魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第二十三話
十一時を過ぎても、さやかは見つからなかった。
公園から四方に散らばって、名前を呼びながら走った。駅前の通りも、川沿いの遊歩道も、さやかと二人でよく寄り道をした坂の上のコンビニも探した。どこにも、青い髪はなかった。
携帯に何度かけても、呼び出し音が鳴り続けるだけだった。
「まどか。今日は、もう帰りなさい」
街灯の下で、ほむらが言った。息ひとつ乱していなかった。
「でも、さやかちゃんが……」
「美樹さやかは、私たちが探す。こんな時間に、あなたが一人で歩いているほうが、よほど危ないわ」
言い返そうとして、まどかは口を閉じた。
ほむらの言うとおりだった。魔女が出ても、自分には何もできない。走り回っても、さやかの魔力の気配一つ、感じ取ることができない。
ほむらはまどかの家の前まで、黙って隣を歩いてくれた。
「見つかったら、すぐに知らせるわ」
「……うん。お願い、ほむらちゃん」
ほむらは小さく頷いて、夜の中へ戻っていった。黒い髪が、街灯の光の輪から出て、すぐに見えなくなった。
家の中は、もう静かだった。
パパとママは、寝室に入ったあとだった。リビングの明かりだけが、小さく点いていた。まどかは、テーブルの上に、遅くなってごめんなさい、とだけ書いたメモを置いた。
足音を殺して階段を上り、部屋のドアを閉めた。
パジャマに着替えて、ベッドの上で膝を抱えた。携帯を、両手で握りしめた。
画面は、暗いままだった。
時計の針が、十二時を回った。それから、一時を回った。
ほむらからも、マミからも、何の連絡もなかった。
さやかの番号を、もう一度だけ鳴らした。呼び出し音が何度も繰り返されて、留守番電話の声に変わった。まどかは何も吹き込まずに切った。
さやかちゃんの魂は、今、あの小さな青い宝石の中にある。
ほむらの話を聞いたとき、さやかの顔から色が消えていくのを、まどかは見ていた。それきり、さやかは夜の中へ消えた。
あの宝石が濁りきったら。
その先を、考えたくなかった。打ち消そうとすればするほど、頭の中に、黒く濁っていく青い宝石が浮かんだ。
手の中で、携帯が震えた。
まどかは跳ね起きるようにして画面を見た。玲佳さん、と表示されていた。ファストフード店の帰りに登録したきり、一度も鳴ったことのない名前だった。
「……玲佳さん?」
「まどか。起きてた?」
いつもと同じ調子の声だった。
「さやかと、一緒にいる」
まどかは、息を呑んだ。
「さやかちゃん、無事なんですか!?」
「生きてる。今は、眠ってる。……今から、まどかの家に連れていく。住所を教えて」
「え、うちに……?」
「今のさやかは、一人にしないほうがいい。……私は、気の利いたことが言えないから」
まどかは震える声で住所を伝えた。電話の向こうで、玲佳が一度だけ、繰り返した。
「二階の、通りに面した窓。そこが、わたしの部屋です」
「わかった。窓を、開けておいて」
通話が切れた。
まどかはベッドから飛び降りて、カーテンを開けた。窓の鍵を外して、そっと押し開ける。夜の冷たい空気が、部屋の中へ流れ込んできた。
通りには、誰もいなかった。街灯が、等間隔に、白い光を落としているだけだった。
五分も経たなかった。
窓の外に、白いものが立っていた。
二階の窓と同じ高さの、何もない宙だった。そこに透明な床でもあるかのように、玲佳は夜の中にまっすぐ立っていた。白い布のローブが、夜風にふわりと広がっている。その背中に、誰かが背負われていた。だらりと垂れた腕と、青い髪。
玲佳は宙を一歩踏んで、窓枠を越えた。音は、ほとんどしなかった。
「……っ」
まどかは両手で口を押さえた。
玲佳の背中で、さやかが目を閉じていた。青い衣装のあちこちが、裂けていた。頬にも、腕にも、乾いた血の筋がついている。けれど、胸は、ゆっくりと上下していた。
「ベッド、借りる」
玲佳は、まどかのベッドの縁に片膝をついて、背中のさやかを、そっと下ろした。仰向けに寝かせて、乱れた前髪を、指で額から払った。
さやかの衣装が、淡い光に溶けた。いつもの制服姿に戻ったさやかが、まどかのベッドの上で、小さく寝息を立てていた。
まどかは掛け布団を引き寄せて、さやかの肩まで掛けた。手が、震えていた。
「ソウルジェムは、浄化しておいた。全部じゃないけど、しばらくは大丈夫」
玲佳は立ったまま言った。
「……ありがとうございます。玲佳さん、さやかちゃんを、どこで……」
「建設中のビルの近く。……少し、話をした。それから、少し、乱暴にした」
玲佳は眠っているさやかの顔を見下ろしていた。
部屋の明かりは点けていなかった。窓から差し込む街灯の光が、玲佳の白い髪の半分だけを照らしていた。
「さやかが、言ってた」
玲佳は少し間を置いてから言った。
「自分はもう、人間じゃないって」
まどかは、息を止めた。
「こんな身体で、好きな人に好きだなんて言えない、って。……ほかにも、いろいろ」
玲佳はそれ以上は言わなかった。
何があったのか、何を言われたのか、まどかは知りたかった。けれど、玲佳の横顔は、もうそれを話すつもりがないことを、はっきりと告げていた。
「詳しいことは、さやかから聞いて。私が言うことじゃない」
玲佳は宙に指先で小さな切れ目を入れた。その向こうの暗がりから、何かを取り出した。
黒い、小さな卵だった。上下に、針のようなものが突き出している。
「これ」
玲佳はまどかの手を取って、その掌の上にそれを載せた。
思っていたより、ずっと軽かった。
「目を覚まして、まだ濁ってたら、使わせて。ソウルジェムに近づけるだけでいい」
「……わたしが、ですか」
「まどかが」
玲佳はまどかの手を、上から一度だけ包むようにしてから、離した。
それから、窓枠を越えて、窓の外の宙に立った。足の下には、何もなかった。
「あとは、お願い」
「玲佳さん」
まどかは思わず呼び止めていた。
玲佳が肩越しに振り返った。紅い目が、夜の中から、静かにまどかを見ていた。
「……玲佳さんは、大丈夫ですか」
玲佳は、少しだけ目を細めた。
答えは、なかった。
白いローブが夜の中に翻って、次の瞬間には、窓の外の宙にも、もう誰もいなかった。
まどかはそっと窓を閉めた。
ベッドの上で、さやかが眠っていた。眉の間に、浅い皺が寄っていた。夢の中でも、何かと戦っているような顔だった。
まどかは枕元の携帯を手に取って、ほむらに短いメッセージを打った。
さやかちゃん、いまうちにいるよ。玲佳さんが連れてきてくれた。眠ってる。
少し迷ってから、もう一行、打ち足した。
今夜は、さやかちゃんと二人で話したいの。みんなには、ごめんねって伝えて。
返事は、すぐに来た。
わかったわ。みんなには、私から伝えておく。おやすみなさい、まどか。
まどかは携帯を胸に当てて、小さく息を吐いた。
まどかは掌の上の黒い卵を見下ろした。
それから、音を立てないように、部屋を出た。
廊下は、暗かった。
まどかは閉めたドアに背中を預けて、床に座り込んだ。膝を抱えて、手の中のグリーフシードを、じっと見ていた。
目を覚ましたさやかに、何て言えばいいのだろう。
大丈夫だよ、と言いたかった。さやかちゃんは、さやかちゃんだよ、と。
けれど、それを言う自分は、魔法少女ではなかった。
魂を宝石に移されたこともない。濁っていく自分の魂を、掌の上で見下ろしたこともない。魔女と戦って、傷だらけになって、それでも誰かのために立ち上がったこともない。
何も失っていない自分の言葉が、さやかちゃんに届くのだろうか。
わかったようなことを言って、かえって、さやかちゃんを傷つけるだけなんじゃないか。
屋上で、ほむらから本当のことを聞いたとき、自分でさえ、あんなに怖かった。自分の魂の話ではなかったのに。
さやかちゃんは、自分の魂の話として、それを聞いた。
まどかは膝に額を押しつけた。
言葉が、一つも見つからなかった。
さやかちゃんは、ちゃんと人間だよ。
頭の中で、何度もそう言ってみた。そのたびに、それは、魔法少女ではない自分の、都合のいい慰めのように聞こえた。
それでも。
玲佳さんは、あとはお願い、と言った。私は気の利いたことが言えないから、とも。魔法少女ではない自分に、さやかちゃんを預けていった。
手の中の小さな卵が、少しだけ、重くなった気がした。
ドアの向こうで、布団の擦れる音がした。
まどかは顔を上げた。
何を言うのかは、まだ決まっていなかった。それでも、まどかは立ち上がって、ドアのほうを向いた。
*
目を開けると、見覚えのある天井があった。
さやかはぼんやりとそれを見上げていた。暗い部屋に、カーテンの隙間から街灯の光が細く差し込んでいて、棚の上には、見覚えのあるぬいぐるみが並んでいた。
まどかの部屋だった。
上半身を起こそうとして、頭の芯がずきりと痛んだ。さやかはもう一度枕に頭を沈めた。
どうして、ここにいるのか。
思い出そうとすると、声が聞こえてきた。
権利があるとかないとか、それはあなたが決めることじゃない。
心まで、怪物になるつもり?
あなたの想ってる人は、その程度?
白い魔法少女の声だった。
建設中のビルから走り出して、夜の街を闇雲に走った。後ろから、足音がついてきた。振り返って、サーベルを抜いた。何を叫んだのか、途切れ途切れに覚えている。
あたしはもう、人間じゃない。こんな身体で、恭介に好きだなんて言えない。言う権利なんか、ない。仁美のほうが、ずっと。
それから。
あんたが生きてるから、人が死ぬんだ。通り魔だって、あんたなんでしょ。この、人殺しのクズ女。
そう叫んで、斬りかかった。
白い魔法少女は、刀を抜かなかった。鞘に納めた刀で全部受けて、それから、静かに言った。
確かに、そうかもしれない。
でも、杏子が生きているうちは、死ぬつもりはないから。
否定、しなかった。
あの人は、自分が人殺しかもしれないことを、否定しなかった。そうかもしれない、と言った。
その後のことは、覚えていなかった。
「……やっちゃったなあ」
さやかは掛け布団から左手を出した。指に嵌まった指輪に意識を向けると、それは青いソウルジェムの形になって、掌の上に転がった。
真っ黒になりかけていたはずだった。自分でも、それがわかっていた。
今は、青い色を取り戻していた。完全ではない。底のほうに、まだうっすらと影が残っている。それでも、あのときの黒さとは比べものにならなかった。
誰かが、浄化してくれたのだ。
気を失った自分を、ここまで運んでくれたのも。
考えるまでもなかった。
「……負けたんだ、あたし」
口に出すと、自分が吐いた言葉が、一つずつ喉の奥に戻ってきた。人殺しのクズ女。あんたが生きてるから、人が死ぬ。
あんなことを言った相手に、ソウルジェムを浄化されて、ここまで運ばれてきた。
「あたし、ほんとにばかだ……」
ドアを、控えめに叩く音がした。
「さやかちゃん、入るよ……?」
まどかの声だった。
「まどかの部屋でしょ。そんなのいらないって」
ドアが開いて、パジャマ姿のまどかが入ってきて、壁のスイッチを押した。点いた照明の眩しさに、さやかは目を細めた。
「ここまで運んでくれたの、上級生?」
「上級生……玲佳さんのこと? うん。夜中に、さやかちゃんを背負って、窓から」
「……やっぱり」
まどかはベッドの縁に腰を下ろした。それから、膝の上で両手を握って、しばらく黙っていた。
「玲佳さんから、少しだけ聞いたよ」
さやかの胸が、きゅっと縮んだ。
「そっか」
素っ気なく返した。まどかの顔を、見られなかった。
まどかが優しいことは、知っている。自分が玲佳に何を言ったのかを聞いたら、まどかが何を言うのか、わかってしまう。
「ソウルジェムが魂だとか、そんなの関係ないよ」
まどかの声が、震えていた。
「さやかちゃんは、ちゃんと人間だよ! 何があっても、わたしの大事なさやかちゃんだよ!」
さやかは、肩を震わせた。
声の大きさに驚いたのではなかった。まどかが、怒っていた。まどかが怒ったところを見たのは、いつ以来だろう。
しばらく、何も言えなかった。
「……ありがと、まどか」
やっと、それだけ言えた。
まどかの顔を見て、言った。それから、目は、窓の外の暗がりのほうへ逸れていった。
まどかがパジャマのポケットから何かを取り出した。
黒い、小さな卵だった。
「玲佳さんから。まだ濁ってたら、使ってって」
さやかはそれをしばらく見ていた。
受け取って、指輪をもう一度ソウルジェムの形に戻す。掌の上の青い宝石に、黒い卵を近づけると、底に残っていた影が細い糸のように引き出されて、卵の中へ吸い込まれていった。
青が、澄んだ。
「……ほんと、むかつく」
小さく呟くと、まどかが、困ったように笑った。
*
「仁美。ちょっといい? 昨日のことで、話があるんだけど」
放課後、教室を出る支度をしていた仁美に、さやかは小声で言った。
仁美は手を止めて、さやかの顔を見た。
「……わかりましたわ」
さやかはまどかのほうを振り返った。
「まどか、ごめん。今日、仁美と寄るとこあるんだ」
「さやかちゃん……」
まどかは嫌な顔をしなかった。むしろ、少しほっとしたような顔で、小さく頷いた。
二人は、並んで教室を出た。いつもなら、廊下を歩くだけで話が尽きない二人だった。今日は、校門を出ても、繁華街に入っても、一言も話さなかった。
入った駅前の喫茶店には、柔らかなピアノの曲が流れていた。
窓際の席に向かい合って座ると、仁美は、まっすぐにさやかを見た。
「決心は、つきましたの?」
昨日の放課後、仁美は言った。上条君のことが好きです、と。さやかさんに、先に言っておきたかった、と。一日だけ待ちます、と。
「違うんだ」
さやかは、首を振った。
「違う、とは?」
さやかは、三秒だけ迷った。それから、言った。
「十日だけ、待ってほしいの」
仁美が、瞬きをした。
「十日……ですの?」
「どうしても、外せない用事があるんだ。それが終わるまで、待ってほしい」
さやかはテーブルに両手をついた。
「勝手なことを言ってるのはわかってる。仁美が、すっごく勇気を出して言ってくれたことも、わかってる。それを、あたしが無駄にしてるってことも。でも、お願い」
額が、テーブルにつきそうなくらい、頭を下げた。
仁美は、しばらく黙っていた。
十日後に何があるのか、さやかは言わなかった。言えなかった。
仁美は下げられたさやかの頭を見ていた。迷いは、見えなかった。かといって、余裕があるようにも見えなかった。ただ、何か大きなものを抱えているように見えた。
「何があるのかは、わかりません」
仁美は、静かに言った。
「でも、さやかさんの気持ちは伝わりましたわ。十日、待たせていただきます」
「……っ、ありがと、仁美」
さやかは、顔を上げた。
仁美は少しだけ寂しそうに笑っていた。
*
部屋に戻ると、ほむらはベッドの縁にどさりと腰を下ろした。
長く、息を吐いた。
マミは、立ち直った。
今日の放課後、まどかと二人でマミの家に行った。昨夜、杏子に銃口を向けたマミは、部屋の隅で膝を抱えていた。まどかが隣に座って、手を握った。ほむらはその向かいに座って言った。
あなたが魔女を倒すことで、救われる命がある。それは、何も変わらない。
マミは、長いこと黙っていた。それから、泣きながら笑った。
こんなに早く、あの人が立ち直るところを、ほむらは見たことがなかった。
「……驚いたわ」
ほむらは壁のカレンダーを横目で見た。
赤い丸が、明日の日付についていた。
心配事は、もうない。
まどかには、話すべきことを話した。さやかは、玲佳が拾ってきた。マミは、立ち直った。杏子と玲佳は、こちらの側にいる。
もう、何も——
ほむらはそこで思考を止めた。
一つだけ、まだ調べていないことがあった。
ほむらは立ち上がって、パソコンの前に座った。電源を入れる。
病院の記録からは、何も出てこなかった。消されていたのか、別の場所にあるのか。あのときは、そこで調べるのをやめた。
病院の記録ではない場所。
誰でも見られる場所。
ほむらは検索窓に名前を打ち込んだ。
如月玲佳。
普通の中学生の名前を検索して、何かが出てくることなど、まずない。そう思っていた。
一番上に、その名前が出てきた。
見出しは、別の言葉だった。
見滝原市一家惨殺事件。
ほむらは、それを開いた。
古い事件のまとめ記事だった。何年も前の、ある夜。見滝原の住宅街の一軒家で、夫婦が殺された。胸を、刃物で深く刺されていた。家の中で、十歳にも満たない一人娘だけが、無事に保護された。犯人は、今も捕まっていない。顔も、わかっていない。未解決の事件として、今でも時々、話題に上るのだという。
記事の終わりのほうに、一段落があった。
保護された長女の如月玲佳さんは、事件以前から、学校での深刻ないじめと、両親からの虐待を受けていたことが、後の調べで明らかになっている。事件後、玲佳さんは見滝原総合病院に長期入院し、精神的な——
ほむらは画面から目を離した。
病院の看護師の声が、耳の奥で蘇った。昔、うちの病棟に、如月って子がいたでしょう。あの事件の。
それから、河川敷の、頬まで裂けた笑み。
ほむらの部屋で、止まらなかった涙。
今の話、前に、どこかで聞いたことがある気がする。
「玲佳。あなたは……」
その先は、言葉にならなかった。
*
「ほむらちゃん。絶対、帰ってきてね」
「あたしも、同じ気持ちだから」
「あら。私の言うこと、なくなっちゃったわね」
「いってらー」
空港の出発ロビーで、四つの声がほむらの背中を押した。
まどかは、目を潤ませていた。さやかは、まどかの肩に手を置いて、少し照れくさそうに笑っていた。マミは、いつもの柔らかい笑みを浮かべていた。杏子は、ポケットに片手を突っ込んで、もう片方の手をひらひらと振っていた。
その少し後ろに、玲佳が立っていた。
何も言わなかった。ただ、紅い目で、まっすぐにほむらを見ていた。
約束は、覚えている。
その目が、そう言っていた。
ほむらは、小さく頷いた。それから、紫色のスーツケースを引いて、保安検査場のほうへ歩き出した。
手続きを終えて、搭乗口の前の椅子に腰を下ろした。
窓の向こうで、飛行機が一機、滑走路を離れていくところだった。
一人で、海の向こうへ行く。武器を集める以外の危険は、大してない。なのに、胸の奥に、落ち着かないものが居座っていた。
それが旅の不安ではないことを、ほむらはわかっていた。
ほむらは目を閉じて、広く意識を投げた。
『インキュベーター』
返事があるとは、思っていなかった。
『なんだい、ほむら』
すぐに、返ってきた。
『……ここにもいるのね』
『人が大勢集まる場所だからね。素質のある子が、通りかかるかもしれない。手短に頼むよ。僕も、忙しいんだ』
相変わらず、何の温度もない声だった。
ほむらは目を開けて、窓の外の滑走路を見た。
『一つ、訊きたいことがあるの』
『なんだい』
『玲佳は、知らないはずのことを知っていた。自分でも、覚えていないことを。……あの子に、何が起きているの?』
少しの間があった。
『僕が何かを言って、君はそれを信じるのかい?』
キュゥべえはいつもと同じ声で言った。
ほむらは、答えなかった。
この生き物の言葉を、信じたことは一度もなかった。何度繰り返しても、一度も。それなのに、訊いてしまった。訊かずにはいられなかった自分に、ほむらは小さく唇を噛んだ。
搭乗開始を告げるアナウンスが、ロビーに響いた。
ほむらは、しばらく黙っていた。それから、立ち上がった。
『……もう、時間だから』
テレパシーを、切った。
紫色のスーツケースを引いて、ほむらは搭乗口のゲートをくぐった。