかのことよ」
ほむらはまっすぐに玲佳を見た。
「まどかは、今までのどの魔法少女よりも、大きな素質を持っている。……たぶん、これから先のどの魔法少女よりも」
玲佳の肩が、ぴくりと動いた。
「魔法少女が、魔女になるなら」
玲佳はゆっくりと言った。
「最強の魔法少女は、最悪の魔女になる」
ほむらは、否定しなかった。
「確かに、それもある。でも、それだけじゃないでしょ。あなたの本心は」
「……本当に、鋭いわね」
ほむらはほんの少しだけ目を細めた。
「そうよ。私は、世界を守りたいわけじゃない。まどかを守りたいだけ。まどかに、生きていてほしいだけ。もちろん、ほかのみんなにも生きていてほしい。でも、最初にあるのは、まどかよ」
ほむらはそこで一度、息を吸った。
「だから、お願い。まどかを、あらゆるものから守って。魔女からも。インキュベーターからも。私がいない間は、特に」
玲佳はほむらの顔を見た。
この子は、何度、まどかが死ぬところを見てきたのだろう。何度、助けようとして、間に合わなかったのだろう。
訊こうとして、やめた。訊いていいことではないと思った。
世界ではなく、一人のため。
それなら、知っていた。杏子のためなら、どんな人間でも。いつかの夜明けに、窓ガラスの中の誰かが言った言葉を、玲佳は否定できなかった。この子と自分は、同じ場所に立っている。
それに、まどかが魔女になれば、杏子の街も、何も残らない。
廃ビルで、まどかに手を掴まれたときのことを思い出した。振りほどこうと思えば、いくらでも振りほどけた。振りほどかなかった。夜の、湿った草の匂いがした。
今度は、ちゃんと守る。
どこからか、そんな言葉が浮かんだ。何が「今度」なのか、玲佳にはわからなかった。
「……わかった」
玲佳は、頷いた。
「まどかは、私が守る」
「約束よ」
ほむらが右手の小指を差し出した。
玲佳は少しの間、その細い小指を見ていた。それから、自分の小指を絡めた。子どもの頃に覚えた決まり文句を、小さな声で最後まで唱えた。
約束。
まどかと、さやかと喧嘩をしないと約束した。杏子と、全部終わったら一緒に料理を作ると約束した。
これで、三つ目だった。
指を離してから、玲佳は言った。
「みんなに話すのは、ここじゃないほうがいい」
「どうして?」
「もし誰かが暴れたら、ここじゃ狭すぎる。人が来なくて、広い場所。夜の公園がいい」
ほむらは少しだけ目を細めた。
「本当に、あなたを選んでよかったわ」
*
「あれ? さやかちゃん、今日はマミさんの家じゃないの?」
校門を出たところで、まどかは足を止めた。さやかがいつもと反対の方角へ歩き出そうとしていたからだ。
「あー、うん。今日はさ、仁美と約束しちゃってて。まどか、先に行ってて。あたしも後で行くから」
さやかはひらひらと手を振って、仁美の待つほうへ歩いていった。
仁美と、約束。何の約束だろう。まどかは少しの間さやかの背中を見送ってから、一人で歩き出した。
今日、ほむらがみんなに本当のことを話す。
昼休みに、ほむらからそう聞いていた。放課後に先に玲佳に話して、手伝ってもらうつもりだ、と。
それなら、大丈夫かな。
まどかは空を見上げて、誰にともなく呟いた。
何が大丈夫なのか、自分でもよくわからなかった。胸の真ん中に、何か重たいものが、ずっと居座っていた。
みんな、仲直りした。玲佳も、杏子も、さやかも、マミも、ほむらも。もう、喧嘩をすることもないはずだった。それなのに。
「……そっか」
歩きながら、まどかは気づいた。
ほむらが心配しているのは、喧嘩じゃない。本当のことを聞いたみんなが、どうなってしまうかだ。
自分は魔法少女じゃないから、魔法少女の気持ちは、半分くらいしかわからない。屋上でほむらから聞いたとき、自分でさえ、あんなに怖かった。自分の魂が、あの小さな宝石の中に閉じ込められていると知ったら。いつか自分が、魔女になると知ったら。
マミは。さやかは。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
心臓を、細い糸で締めつけられるような痛みだった。どこか遠いところで、ずっと前に、同じ痛みを味わったことがある気がした。いつなのかは、わからなかった。
日が落ちた公園に、みんなが集まっていた。
ほむら、マミ、杏子、玲佳。それから、まどか。さやかは少し遅れて、息を切らしてやって来た。目が、少し赤かった。
風が、冷たかった。月が明るいのに、空気が重たく感じられた。
「今日、集まってもらったのは」
ほむらが、口を開いた。
「あなたたちに、話さなければならないことがあるからよ」
「……何それ」
さやかが、眉をひそめた。それから、まどかのほうを見た。
「まどかは、知ってんの?」
まどかは、どきりとした。一瞬迷ってから、小さく頷いた。
杏子が苛立ったように頭を掻いた。
「前置きはいいからさ。話ってなんだよ。腹減ってんだよ、こっちは」
「何事もなければ、すぐに終わるわ」
ほむらはそう言ったけれど、その声は少しも、何事もないと思っている声ではなかった。
玲佳がほむらの隣に立っていた。何も言わずに、みんなの顔を順番に見ていた。
「覚悟しておいて。特に、マミとさやか」
誰かが、息を呑む音がした。
ほむらは、大きく息を吸った。
「信じられないと思う。でも——」
ほむらは、話した。
屋上でまどかが聞いたのと、同じ話だった。ソウルジェムのこと。百メートルのこと。グリーフシードのこと。魔女のこと。
まどかは話を聞きながら、みんなの顔を見ていた。
さやかの顔から、少しずつ色が消えていった。杏子は口の中の菓子を噛むのをやめていた。マミは一度も瞬きをしていなかった。
話が、終わった。
誰も、何も言わなかった。
風が、木の枝を揺らした。
「……ソウルジェムが、魔女を生むなら」
マミの声だった。
振り向いたときには、マミはもう変身していた。黄色いリボンがほどけて、その手にマスケット銃が現れていた。
銃口は、杏子を向いていた。
乾いた破裂音がした。
まどかの目の前を、白い閃光が走った。
玲佳だった。いつの間にか、杏子とマミの間に立っていた。手に、幅の広い剣を握っている。その剣が振り上げられたところで、止まっていた。
弾は、杏子に届かなかった。剣の一閃で、砕けていた。
杏子は、槍を構えかけた姿勢で、固まっていた。
十秒が過ぎた。
二発目は、なかった。
マミの手から、マスケット銃が消えた。黄色い衣装が淡い光に溶けて、制服姿のマミが、そこに立っていた。
「……ごめんなさい」
マミの声が、震えていた。
「私、どうかしていたわ。少し、整理させて」
玲佳はマミから目を離さずに、ゆっくりと剣を下ろした。
「おい、キュゥべえ!」
杏子が、怒鳴った。
公園の暗がりから、白い影が浮かび上がるように現れた。キュゥべえだった。杏子はその長い耳を乱暴に掴んで持ち上げた。
「本当なのかよ、今の話!」
「何のことだい、杏子。……それより」
耳を掴まれて宙づりにされても、キュゥべえの顔は、いつもと少しも変わらなかった。
「さやかがいないようだけど、どうしたのかな」
まどかは、振り返った。
さっきまで、さやかが立っていた場所には、誰もいなかった。
「……嘘だろ」
杏子の声が、夜の公園に小さく響いた。
*
ほむらから預かったグリーフシードを、玲佳は掌の上で転がした。
見つけたら、さやかに渡して。ほむらはそう言って、これを玲佳の手に押しつけた。
四方に散らばって、さやかを探すことになった。ほかの四人が、名前を呼びながら走っていくのを背中に聞きながら、玲佳は一人で歩いていた。
急ぐ必要は、なかった。
公園を出たときから、微かな魔力の気配を追っていた。荒削りで、まっすぐで、何も考えずにぶつかっていくような魔力。金曜の夜、倉庫街で刀越しに受けたのと同じ手触りだった。
その気配が、途中から、別のものと混ざり合っていた。
重くて、冷たくて、黒い気配。
玲佳は、足を止めた。
目の前に、建設途中のビルがあった。鉄骨が剥き出しになった上の階のあたりで、空気が黒く渦を巻いていた。
魔女の結界だった。
「……はぁ」
ため息をひとつついて、玲佳は変身した。白い布のローブが、夜風に翻った。
地面を蹴った。
結界の表面を切り裂いて中へ飛び込むと、黒い影がうねっていた。
その中心で、青い魔法少女が戦っていた。
戦っている、とは言えなかった。影に向かって、ただ突っ込んでいた。守りも、間合いも、何もない。影の腕に打たれ、弾き飛ばされ、また起き上がって、突っ込む。回復の魔法が、傷を塞ぐそばから、新しい傷が開いていく。
ソウルジェムのことなど、どうでもいい。そう言っているような戦い方だった。
黒い影の腕が、何本も伸びて、青い少女の身体に絡みつこうとした。
玲佳は、右手を掲げた。
銀色の弓が、生まれた。月の女神アルテミスの、銀の弓。その弦に、雷を固めたような一本の矢を番える。バビロンの主神マルドゥクが、竜を討つために携えたという雷の矢。リットゥ。
放った。
紫色の稲妻が、夜の結界を裂いた。青い少女に絡みつこうとしていた影の腕を、根元から抉り取り、弾け散らせた。
結界が崩れると、そこは建設中のビルの、鉄骨の足場の上だった。
青い少女は、息を切らしながら、玲佳を睨みつけた。全身、傷だらけだった。
「上級生! あんたの援護なんかなくても、勝てたわよ! 大きなお世話!」
「その戦い方だと、長くはもたない」
玲佳はその視線を正面から受け止めた。
「うるさい。どうせ、あんたには関係ないでしょ」
「杏子に、何を教わった?」
「黙ってよ!」
さやかが、叫んだ。
「黙ってって言ってんの! この、自己チューの犯罪者!」
夜の鉄骨に、その声が反響した。
犯罪者。
さやかの目は、土手で斬りかかってきたときと同じ目をしていた。いや、あのときより、もっと暗かった。昨日、マミの家で通り魔の話が出たとき、こちらの横顔を盗み見た、あの目だった。
玲佳は、何も言わなかった。
言うべき言葉が、見つからなかった。
「……とにかく、戻ろう」
玲佳はさやかの手首を掴んだ。
さやかは、それを振りほどいた。白い手が、宙に取り残された。
さやかは鉄骨の足場を蹴って、夜の中へ走り去っていった。